2022年11月23日
「時代のうねりの中で」
こんばんは。今年も11月下旬。開催中のワールドカップ2022では、日本代表の初戦もキックオフ直前…という状況ですが、いつもの内容を綴っていきます。
ここ2回ほど、私の見たい“幕末佐賀藩の大河ドラマ”のイメージの現在地点を語ってきました。
年内には、この“本編”の第18話「京都見聞」を完結させたい!というのは、目標としてお聞きください。今のペースだと年越しにはなってしまいそうです。
――日本史としても、大きな転換期。
「太平の世」と語られた、徳川幕藩体制の時代が、大きな動揺を迎えた時期。1860年(安政七年・万延元年)から“本編”も、第2部として展開しています。
その切り替わりの出来事を、同年三月の“桜田門外の変”に設定しました。
佐賀藩の大河ドラマのイメージなのですが、その立ち位置の変化には、当時の幕府大老・井伊直弼の非業の最期が関わっています。

――第1部の終わり、第15話「江戸動乱」(1860年頃)。
時代の趨勢を見て、日米修好通商条約の締結を容認。また、先代将軍と関係の近い、紀州(和歌山)藩主の徳川慶福(のち家茂)を将軍に擁立します。
開国の責任を背負った井伊直弼。幕府の権威を維持しつつ、世界に向けて港を開き、周囲に列強がひしめく難局を突破しようと試みました。
○日本史的な見どころ
「桜田門外の変」
実は、居合の達人だった井伊直弼。襲撃した浪士からの一発の銃弾が貫通して行動不能となり、おそらくは抜刀もできないまま討ち取られたようです。
本編では、井伊がアメリカに派遣し、西洋の近代を学ぶ機会を与えた“世界を廻った者”たちに、希望をつなぎながら落命しました。
〔参照:第15話「江戸動乱」⑮(雪の舞う三月)〕
○“佐賀県”的な見どころ
「鍋島直正と親しい」
井伊直弼は事件の1か月ほど前に、江戸の佐賀藩邸も訪れています。ちなみに大老が、外様大名の屋敷に行くのは、きわめて異例の事だと聞きます。
“武備開国”を目指し、「通商で富を得て、無法な異国だけを打ち払う…」この認識が共有できる“同志”だったようです。
〔参照(後半):第15話「江戸動乱」⑭(“赤鬼”が背負うもの)〕

――第2部の始まり、第16話「攘夷沸騰」(1861年頃)。
幕府は赤鬼と恐れられ、豪腕で知られた大老・井伊直弼を失い、混乱します。
しかし井伊は幕府旗本の中から、ある開明的な人物を見い出し、条約の批准のためにアメリカに派遣していました。
徳川の時代に西洋式造船所などを具体化し、後世には“明治近代化の父”の1人とも評される、小栗忠順(上野介)です。
○日本史的な見どころ
「ポサドニック号事件(対馬事件)」
船体修理を名目に、現・長崎県の対馬に停泊して居座ったロシア軍艦。幕府の外国奉行・小栗忠順は現地入りして、退去を求めます。
幕府はイギリスからの圧力も借りて、そのポサドニック号を撤退させますが、小栗は列強との力の差に悔しさを噛みしめます。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」⑲(強くなりたいものだ)〕
○“佐賀県”的な見どころ
「対馬藩士も頑張る」
佐賀藩士・佐野常民(栄寿)は幕府から預かった軍艦(観光丸)の船長として、対馬に同行。佐賀藩の蒸気軍艦(電流丸)も周辺海域の警戒にあたります。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」⑱(蒸気船の集まる海域)〕
危機にあった対馬藩の田代領(現・鳥栖市東部、基山町)の対馬藩士たちは一戦交える覚悟で対馬本島に来て、守りを固め、抵抗を繰り広げたようです。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」⑳(基山の誇り、田代の想い)〕

――そして直前の、第17話「佐賀脱藩」(1862年頃)。
