2023年03月09日
第19話「閑叟上洛」①(ある佐賀浪士への苦情)
こんばんは。今回は、本編・第19話の序章として描いた場面です。
文久二年(1862年)も季節は移ろい、秋風が吹き始めました。
佐賀を脱藩した江藤新平は、夏から京都を中心に活動していました。佐賀藩が本気で探せば、すぐに見つかる…はずでした。
当時は「二重鎖国」とも言われた、出入りに厳しい佐賀藩。なぜか佐賀の藩庁には、脱藩者・江藤を捜索する動きは見られなかったようです。
――佐賀城の本丸にて。
佐賀の前藩主・鍋島直正(当時の正式な名は、斉正)は“閑叟”と号していた。
「閑叟さま、また背が曲がっておられますぞ。」
幼なじみの側近・古川与一(松根)が、声をかける。
もはや“殿”と呼ばないのも、「気楽に過ごしてほしい」という優しさであろうか。
〔参照(中盤):第17話「佐賀脱藩」⑪(“都会”の流儀)〕

――ところで、閑叟という名は、
“暇な年寄り”というような意味合いだが、実際のところはかなり気忙しい。
「そう申すな。今はこうしておるのが、楽なのだ…」
直正は古川の忠告に、こう応えた。胃腸(消化器系)に色々と持病があるものだから、痛いところをかばうと、余計に姿勢も崩れがちとなる。
その手元には、朝廷から京の都に上るように呼びかけの書面がある。直正は、それをじっと読み込んでいたのだ。
――直正の幼少期からの側近・古川与一(松根)。
京の都より戻った古川。一通りの報告は聞いたが、直正はあらためて問う。
「松根よ。いま一度、京の話を紐解いてみよ。」
「いまや、京の都は混沌としております。」
直正は“執事”のような側近・古川を、近しい公家のもとに派遣し、京の様子を探らせていたのだ。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑳(ご隠居が遣わす者)〕
ところが、京都では、各藩の志士とつながる“尊王攘夷派”が勢いを持つ。
「…搦手(からめて)からの調べが、足りておりませぬな。」
複雑となる京の情勢。いまや表からの“正攻法”では、必要な情報が得づらい。ここは、“裏口”からの情報が欲しいところである。

――佐賀藩のご隠居となった直正(閑叟)だが、まだ50歳手前。
数十年前もの間、異国の脅威と向き合い、日本の表玄関である長崎の防備を固め、幕府の技術開発にも協力してきた。
また、佐賀の民を、貧困や疫病から守るため、心を砕くような殿様でもあった。
その結果、直正はあらゆる方面で気苦労を重ねた。その笑みも、実年齢より、かなり老けて見える。
「実はな、あえて“野放し”としておる者がおるのだ」
「…京に、“佐賀の者”が潜んでいると仰せですか。」
古川は、直正の言いようを察して、聞き返す。
「その者、潜むと申すより、勝手に動いておると言うべきであろうな。」

直正が、その男の不思議な行動を語る。まるで「佐賀のために佐賀を抜けた」そんな動機があるようだ。
城下で“義祭同盟”を率い、若い藩士の指導者として知られるのが枝吉神陽。その門下生の1人に、江藤新平という者がいる。
――藩の下級役人として江藤は、まず軍事技術を扱う“火術方”に着任。
そこから上佐賀奉行所に転じ、その後は貿易部門の“代品方”にいたが、この初夏に突如、佐賀を脱藩した。
「閑叟さまはその者を、よくご存じなのですか。」
「弘道館にて、よく声の通る男がおったので、どことなく覚えがある程度だ。」
「…されど、江藤なる者。もうしばし京に置いておくか。」
江藤は京の都から、佐賀城下にいる同志に報告を送り続けている。仲間たちも頑張っているのか、断片的にその動きを直正も知る様子だ。

