2022年06月05日
「志士たちの悲劇について(第18話・場面解説②)」
こんばんは。
直近の“本編”3回は、現在の福岡県朝倉市にある“小京都”・秋月を意識した話を展開しました。
江戸期、佐賀藩と交互に長崎警備を務めた福岡藩。福岡の支藩である秋月藩も、本藩に代わり長崎の警備を担当したこともあり、進んだ地域でした。

現在、書き進める第18話前半の展開の軸になる“寺田屋騒動”は、幕末史でも、描き方が難しいテーマだと思います。
一般的には、薩摩藩の内紛として扱われることが多いのですが、その周辺には色々と複雑な話があるようです。
――その秋月の志士・海賀宮門の名は、
江藤新平が脱藩する少し前の時期に、佐賀を来訪した志士として知りました。
福岡の平野国臣や秋月の海賀宮門など、藩の枠を越えて活動している姿が、江藤の佐賀からの脱藩に影響したとも言われます。
“本編”でも、師匠・枝吉神陽のもとに同座して、熱く語る福岡の志士から話を聞く場面も描きました。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑨(佐賀に“三平”あり)〕

――ところが、いたく冷静な佐賀のカリスマ・枝吉神陽。
福岡の志士たちも、福岡や秋月など所属する藩を動かしたかったはずですが、彼らは自藩から、捕らえられたり、追われたり…という傾向です。
一方で佐賀の枝吉神陽は、他藩の尊王思想の指導者と比べて、藩の上層部とも、折り合いを付けていた印象があります。
こうして福岡の志士たちに共感を示すも、具体的な計画には乗らず、佐賀藩を一体として“勤王”へと向かうイメージがあったと推測しています。
――あるいは、弟子たちの身を案じたか…
先ほどの師匠・枝吉神陽の態度は、江藤などの弟子たちが、“暴挙”に出ないよう抑えていたようにも見えます。
この辺りの過激な志士の動きといえば、“桜田門外の変”など暗殺や襲撃により、幕政の動揺・転覆を志向するものが続発しました。
〔参照:第15話「江戸動乱」⑮(雪の舞う三月)〕
江戸で発生し、江藤らの親友・中野方蔵が巻き込まれた“坂下門外の変”も、幕府の老中への襲撃事件でした。
〔参照(終盤):第17話「佐賀脱藩」⑯(つながりは諸刃の剣)〕
“寺田屋騒動”も幕府寄りの公家などを排除する計画が発端とされます。薩摩の立場では、藩内勤王派の暴発を未然に防いだというところがあるのでしょう。
〔参照(後半):「幕末!京都事件ファイル①〔前編〕」〕

――薩摩としては、藩内の“内紛”で終わらせたかった…
ここで問題となるのは、寺田屋に集っていた公家の関係者や他藩の志士。
公家の中山忠能に仕えて、幼少期の明治天皇の教育係だった田中河内介。久留米水天宮の神官で、尊王攘夷の活動家として著名だった真木和泉。
こうした求心力の強い人物が居たためか、寺田屋に諸国の志士も集結したようです。騒動に関与した薩摩藩士の制圧後は、彼らの処遇が課題となります。
久留米の真木和泉らは出身の藩に引き取られ、田中河内介など公家の関係者や、自藩が引き取らない者は留め置かれたようです。
――そして、秋月の志士・海賀宮門(直求)は、
薩摩への移送に同意して若い志士たちと船に乗ったのですが、落命した状態で、日向(宮崎)の細島の地に流れ着きました。
細島の人々が現場で確認したところ、身につけていた腹巻きに、身元を特定する情報がありました。
そこには「赤心報国 唯四字」という言葉と「黒田家臣 海賀直求」という身分と氏名が記されていたそうです。

