2022年11月18日
「謎多き、小城の志士たち」
こんばんは。
“本編”の下書きをしながら、直近の展開を振り返る…私にとっては、一挙両得な企画を続けます。
さて、第2部の主人公に設定している江藤新平が、佐賀を脱藩して京の都で活動したのは、文久二年(1862年)の夏。
あえて他地域からの目線で語りますが、JR佐賀駅からは唐津線に乗り、3駅のところにある街が存在感を見せています。

――その街の名は、小城。
甘党には“シュガーロード”が通る佐賀の銘菓・小城羊羹で有名、辛党にとっては天山の名水が造り出す銘酒の里。
九州に留まらぬ勢いのアイスバー“ブラックモンブラン”の竹下製菓さん。地サイダーや“こどもびいる”の友桝飲料さん…など、特色のある企業も活躍。
すぐに思いつく“小城ブランド”を紹介してみました。ポジティブな良いイメージばかりが湧き出ることに驚きます。
――夏の祇園川にはホタルも舞い、涼しげな清水の滝も名所。
当地には江戸時代を通じて、佐賀藩の支藩の1つ・小城藩がありました。
『鎌倉殿の13人』でも登場した千葉常胤。もとは平氏である千葉一族から、小城の地に定着する肥前千葉氏が起こります。
江藤新平は、その肥前千葉氏に連なる家系の出身といわれ、小城とは深い関係にあります。

――剣を学ぶのも、小城で。
江藤は、当地にあった永田右源次の道場で、剣の腕を磨いたと言われます。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」②(小城の秘剣)〕
単に一地域の剣術道場と甘くみてはいけません。レベルの高さがうかがえる話があります。道場主のご子息には、明治期の剣道家・辻真平がいます。
明治期には、佐賀の警察や学校でも剣道を教えていたようですが、幕末期、真剣での斬り合いをくぐってきた志士たちも唸らせる腕前だったようです。
そして現代でも剣道部が「ヤー、トー」と演武を行う、“日本剣道形”。辻真平は、その基礎を作った主要な剣道家の1人として名を残すことに。
――話を幕末に戻して。頼れる先輩も、小城にあり。
江藤が通ったその道場で、兄弟子だったのが富岡敬明。明治期には熊本や山梨の地域行政で功績を残し、各地での知名度の方が高いかもしれません。
佐賀を脱藩した江藤が、京都から帰ってきた時に支援した人物で、脱藩する時にも手引きしていたという説もあります。
〔参照:第18話「京都見聞」④(湯呑みより茶が走る)〕
富岡敬明は、江藤だけでなく、佐賀城下の結社“義祭同盟”の他のメンバーとも関わりがあったようです。

――小城の視点から、新しい見え方があるかも…
本編・第18話「京都見聞」では、もう1人。小城の出身者が登場しました。
〔参照(後半):第18話「京都見聞」⑥(もう1人の脱藩者)〕
突然、京の都に現れて、江藤の手助けをした“祇園太郎”。本名は古賀利渉といったそうですが、この人物も“義祭同盟”とつながりがあったと言われます。
“義祭同盟”は、南北朝時代の朝廷の忠臣・楠木正成を祀りますから、尊王の志士にはピッタリの趣旨です。
――脱藩の志士・“祇園太郎”について。
小城支藩内で大庄屋を務めていましたが、江藤より先に佐賀を脱藩します。
上方(京・大坂)での尊王攘夷の活動を目指したか、訪ねたのは播磨(兵庫)。ここで、河野鉄兜という儒学者の門を叩きます。
日米修好通商条約が締結された安政五年(1858年)。本格的な開国の時期を迎えて、攘夷論も活発となっていた時期でした。
――訪ねた先の、播磨の河野鉄兜という人物も…
“義祭同盟”の主宰者・枝吉神陽と交流があったとする情報を見かけました。
この情報を見た時に、少しゾクゾクしました。実のところ「すべてが、枝吉神陽の掌の上で動いていたのでは…」という想像をしたからです。
なお、“本編”では江藤が語らずとも、師匠の神陽先生は脱藩の全容を見通すような描写にしています。
〔参照(中盤):第17話「佐賀脱藩」㉑(郷里を背に)〕