白昼に大老が襲撃され、外国船は離島に居座る…“内憂外患”の徳川政権。朝廷に近づく、公武合体により幕府の権威の回復をはかる策を進めます。
孝明天皇の妹・和宮を、第14代将軍・徳川家茂に降嫁する計画が進みます。これは、幕府にとって起死回生の一手でした。
○日本史的な見どころ
「坂下門外の変」
皇女・和宮の“奪還”などを唱える浪士の、公武合体を進めた老中・安藤信正への襲撃事件。安藤老中は退避に成功するも、武士らしくないと批判が集中。
〔参照(前半):第17話「佐賀脱藩」⑰(救おうとする者たち)〕
江藤新平の親友・中野方蔵は、事件への関与を疑われ、獄中で帰らぬ人に。この出来事は佐賀を脱藩した、江藤の動機になったと言われます。
〔参照(前半):第17話「佐賀脱藩」⑯(つながりは諸刃の剣)〕
○“佐賀県”的な見どころ
「小笠原長行の視線」
唐津藩(現・唐津市周辺)の藩主名代(代理)だった、小笠原長行は老中格として若き将軍・家茂を支えることに。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑤(若き“将軍”への視線)〕
徳川家茂は心優しい人物だったようで、妻・和宮とも真っ直ぐな愛を育みます。
若い徳川家茂を影から見守る小笠原長行。何だか、“保護者目線”です。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑬(籠鳥は、雲を恋う)〕

――では、第18話「京都見聞」の後半に戻ろうと思います。
「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が亡くなったことで、佐賀藩・鍋島直正と幕府中枢とのつながりが弱まり、独自路線を取り始めました。(1860年)
「ポサドニック号事件」では、近隣の対馬藩が危機にさらされ、列強の野心をより身近に感じることになりました。(1861年)
「坂下門外の変」で幕府の混迷は深まり、伝統的な権威がある朝廷の存在感は増し、各地の雄藩はこぞって朝廷に接近を図っています。(1862年)
――各藩が京を目指す“上洛競争”の中、
慎重な姿勢を続ける佐賀藩。この時期の京の都には、すごく目立つ動きをした佐賀からの脱藩者が居ました。その名は、江藤新平。
概ね以上のような、時代背景の解釈で進めています。1862年(文久二年)夏。京都を主な舞台として、本編を再開したいと思います。
ここ2回ほど、私の見たい“幕末佐賀藩の大河ドラマ”のイメージの現在地点を語ってきました。
年内には、この“本編”の第18話「京都見聞」を完結させたい!というのは、目標としてお聞きください。今のペースだと年越しにはなってしまいそうです。
――日本史としても、大きな転換期。
「太平の世」と語られた、徳川幕藩体制の時代が、大きな動揺を迎えた時期。1860年(安政七年・万延元年)から“本編”も、第2部として展開しています。
その切り替わりの出来事を、同年三月の“桜田門外の変”に設定しました。
佐賀藩の大河ドラマのイメージなのですが、その立ち位置の変化には、当時の幕府大老・井伊直弼の非業の最期が関わっています。
――第1部の終わり、第15話「江戸動乱」(1860年頃)。
時代の趨勢を見て、日米修好通商条約の締結を容認。また、先代将軍と関係の近い、紀州(和歌山)藩主の徳川慶福(のち家茂)を将軍に擁立します。
開国の責任を背負った井伊直弼。幕府の権威を維持しつつ、世界に向けて港を開き、周囲に列強がひしめく難局を突破しようと試みました。
○日本史的な見どころ
「桜田門外の変」
実は、居合の達人だった井伊直弼。襲撃した浪士からの一発の銃弾が貫通して行動不能となり、おそらくは抜刀もできないまま討ち取られたようです。
本編では、井伊がアメリカに派遣し、西洋の近代を学ぶ機会を与えた“世界を廻った者”たちに、希望をつなぎながら落命しました。
〔参照:
