2022年11月30日
第18話「京都見聞」⑭(若き公家の星)
こんばんは。
幕末期、海外からの先端技術の吸収には熱心だった佐賀藩ですが、動乱の京都政局での主導権争いにはあまり関わっていません。
そのため、江藤新平の脱藩は、明治初期に佐賀藩が“薩長土肥”と呼ばれた一角に入ることに大きい影響がありました。
前回で、京都から長崎に向かっていた“祇園太郎”が佐賀の峠で語ったように、江藤は京の都で有力な公家との接点を持つことになります。
〔参照:第18話「京都見聞」⑬(ある佐賀の峠にて)〕

――1862年(文久二年)夏。京の都。
風は通らないものの、屋敷の中は程よく日陰にも入って「いけずな蒸し暑さ」と評される、京都の夏にしては、まだ過ごしやすい昼下がり。
いつになく整った衣服に身を包み、江藤新平はある貴人と向き合って、ずっと下座に控えている。
「江藤とやら、佐賀から来たというのはまことか。」
「佐賀を抜け、京に参りました。」
江藤が話をしている“貴人”とは、かなり若い公家である。名を、姉小路公知といい、年の頃は、まだ二十歳ぐらいと見えて、江藤より明らかに年下だ。
その若さだが、近年では尊王攘夷派の公家として、頭角を現している。覇気があって、志士たちの受けも良いため、長州藩とも関わりが強い。
――公家だけあって品はあるが、その舌鋒は鋭かった。
「佐賀の鍋島は、徳川におもねり、勤王の志が見えぬと聞くが、どうじゃ。」
「左様なことは、ございません。」
江藤はきっぱりと否定した。
「…ほほ、可笑しなことを言うのう。鍋島が、勤王に動く気配は見えへんぞ。」
「それも帝の御為、日本(ひのもと)のためにございます。」
「ほう、動かぬことが何故、為(ため)になるのや。」

――当時、佐賀藩の意図は理解されていなかった。
「佐賀は動かぬのではありません。動けぬのです。」
「なにゆえや?」
公家の中でも、姉小路は当時「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったとも言われ、しかも若く血気盛んである。江藤の返答に、食ってかかるようでもあった。
「姉小路卿は、夷狄(いてき)の力量をご承知か。」
相手は公家であるから、佐賀の下級武士とは著しい身分の差があるが、江藤に全くひるむ様子は無い。
――江藤は、西洋列強の力を知っているかと逆に問いただす。
「…夷狄に睨(にら)まれて動けんとは、腰抜け武士やないか。」
江藤からの質問返しに、一瞬たじろいだ姉小路だが、鋭い言葉を放った。
「黒船の船足がいかほどのものか、ご存知か。彼の者たちは“蒸気仕掛け”にて、自在に船を操ります。」
蒸気船の速度に言及する、江藤。これを佐賀藩は自力で作ろうとしている。
「大筒とて、我が国のものとは比にはなりませぬぞ。」

――佐賀は、すでに鉄製大砲を量産しているが、
それとて西洋の物には及ばぬと、佐賀の者は知っている。だからこそ、必死で研究をするのだ。江藤は続けた。
姉小路は先ほどの“腰抜け武士”との一言を発してから黙って聞いている。
「佐賀が長崎を守護するは、帝より託されたお役目。」
江藤の声は、いつもより抑えてはいても、ビリビリと通っていく。
――姉小路は、じっと言葉を発する江藤を見ていた。
「我ら佐賀の者は夷狄に睨(にら)まれておるのではなく、長崎にて睨み合っておるのです。」
日本の表玄関・長崎港を守ることが、江戸期を通じて佐賀藩の重責である。そこで気を緩めれば、国の面目は丸つぶれとなる。
長崎では、海外との貿易が開港後、さらに活発となっており、「自国の商人を守る必要がある」と、警備の弱さを口実として異国から介入されかねない。
「時には、身を挺して異国船を止めたこともございます。」
佐賀藩は十数年前にも海峡に船を並べ、諫早領や武雄領などの部隊で警備を固め、フランス船の進入を阻止したりと、最前線の苦労を重ねている。

