2022年11月06日
連続ブログ小説「聖地の剣」(26)もう1つの“忘れ物”
こんばんは。
ほぼひと夏を越えて書き続けた、わずか1日(約6時間)の佐賀での活動をもとにした話。
私は、この旅路で「“忘れ物”を取り返せたのか」と自問しますが、きっと、その答えは、これから書いていくほかはないのでしょう。
そして、この旅の終わりに出会った“ご夫婦”は、優しい表情をしていました。
――佐賀市内のメインストリート、中央大通り。
佐賀県が誇る“賢人たち”の銅像が多くある。
その姿は、いつも私に何かを考えるきっかけをくれる。写真に収めていれば、やがて見つめ直す機会が来るのだ。
やはり迷える“後輩”である私には、故郷・佐賀の偉大な“先輩”の助言が一番効くのかもしれない。

――2019年(令和元年)秋。このブログを始める直前の時期。
幕末・明治期の歴史で“薩長土肥”の肥前とは、佐賀のことだと聞くけれども、どんな役回りをしたのだか、それまでの人生で意識してこなかった私。
しかし、この年。「日本の近代化の影に、だいたい佐賀の存在あり」と大雑把ではありつつも、ハッキリと気付いた。
ボーッとした長い眠りから目覚めたかの如く、周辺情報を調べまくると、佐賀の先人たちの色々な活躍ぶりが見えて、面白い事このうえなかった。
――こうして近年、佐賀に“帰藩”しようものなら、大忙しとなっている。
早朝から食事もそこそこに大通りへと出て、メインストリートの銅像と黙しながらも対話し、長崎街道の空気に親しむ。
「その間、時の流れが変わる」という印象もあって、わずか数分でも、それなりに感得するところがある。
時を投げ棄てるように、慌ただしく過ごしている日常。これほど充実した時間はなかなか持つことができない。

だが、この時も先行きを急ぐ中で、私は1つの忘れ物をしていた。
『佐賀バルーンミュージアム』の存在感に気を取られ、その傍らに見えていた、ご夫婦の銅像に注目していなかったのだ。
〔参照(終盤):「私の失策とイルミネーションのご夫婦(前編)」〕
――記事を書く段階になり、「しまった!」と気付きがち。
たぶん、こういう細かい後悔を繰り返しながら生きていく。但し、それを取り返すことができるのも、また人生なのだろう。
〔参照:「私の失策とイルミネーションのご夫婦(後編)」〕
2年半の時を隔てて、佐賀に帰還した私。件の“ご夫婦”像の手前に至る。
「先頃は、失礼をしました。このたびは、しっかりご挨拶に伺いました。」
石井亮一・筆子夫妻の銅像。日本における「知的障がい児教育の先駆者」という肩書きが、一般的な説明になるだろうか。

――佐賀藩の重臣の家に生まれた、石井亮一。
時代はすでに明治へと移っていたが、とても成績優秀だった亮一は、鍋島家の奨学生に選ばれ、東京へと出た。
しかし、病弱だったため、佐賀出身者の多くが名をつらねるエリート技術官僚になるための検査には、身体の壮健さが足らず、不合格だった。
曲折はあったが、亮一はそれでもアメリカ留学を目指した。
英語を習得するため、立教学校(現・立教大学)に入り、創設者のウィリアムズ主教を通じてキリスト教と出会い、女子教育者としての道を歩むことになる。
――“無償の愛”を学ぶだけでなく実践する、亮一。
濃尾震災で親を失った孤児(孤女)が、人身売買の手にかからぬよう、救済に奔走したという。亮一が保護した中には、知的障がいを持つ子どももいた。
この出会いが、彼の進む道を決めたようだ。
当時の日本で知的障がいは全く理解されなかったが、亮一は「その子に応じた教育を施せば、その子なりの発達がある」と気付いた。