――これにより、残り二人の身元も特定されていきます。
肥前・島原(長崎)の中村主計。もう一人は但馬(兵庫)出身の千葉郁太郎と調べがついたそうです。
薩摩への護送中に斬り捨てられたと見られる、海賀たち三人。その亡きがらは、日向・細島の人々により丁重に葬られました。
彼らが供養される地は、海賀の身元から、いつしか『黒田の家臣』と呼ばれるようになったとか。
――おそらくは熱い想いをもって、佐賀に来訪した志士。
ここからは、秋月藩士・海賀宮門を、どうにか“本編”に載せようとした経過ですが、このエピソードを知り、あまりにも哀れに思ったことに起因します。
真っ直ぐ前を見すえる人柄、10代の若者を見捨てられない面倒見の良さ…は、周辺情報からの想像です。
但し、“本編”の時系列では、江藤が京都で活動した時期には、海賀はすでに世を去っています。
そこで、ある程度は史実に近いと思われる「江藤新平に影響を与えた志士」として描くことにしました。
――こうして、秋月の志士が“本編”で登場しました。
亡くなった時期が30歳手前でまだ若く、腹巻きは愛用のものと推測するので、胃腸が強くなさそうな痩せ型で設定をしています。
そして、いま一つ活躍の場に恵まれない“イケメン俳優”を起用するという配役イメージをします。ここまで固まってから、回想場面での登場になりました。
〔参照:第18話「京都見聞」⑧(真っ直ぐな心で)〕

――小城から来た情報通・祇園太郎が語る、事件の経過から…
江藤は佐賀で出会った“真っ直ぐな男”を想い出し、その志も背負っていく。
〔参照:第18話「京都見聞」⑨(その志は、海に消えても)〕
『佐賀の大河ドラマ』で“秋月の志士”を表現しようと思うと、私には、この設定ぐらいしか思いつきませんでした。
朝廷に強い崇敬を持つも、黒田の武士として主君への忠義も捨てられない…そんな不器用さには、どことなく江藤と通じる印象も受けます。
――激動の文久年間(1861年~)に、
長州藩(山口)と接触し、一時は秋月藩で幽閉された、海賀宮門。秋月を脱藩して、薩摩藩の勤王派と関わり、その最期につながっていきました。
この時期に薩摩藩と長州藩の双方と関わり、佐賀藩との連携を求める…このような人物が、“明治維新”を先取りした志士の1人だったのかもしれません。
今回、かなり書き方に迷いましたが、第2部の1つのテーマである「佐賀を中心に、九州北部の幕末を表現する」試みとしてお読みいただければ幸いです。
直近の“本編”3回は、現在の福岡県朝倉市にある“小京都”・秋月を意識した話を展開しました。
江戸期、佐賀藩と交互に長崎警備を務めた福岡藩。福岡の支藩である秋月藩も、本藩に代わり長崎の警備を担当したこともあり、進んだ地域でした。
現在、書き進める第18話前半の展開の軸になる“寺田屋騒動”は、幕末史でも、描き方が難しいテーマだと思います。
一般的には、薩摩藩の内紛として扱われることが多いのですが、その周辺には色々と複雑な話があるようです。
――その秋月の志士・海賀宮門の名は、
江藤新平が脱藩する少し前の時期に、佐賀を来訪した志士として知りました。
福岡の平野国臣や秋月の海賀宮門など、藩の枠を越えて活動している姿が、江藤の佐賀からの脱藩に影響したとも言われます。
“本編”でも、師匠・枝吉神陽のもとに同座して、熱く語る福岡の志士から話を聞く場面も描きました。
〔参照:
――ところが、いたく冷静な佐賀のカリスマ・枝吉神陽。
福岡の志士たちも、福岡や秋月など所属する藩を動かしたかったはずですが、彼らは自藩から、捕らえられたり、追われたり…という傾向です。
一方で佐賀の枝吉神陽は、他藩の尊王思想の指導者と比べて、藩の上層部とも、折り合いを付けていた印象があります。
こうして福岡の志士たちに共感を示すも、具体的な計画には乗らず、佐賀藩を一体として“勤王”へと向かうイメージがあったと推測しています。
――あるいは、弟子たちの身を案じたか…
先ほどの師匠・枝吉神陽の態度は、江藤などの弟子たちが、“暴挙”に出ないよう抑えていたようにも見えます。
この辺りの過激な志士の動きといえば、“桜田門外の変”など暗殺や襲撃により、幕政の動揺・転覆を志向するものが続発しました。
〔参照:
江戸で発生し、江藤らの親友・中野方蔵が巻き込まれた“坂下門外の変”も、幕府の老中への襲撃事件でした。
〔参照(終盤):
“寺田屋騒動”も幕府寄りの公家などを排除する計画が発端とされます。薩摩の立場では、藩内勤王派の暴発を未然に防いだというところがあるのでしょう。
〔参照(後半):

