2025年03月01日
「シリーズ・増える賢人の謎(⑦25賢人・佐賀銀行前)」
こんばんは。佐賀市内のメインストリートを歩くイメージで、軽快に進めていく…予定だったこのシリーズ。諸般の事情があって記事の間隔が空いています。
佐賀駅から中央大通りを南に進む設定です。なお、使用する写真は5~6年ほど前のものが多く、現状と変わっている場合もあるので、ご留意ください。
当ブログは主に「佐賀藩」の話題を綴りますが、現在の「佐賀県」は江戸期の「唐津藩」も「対馬藩(田代領)」も含んでいる事は、ご存じの方も多いでしょう。

私は九州以外の地域にいますので、「唐津という街があるのは知っているが、佐賀県とは思わなかった…」という反応も、けっこう聞くことがあります。
今回は「佐賀県ゆかりの偉人・25名」の中でも、かつて唐津市周辺に存在した藩が輩出した、2名の“賢人”のモニュメントをご紹介します。
――幕末期。唐津藩もまた、激動の時代に立ち向かっていた。
江戸時代にずっと、鍋島家が治めていた佐賀藩と違って、お殿様の家が次々と交代をしていたのが唐津藩。
幕末黎明期の「天保の改革」を行った、水野忠邦。その水野家が浜松に移って、代わりに唐津藩主に入ったのが小笠原家。
激動の時代に入っても忠義を尽くし、揺らいでいく幕府を支えて、イギリスなど列強との交渉に心を砕いたのが、唐津の若殿(藩主の名代)・小笠原長行公。

――こうして明治維新では、唐津藩は“勝者”になれませんでした。
小笠原長行も、よりによって、この時期に幕府の老中として奮闘した人物。
しっかりと海外を見つめて、現実的な対応をした印象はありますが、その強烈な苦労が語られることも、ほとんどありません。
政治的には不遇だった小笠原さまですが、開明的な人だったらしく、その影響は日本の近代につながっています。
後に唐津藩の英学校「耐恒寮」から、“ある分野”で突出した業績を残す人たちが出ているのです。

――では、佐賀市内の大通りに場面を戻します。
10名のモニュメントが揃っていた、駅前のひろばから大通りを少し歩くと、左手に佐賀銀行本店の建物が見えてきます。
そこに、お二人の唐津藩出身者が並んでいました。2名の職業は「建築家」。
幕末の唐津から、明治へとつながったもの。それは日本の近代建築の先駆者たちだったのですね。
立ち姿でメガネをかけた人が、辰野金吾。椅子に腰掛けた方が、曾禰達蔵。
2人には共通の経歴があり、先述の英学校教師として1年ほど唐津に来た高橋是清に師事。のち、工部大学校でイギリス人のコンドルに建築を学びます。
――その後の2名の活躍は…
辰野金吾は、明治の人々に「これじゃあ、辰野“堅固”だ!」と言われるほど、頑丈な建物を設計。
美しくて強い建物を造った、建築家・辰野の業績は、全国の各地に残りますが、やはり目立つのは「東京駅」でしょうか。