○“佐賀県”的な見どころ
「鍋島直正と親しい」
井伊直弼は事件の1か月ほど前に、江戸の佐賀藩邸も訪れています。ちなみに大老が、外様大名の屋敷に行くのは、きわめて異例の事だと聞きます。
“武備開国”を目指し、「通商で富を得て、無法な異国だけを打ち払う…」この認識が共有できる“同志”だったようです。
〔参照(後半):
――第2部の始まり、第16話「攘夷沸騰」(1861年頃)。
幕府は赤鬼と恐れられ、豪腕で知られた大老・井伊直弼を失い、混乱します。
しかし井伊は幕府旗本の中から、ある開明的な人物を見い出し、条約の批准のためにアメリカに派遣していました。
徳川の時代に西洋式造船所などを具体化し、後世には“明治近代化の父”の1人とも評される、小栗忠順(上野介)です。
○日本史的な見どころ
「ポサドニック号事件(対馬事件)」
船体修理を名目に、現・長崎県の対馬に停泊して居座ったロシア軍艦。幕府の外国奉行・小栗忠順は現地入りして、退去を求めます。
幕府はイギリスからの圧力も借りて、そのポサドニック号を撤退させますが、小栗は列強との力の差に悔しさを噛みしめます。
〔参照:
○“佐賀県”的な見どころ
「対馬藩士も頑張る」
佐賀藩士・佐野常民(栄寿)は幕府から預かった軍艦(観光丸)の船長として、対馬に同行。佐賀藩の蒸気軍艦(電流丸)も周辺海域の警戒にあたります。
〔参照:
危機にあった対馬藩の田代領(現・鳥栖市東部、基山町)の対馬藩士たちは一戦交える覚悟で対馬本島に来て、守りを固め、抵抗を繰り広げたようです。
〔参照:
――そして直前の、第17話「佐賀脱藩」(1862年頃)。
白昼に大老が襲撃され、外国船は離島に居座る…“内憂外患”の徳川政権。朝廷に近づく、公武合体により幕府の権威の回復をはかる策を進めます。
孝明天皇の妹・和宮を、第14代将軍・徳川家茂に降嫁する計画が進みます。これは、幕府にとって起死回生の一手でした。
○日本史的な見どころ
「坂下門外の変」
皇女・和宮の“奪還”などを唱える浪士の、公武合体を進めた老中・安藤信正への襲撃事件。安藤老中は退避に成功するも、武士らしくないと批判が集中。
〔参照(前半):
江藤新平の親友・中野方蔵は、事件への関与を疑われ、獄中で帰らぬ人に。この出来事は佐賀を脱藩した、江藤の動機になったと言われます。
〔参照(前半):
○“佐賀県”的な見どころ
「小笠原長行の視線」
唐津藩(現・唐津市周辺)の藩主名代(代理)だった、小笠原長行は老中格として若き将軍・家茂を支えることに。
〔参照:
徳川家茂は心優しい人物だったようで、妻・和宮とも真っ直ぐな愛を育みます。
若い徳川家茂を影から見守る小笠原長行。何だか、“保護者目線”です。
〔参照:
――では、第18話「京都見聞」の後半に戻ろうと思います。
「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が亡くなったことで、佐賀藩・鍋島直正と幕府中枢とのつながりが弱まり、独自路線を取り始めました。(1860年)
「ポサドニック号事件」では、近隣の対馬藩が危機にさらされ、列強の野心をより身近に感じることになりました。(1861年)
「坂下門外の変」で幕府の混迷は深まり、伝統的な権威がある朝廷の存在感は増し、各地の雄藩はこぞって朝廷に接近を図っています。(1862年)
――各藩が京を目指す“上洛競争”の中、
慎重な姿勢を続ける佐賀藩。この時期の京の都には、すごく目立つ動きをした佐賀からの脱藩者が居ました。その名は、江藤新平。
概ね以上のような、時代背景の解釈で進めています。1862年(文久二年)夏。京都を主な舞台として、本編を再開したいと思います。
Posted by SR at 21:20 | Comments(0) | 構成編(P)
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