――安政年間から、上方で活動した“祇園太郎”は…
江藤の脱藩前後にも、長州藩の人物や公家たちとも人脈があった様子です。
なお京の都で、江藤の手助けをする筋書きは、資料で得られた情報ではないので、“創作”ということになります。
一方で、江藤に、いかに才覚があっても、京の都を知る誰かの協力はあったのでは…という推測をするところがあります。
謎多き小城の志士・“祇園太郎”の登場を、ここに設定した理由です。
〔参照:第18話「京都見聞」⑩(小城の風が、都に吹いた)〕
――当てもなく、見知らぬ大都会に出た時に、
目的を理解してくれる同郷の人が、案内に出てくれると心強いのでは…という気持ちで演出しました。
江藤新平を“超人”として描けていない傾向はありますが、それが書いていて面白いところでもあります。
佐賀脱藩の“伝説”をサポートした、小城の志士たち。私の描く物語では、これからも活躍する場面がありそうです。
“本編”の下書きをしながら、直近の展開を振り返る…私にとっては、一挙両得な企画を続けます。
さて、第2部の主人公に設定している江藤新平が、佐賀を脱藩して京の都で活動したのは、文久二年(1862年)の夏。
あえて他地域からの目線で語りますが、JR佐賀駅からは唐津線に乗り、3駅のところにある街が存在感を見せています。
――その街の名は、小城。
甘党には“シュガーロード”が通る佐賀の銘菓・小城羊羹で有名、辛党にとっては天山の名水が造り出す銘酒の里。
九州に留まらぬ勢いのアイスバー“ブラックモンブラン”の竹下製菓さん。地サイダーや“こどもびいる”の友桝飲料さん…など、特色のある企業も活躍。
すぐに思いつく“小城ブランド”を紹介してみました。ポジティブな良いイメージばかりが湧き出ることに驚きます。
――夏の祇園川にはホタルも舞い、涼しげな清水の滝も名所。
当地には江戸時代を通じて、佐賀藩の支藩の1つ・小城藩がありました。
『鎌倉殿の13人』でも登場した千葉常胤。もとは平氏である千葉一族から、小城の地に定着する肥前千葉氏が起こります。
江藤新平は、その肥前千葉氏に連なる家系の出身といわれ、小城とは深い関係にあります。
――剣を学ぶのも、小城で。
江藤は、当地にあった永田右源次の道場で、剣の腕を磨いたと言われます。
〔参照:
単に一地域の剣術道場と甘くみてはいけません。レベルの高さがうかがえる話があります。道場主のご子息には、明治期の剣道家・辻真平がいます。
明治期には、佐賀の警察や学校でも剣道を教えていたようですが、幕末期、真剣での斬り合いをくぐってきた志士たちも唸らせる腕前だったようです。
そして現代でも剣道部が「ヤー、トー」と演武を行う、“日本剣道形”。辻真平は、その基礎を作った主要な剣道家の1人として名を残すことに。
――話を幕末に戻して。頼れる先輩も、小城にあり。
江藤が通ったその道場で、兄弟子だったのが富岡敬明。明治期には熊本や山梨の地域行政で功績を残し、各地での知名度の方が高いかもしれません。
佐賀を脱藩した江藤が、京都から帰ってきた時に支援した人物で、脱藩する時にも手引きしていたという説もあります。
〔参照:
富岡敬明は、江藤だけでなく、佐賀城下の結社“義祭同盟”の他のメンバーとも関わりがあったようです。
――小城の視点から、新しい見え方があるかも…
本編・第18話「京都見聞」では、もう1人。小城の出身者が登場しました。
〔参照(後半):
突然、京の都に現れて、江藤の手助けをした“祇園太郎”。本名は古賀利渉といったそうですが、この人物も“義祭同盟”とつながりがあったと言われます。
“義祭同盟”は、南北朝時代の朝廷の忠臣・楠木正成を祀りますから、尊王の志士にはピッタリの趣旨です。
――脱藩の志士・“祇園太郎”について。
小城支藩内で大庄屋を務めていましたが、江藤より先に佐賀を脱藩します。
上方(京・大坂)での尊王攘夷の活動を目指したか、訪ねたのは播磨(兵庫)。ここで、河野鉄兜という儒学者の門を叩きます。
日米修好通商条約が締結された安政五年(1858年)。本格的な開国の時期を迎えて、攘夷論も活発となっていた時期でした。
――訪ねた先の、播磨の河野鉄兜という人物も…
“義祭同盟”の主宰者・枝吉神陽と交流があったとする情報を見かけました。
この情報を見た時に、少しゾクゾクしました。実のところ「すべてが、枝吉神陽の掌の上で動いていたのでは…」という想像をしたからです。
なお、“本編”では江藤が語らずとも、師匠の神陽先生は脱藩の全容を見通すような描写にしています。
〔参照(中盤):
――安政年間から、上方で活動した“祇園太郎”は…
江藤の脱藩前後にも、長州藩の人物や公家たちとも人脈があった様子です。
なお京の都で、江藤の手助けをする筋書きは、資料で得られた情報ではないので、“創作”ということになります。
一方で、江藤に、いかに才覚があっても、京の都を知る誰かの協力はあったのでは…という推測をするところがあります。
謎多き小城の志士・“祇園太郎”の登場を、ここに設定した理由です。
〔参照:
――当てもなく、見知らぬ大都会に出た時に、
目的を理解してくれる同郷の人が、案内に出てくれると心強いのでは…という気持ちで演出しました。
江藤新平を“超人”として描けていない傾向はありますが、それが書いていて面白いところでもあります。
佐賀脱藩の“伝説”をサポートした、小城の志士たち。私の描く物語では、これからも活躍する場面がありそうです。