――薩摩としては、藩内の“内紛”で終わらせたかった…
ここで問題となるのは、寺田屋に集っていた公家の関係者や他藩の志士。
公家の中山忠能に仕えて、幼少期の明治天皇の教育係だった田中河内介。久留米水天宮の神官で、尊王攘夷の活動家として著名だった真木和泉。
こうした求心力の強い人物が居たためか、寺田屋に諸国の志士も集結したようです。騒動に関与した薩摩藩士の制圧後は、彼らの処遇が課題となります。
久留米の真木和泉らは出身の藩に引き取られ、田中河内介など公家の関係者や、自藩が引き取らない者は留め置かれたようです。
――そして、秋月の志士・海賀宮門(直求)は、
薩摩への移送に同意して若い志士たちと船に乗ったのですが、落命した状態で、日向(宮崎)の細島の地に流れ着きました。
細島の人々が現場で確認したところ、身につけていた腹巻きに、身元を特定する情報がありました。
そこには「赤心報国 唯四字」という言葉と「黒田家臣 海賀直求」という身分と氏名が記されていたそうです。
――これにより、残り二人の身元も特定されていきます。
肥前・島原(長崎)の中村主計。もう一人は但馬(兵庫)出身の千葉郁太郎と調べがついたそうです。
薩摩への護送中に斬り捨てられたと見られる、海賀たち三人。その亡きがらは、日向・細島の人々により丁重に葬られました。
彼らが供養される地は、海賀の身元から、いつしか『黒田の家臣』と呼ばれるようになったとか。
――おそらくは熱い想いをもって、佐賀に来訪した志士。
ここからは、秋月藩士・海賀宮門を、どうにか“本編”に載せようとした経過ですが、このエピソードを知り、あまりにも哀れに思ったことに起因します。
真っ直ぐ前を見すえる人柄、10代の若者を見捨てられない面倒見の良さ…は、周辺情報からの想像です。
但し、“本編”の時系列では、江藤が京都で活動した時期には、海賀はすでに世を去っています。
そこで、ある程度は史実に近いと思われる「江藤新平に影響を与えた志士」として描くことにしました。
――こうして、秋月の志士が“本編”で登場しました。
亡くなった時期が30歳手前でまだ若く、腹巻きは愛用のものと推測するので、胃腸が強くなさそうな痩せ型で設定をしています。
そして、いま一つ活躍の場に恵まれない“イケメン俳優”を起用するという配役イメージをします。ここまで固まってから、回想場面での登場になりました。
〔参照:

――小城から来た情報通・祇園太郎が語る、事件の経過から…
江藤は佐賀で出会った“真っ直ぐな男”を想い出し、その志も背負っていく。
〔参照:
『佐賀の大河ドラマ』で“秋月の志士”を表現しようと思うと、私には、この設定ぐらいしか思いつきませんでした。
朝廷に強い崇敬を持つも、黒田の武士として主君への忠義も捨てられない…そんな不器用さには、どことなく江藤と通じる印象も受けます。
――激動の文久年間(1861年~)に、
長州藩(山口)と接触し、一時は秋月藩で幽閉された、海賀宮門。秋月を脱藩して、薩摩藩の勤王派と関わり、その最期につながっていきました。
この時期に薩摩藩と長州藩の双方と関わり、佐賀藩との連携を求める…このような人物が、“明治維新”を先取りした志士の1人だったのかもしれません。
今回、かなり書き方に迷いましたが、第2部の1つのテーマである「佐賀を中心に、九州北部の幕末を表現する」試みとしてお読みいただければ幸いです。
Posted by SR at 12:48 | Comments(0) | 構成編(P)
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