――そのまま江藤が語る。公家らしくもなく、姉小路は目線を外さない。
江藤は、西洋の技術を導入し、列強と向き合う佐賀藩の立場を説いた。
「…では、帝がその任を解き、京にて勤王せよと命ぜられた時はいかがする。」
姉小路は、質問を変えた。長崎警備の役目を外したら、どう動くのかと。
「それが帝の御心とあれば、佐賀は命に従いまする。」
佐賀藩の代表でもないのに、江藤は言い切った。
「…ほっ。」
――扇で口元を隠しながらも、愉快そうに笑いだす、姉小路。
「ほほほ…おもろい男やの。」
もはや姉小路に、江藤を問い詰める気はないらしい。
「そなたは佐賀を抜けて、鍋島を捨てたんやないのか?」
脱藩者であるはずの江藤が、堂々と佐賀藩の立場を弁明し、藩主・鍋島家の朝廷への忠節を語ることがおかしかったようだ。
先ほどまでと違って、急に上機嫌となった、姉小路の反応に困惑する江藤。
「江藤とやら、名を覚えておこう。また、近きうちにあらためて参れ。」
こうして江藤は、京で力を持つ公家・姉小路公知との面識を得たのである。
(続く)
幕末期、海外からの先端技術の吸収には熱心だった佐賀藩ですが、動乱の京都政局での主導権争いにはあまり関わっていません。
そのため、江藤新平の脱藩は、明治初期に佐賀藩が“薩長土肥”と呼ばれた一角に入ることに大きい影響がありました。
前回で、京都から長崎に向かっていた“祇園太郎”が佐賀の峠で語ったように、江藤は京の都で有力な公家との接点を持つことになります。
〔参照:
――1862年(文久二年)夏。京の都。
風は通らないものの、屋敷の中は程よく日陰にも入って「いけずな蒸し暑さ」と評される、京都の夏にしては、まだ過ごしやすい昼下がり。
いつになく整った衣服に身を包み、江藤新平はある貴人と向き合って、ずっと下座に控えている。
「江藤とやら、佐賀から来たというのはまことか。」
「佐賀を抜け、京に参りました。」
江藤が話をしている“貴人”とは、かなり若い公家である。名を、姉小路公知といい、年の頃は、まだ二十歳ぐらいと見えて、江藤より明らかに年下だ。
その若さだが、近年では尊王攘夷派の公家として、頭角を現している。覇気があって、志士たちの受けも良いため、長州藩とも関わりが強い。
――公家だけあって品はあるが、その舌鋒は鋭かった。
「佐賀の鍋島は、徳川におもねり、勤王の志が見えぬと聞くが、どうじゃ。」
「左様なことは、ございません。」
江藤はきっぱりと否定した。
「…ほほ、可笑しなことを言うのう。鍋島が、勤王に動く気配は見えへんぞ。」
「それも帝の御為、日本(ひのもと)のためにございます。」
「ほう、動かぬことが何故、為(ため)になるのや。」
――当時、佐賀藩の意図は理解されていなかった。
「佐賀は動かぬのではありません。動けぬのです。」
「なにゆえや?」
公家の中でも、姉小路は当時「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったとも言われ、しかも若く血気盛んである。江藤の返答に、食ってかかるようでもあった。
「姉小路卿は、夷狄(いてき)の力量をご承知か。」
相手は公家であるから、佐賀の下級武士とは著しい身分の差があるが、江藤に全くひるむ様子は無い。
――江藤は、西洋列強の力を知っているかと逆に問いただす。
「…夷狄に睨(にら)まれて動けんとは、腰抜け武士やないか。」
江藤からの質問返しに、一瞬たじろいだ姉小路だが、鋭い言葉を放った。
「黒船の船足がいかほどのものか、ご存知か。彼の者たちは“蒸気仕掛け”にて、自在に船を操ります。」
蒸気船の速度に言及する、江藤。これを佐賀藩は自力で作ろうとしている。
「大筒とて、我が国のものとは比にはなりませぬぞ。」
――佐賀は、すでに鉄製大砲を量産しているが、
それとて西洋の物には及ばぬと、佐賀の者は知っている。だからこそ、必死で研究をするのだ。江藤は続けた。
姉小路は先ほどの“腰抜け武士”との一言を発してから黙って聞いている。
「佐賀が長崎を守護するは、帝より託されたお役目。」
江藤の声は、いつもより抑えてはいても、ビリビリと通っていく。
――姉小路は、じっと言葉を発する江藤を見ていた。
「我ら佐賀の者は夷狄に睨(にら)まれておるのではなく、長崎にて睨み合っておるのです。」
日本の表玄関・長崎港を守ることが、江戸期を通じて佐賀藩の重責である。そこで気を緩めれば、国の面目は丸つぶれとなる。
長崎では、海外との貿易が開港後、さらに活発となっており、「自国の商人を守る必要がある」と、警備の弱さを口実として異国から介入されかねない。
「時には、身を挺して異国船を止めたこともございます。」
佐賀藩は十数年前にも海峡に船を並べ、諫早領や武雄領などの部隊で警備を固め、フランス船の進入を阻止したりと、最前線の苦労を重ねている。
――そのまま江藤が語る。公家らしくもなく、姉小路は目線を外さない。
江藤は、西洋の技術を導入し、列強と向き合う佐賀藩の立場を説いた。
「…では、帝がその任を解き、京にて勤王せよと命ぜられた時はいかがする。」
姉小路は、質問を変えた。長崎警備の役目を外したら、どう動くのかと。
「それが帝の御心とあれば、佐賀は命に従いまする。」
佐賀藩の代表でもないのに、江藤は言い切った。
「…ほっ。」
――扇で口元を隠しながらも、愉快そうに笑いだす、姉小路。
「ほほほ…おもろい男やの。」
もはや姉小路に、江藤を問い詰める気はないらしい。
「そなたは佐賀を抜けて、鍋島を捨てたんやないのか?」
脱藩者であるはずの江藤が、堂々と佐賀藩の立場を弁明し、藩主・鍋島家の朝廷への忠節を語ることがおかしかったようだ。
先ほどまでと違って、急に上機嫌となった、姉小路の反応に困惑する江藤。
「江藤とやら、名を覚えておこう。また、近きうちにあらためて参れ。」
こうして江藤は、京で力を持つ公家・姉小路公知との面識を得たのである。
(続く)