一方の曾禰(そね)達蔵は、その東京駅に隣接した丸の内に日本初のオフィスビル街の建築を手掛ける、という業績が残ります。
建築の師匠がイギリス人だったので、やっぱり“ロンドン風”だったようですね。曾禰の建築は、日本最大のビジネス街へと発展していきます。
――なお、曾禰達蔵の出生地は、
江戸にあった唐津藩邸だったようで、先ほどの小笠原長行公に少年期から仕えていたようです。
主君は不遇でしたが、才能を見いだした家臣が活躍したことで、少しは小笠原さまの志も果たされたのかもしれません。
後進の建築家の育成にも力を注ぎ、「近代建築の“賢人”」とも言える、お二人のモニュメントは佐賀市内だけでなく、唐津市内にも設置されたと聞きます。
有明海に近い県南部の佐賀市から、玄海灘を見つめる県北部の唐津市まで想いを馳せる…こともできそうです。
佐賀駅から中央大通りを南に進む設定です。なお、使用する写真は5~6年ほど前のものが多く、現状と変わっている場合もあるので、ご留意ください。
当ブログは主に「佐賀藩」の話題を綴りますが、現在の「佐賀県」は江戸期の「唐津藩」も「対馬藩(田代領)」も含んでいる事は、ご存じの方も多いでしょう。
私は九州以外の地域にいますので、「唐津という街があるのは知っているが、佐賀県とは思わなかった…」という反応も、けっこう聞くことがあります。
今回は「佐賀県ゆかりの偉人・25名」の中でも、かつて唐津市周辺に存在した藩が輩出した、2名の“賢人”のモニュメントをご紹介します。
――幕末期。唐津藩もまた、激動の時代に立ち向かっていた。
江戸時代にずっと、鍋島家が治めていた佐賀藩と違って、お殿様の家が次々と交代をしていたのが唐津藩。
幕末黎明期の「天保の改革」を行った、水野忠邦。その水野家が浜松に移って、代わりに唐津藩主に入ったのが小笠原家。
激動の時代に入っても忠義を尽くし、揺らいでいく幕府を支えて、イギリスなど列強との交渉に心を砕いたのが、唐津の若殿(藩主の名代)・小笠原長行公。
――こうして明治維新では、唐津藩は“勝者”になれませんでした。
小笠原長行も、よりによって、この時期に幕府の老中として奮闘した人物。
しっかりと海外を見つめて、現実的な対応をした印象はありますが、その強烈な苦労が語られることも、ほとんどありません。
政治的には不遇だった小笠原さまですが、開明的な人だったらしく、その影響は日本の近代につながっています。
後に唐津藩の英学校「耐恒寮」から、“ある分野”で突出した業績を残す人たちが出ているのです。
――では、佐賀市内の大通りに場面を戻します。
10名のモニュメントが揃っていた、駅前のひろばから大通りを少し歩くと、左手に佐賀銀行本店の建物が見えてきます。
そこに、お二人の唐津藩出身者が並んでいました。2名の職業は「建築家」。
幕末の唐津から、明治へとつながったもの。それは日本の近代建築の先駆者たちだったのですね。
立ち姿でメガネをかけた人が、辰野金吾。椅子に腰掛けた方が、曾禰達蔵。
2人には共通の経歴があり、先述の英学校教師として1年ほど唐津に来た高橋是清に師事。のち、工部大学校でイギリス人のコンドルに建築を学びます。
――その後の2名の活躍は…
辰野金吾は、明治の人々に「これじゃあ、辰野“堅固”だ!」と言われるほど、頑丈な建物を設計。
美しくて強い建物を造った、建築家・辰野の業績は、全国の各地に残りますが、やはり目立つのは「東京駅」でしょうか。
一方の曾禰(そね)達蔵は、その東京駅に隣接した丸の内に日本初のオフィスビル街の建築を手掛ける、という業績が残ります。
建築の師匠がイギリス人だったので、やっぱり“ロンドン風”だったようですね。曾禰の建築は、日本最大のビジネス街へと発展していきます。
――なお、曾禰達蔵の出生地は、
江戸にあった唐津藩邸だったようで、先ほどの小笠原長行公に少年期から仕えていたようです。
主君は不遇でしたが、才能を見いだした家臣が活躍したことで、少しは小笠原さまの志も果たされたのかもしれません。
後進の建築家の育成にも力を注ぎ、「近代建築の“賢人”」とも言える、お二人のモニュメントは佐賀市内だけでなく、唐津市内にも設置されたと聞きます。
有明海に近い県南部の佐賀市から、玄海灘を見つめる県北部の唐津市まで想いを馳せる…こともできそうです。
Posted by SR at 21:27 | Comments(0) | 戦略編(S)
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