――隣に座る、石井筆子は長崎の大村藩出身。
大村藩を“勤王”の方針にまとめ、倒幕にも積極的に貢献し、明治新政府でも高官となった渡邉清の長女。
ヨーロッパ留学など華やかな経歴を持つ筆子だが、前夫とは死別してしまう。
筆子には知的障がいを持つ娘がおり、教育の活動を進めていた石井亮一に娘たちの相談をした。
そしてバザーを開くなど一緒に活動するうちに同志となり、やがて“ご夫婦”となったようだ。
――この2人の物語、日本初の知的障がい児施設の創設へつながる。
残念ながら、昨年(2021年)に放送された大河ドラマ『青天を衝け』の作中では、石井夫妻と、「滝乃川学園」が描かれる場面を見つけられなかった。
同作で主役だった、渋沢栄一も他界するまで理事長に就き、経営面を支えるほど、熱心な支援者だったので、登場を期待していたのだ。
その一途な心で、財界の超大物も動かした、2人の限りなく優しい眼差しは、学園の子供たちに向けられたものという。
石井亮一は、障がい児教育・福祉については多くの教えを残すも、自分自身については、「道を伝えて、己を伝えず」の精神で語らなかったそうだ。
――見返りを求めない、真っ直ぐな“小さき者”への愛。
佐賀の賢人には、強さだけでなく優しさを感じさせる方が多い。そして、やはり自分の功績をアピールしない人が多いのだ。
「…旅の終わりに、貴方のような“優しい先輩”に出会えて良かったです。」
奥ゆかしさと、一途な志の強さ。佐賀県出身というだけのつながりで、とても真似はできないが、郷里の先輩には違いなく、私には誇らしい。
長く続けた、このシリーズも次回までの予定になる。そこでは、佐賀を発つ際の景色をお見せしたいと考えている。
(続く)
ほぼひと夏を越えて書き続けた、わずか1日(約6時間)の佐賀での活動をもとにした話。
私は、この旅路で「“忘れ物”を取り返せたのか」と自問しますが、きっと、その答えは、これから書いていくほかはないのでしょう。
そして、この旅の終わりに出会った“ご夫婦”は、優しい表情をしていました。
――佐賀市内のメインストリート、中央大通り。
佐賀県が誇る“賢人たち”の銅像が多くある。
その姿は、いつも私に何かを考えるきっかけをくれる。写真に収めていれば、やがて見つめ直す機会が来るのだ。
やはり迷える“後輩”である私には、故郷・佐賀の偉大な“先輩”の助言が一番効くのかもしれない。
――2019年(令和元年)秋。このブログを始める直前の時期。
幕末・明治期の歴史で“薩長土肥”の肥前とは、佐賀のことだと聞くけれども、どんな役回りをしたのだか、それまでの人生で意識してこなかった私。
しかし、この年。「日本の近代化の影に、だいたい佐賀の存在あり」と大雑把ではありつつも、ハッキリと気付いた。
ボーッとした長い眠りから目覚めたかの如く、周辺情報を調べまくると、佐賀の先人たちの色々な活躍ぶりが見えて、面白い事このうえなかった。
――こうして近年、佐賀に“帰藩”しようものなら、大忙しとなっている。
早朝から食事もそこそこに大通りへと出て、メインストリートの銅像と黙しながらも対話し、長崎街道の空気に親しむ。
「その間、時の流れが変わる」という印象もあって、わずか数分でも、それなりに感得するところがある。
時を投げ棄てるように、慌ただしく過ごしている日常。これほど充実した時間はなかなか持つことができない。
だが、この時も先行きを急ぐ中で、私は1つの忘れ物をしていた。
『佐賀バルーンミュージアム』の存在感に気を取られ、その傍らに見えていた、ご夫婦の銅像に注目していなかったのだ。
〔参照(終盤):
――記事を書く段階になり、「しまった!」と気付きがち。
たぶん、こういう細かい後悔を繰り返しながら生きていく。但し、それを取り返すことができるのも、また人生なのだろう。
〔参照:
2年半の時を隔てて、佐賀に帰還した私。件の“ご夫婦”像の手前に至る。
「先頃は、失礼をしました。このたびは、しっかりご挨拶に伺いました。」
石井亮一・筆子夫妻の銅像。日本における「知的障がい児教育の先駆者」という肩書きが、一般的な説明になるだろうか。
――佐賀藩の重臣の家に生まれた、石井亮一。
時代はすでに明治へと移っていたが、とても成績優秀だった亮一は、鍋島家の奨学生に選ばれ、東京へと出た。
しかし、病弱だったため、佐賀出身者の多くが名をつらねるエリート技術官僚になるための検査には、身体の壮健さが足らず、不合格だった。
曲折はあったが、亮一はそれでもアメリカ留学を目指した。
英語を習得するため、立教学校(現・立教大学)に入り、創設者のウィリアムズ主教を通じてキリスト教と出会い、女子教育者としての道を歩むことになる。
――“無償の愛”を学ぶだけでなく実践する、亮一。
濃尾震災で親を失った孤児(孤女)が、人身売買の手にかからぬよう、救済に奔走したという。亮一が保護した中には、知的障がいを持つ子どももいた。
この出会いが、彼の進む道を決めたようだ。
当時の日本で知的障がいは全く理解されなかったが、亮一は「その子に応じた教育を施せば、その子なりの発達がある」と気付いた。
――隣に座る、石井筆子は長崎の大村藩出身。
大村藩を“勤王”の方針にまとめ、倒幕にも積極的に貢献し、明治新政府でも高官となった渡邉清の長女。
ヨーロッパ留学など華やかな経歴を持つ筆子だが、前夫とは死別してしまう。
筆子には知的障がいを持つ娘がおり、教育の活動を進めていた石井亮一に娘たちの相談をした。
そしてバザーを開くなど一緒に活動するうちに同志となり、やがて“ご夫婦”となったようだ。
――この2人の物語、日本初の知的障がい児施設の創設へつながる。
残念ながら、昨年(2021年)に放送された大河ドラマ『青天を衝け』の作中では、石井夫妻と、「滝乃川学園」が描かれる場面を見つけられなかった。
同作で主役だった、渋沢栄一も他界するまで理事長に就き、経営面を支えるほど、熱心な支援者だったので、登場を期待していたのだ。
その一途な心で、財界の超大物も動かした、2人の限りなく優しい眼差しは、学園の子供たちに向けられたものという。
石井亮一は、障がい児教育・福祉については多くの教えを残すも、自分自身については、「道を伝えて、己を伝えず」の精神で語らなかったそうだ。
――見返りを求めない、真っ直ぐな“小さき者”への愛。
佐賀の賢人には、強さだけでなく優しさを感じさせる方が多い。そして、やはり自分の功績をアピールしない人が多いのだ。
「…旅の終わりに、貴方のような“優しい先輩”に出会えて良かったです。」
奥ゆかしさと、一途な志の強さ。佐賀県出身というだけのつながりで、とても真似はできないが、郷里の先輩には違いなく、私には誇らしい。
長く続けた、このシリーズも次回までの予定になる。そこでは、佐賀を発つ際の景色をお見せしたいと考えている。
(続く)