――しかし、ほどなく大坂にある佐賀藩の屋敷から報告が届く。
その内容は、幕府からの注意の伝達で、概ねこのようにあった。
「江藤という者が、京にて暴論を吐く。佐賀で責任を持って対応されたい」と。
「佐賀藩で対処を決められよ」とあるが、ここは「取り押さえて京から排除せよ」と読むべきだろう。
江藤は過激な志士とは一線を画すが「王政を復古するには、外交権の接収」などと具体的な手順を示すので、幕府からすれば危険な者には違いない。
〔参照:第18話「京都見聞」⑳(公卿の評判)〕
――ますます、不穏となる京の都。
過熱する志士への対応に窮した幕府は“京都守護職”を設置し、会津(福島)の藩主・松平容保を、その任に宛てる様子だ。
京の都にて自由に行動した江藤だったが、その存在について、佐賀藩に正式に問い合わせが来てしまっている。
幕府からの依頼は、尊重する傾向がある佐賀藩。もはや江藤に“勝手”をさせておくわけにはいかないようだ。
江藤にとっても、決断の時は近づいていた。
(続く)
文久二年(1862年)も季節は移ろい、秋風が吹き始めました。
佐賀を脱藩した江藤新平は、夏から京都を中心に活動していました。佐賀藩が本気で探せば、すぐに見つかる…はずでした。
当時は「二重鎖国」とも言われた、出入りに厳しい佐賀藩。なぜか佐賀の藩庁には、脱藩者・江藤を捜索する動きは見られなかったようです。
――佐賀城の本丸にて。
佐賀の前藩主・鍋島直正(当時の正式な名は、斉正)は“閑叟”と号していた。
「閑叟さま、また背が曲がっておられますぞ。」
幼なじみの側近・古川与一(松根)が、声をかける。
もはや“殿”と呼ばないのも、「気楽に過ごしてほしい」という優しさであろうか。
〔参照(中盤):
――ところで、閑叟という名は、
“暇な年寄り”というような意味合いだが、実際のところはかなり気忙しい。
「そう申すな。今はこうしておるのが、楽なのだ…」
直正は古川の忠告に、こう応えた。胃腸(消化器系)に色々と持病があるものだから、痛いところをかばうと、余計に姿勢も崩れがちとなる。
その手元には、朝廷から京の都に上るように呼びかけの書面がある。直正は、それをじっと読み込んでいたのだ。
――直正の幼少期からの側近・古川与一(松根)。
京の都より戻った古川。一通りの報告は聞いたが、直正はあらためて問う。
「松根よ。いま一度、京の話を紐解いてみよ。」
「いまや、京の都は混沌としております。」
直正は“執事”のような側近・古川を、近しい公家のもとに派遣し、京の様子を探らせていたのだ。
〔参照:
ところが、京都では、各藩の志士とつながる“尊王攘夷派”が勢いを持つ。
「…搦手(からめて)からの調べが、足りておりませぬな。」
複雑となる京の情勢。いまや表からの“正攻法”では、必要な情報が得づらい。ここは、“裏口”からの情報が欲しいところである。
――佐賀藩のご隠居となった直正(閑叟)だが、まだ50歳手前。
数十年前もの間、異国の脅威と向き合い、日本の表玄関である長崎の防備を固め、幕府の技術開発にも協力してきた。
また、佐賀の民を、貧困や疫病から守るため、心を砕くような殿様でもあった。
その結果、直正はあらゆる方面で気苦労を重ねた。その笑みも、実年齢より、かなり老けて見える。
「実はな、あえて“野放し”としておる者がおるのだ」
「…京に、“佐賀の者”が潜んでいると仰せですか。」
古川は、直正の言いようを察して、聞き返す。
「その者、潜むと申すより、勝手に動いておると言うべきであろうな。」
直正が、その男の不思議な行動を語る。まるで「佐賀のために佐賀を抜けた」そんな動機があるようだ。
城下で“義祭同盟”を率い、若い藩士の指導者として知られるのが枝吉神陽。その門下生の1人に、江藤新平という者がいる。
――藩の下級役人として江藤は、まず軍事技術を扱う“火術方”に着任。
そこから上佐賀奉行所に転じ、その後は貿易部門の“代品方”にいたが、この初夏に突如、佐賀を脱藩した。
「閑叟さまはその者を、よくご存じなのですか。」
「弘道館にて、よく声の通る男がおったので、どことなく覚えがある程度だ。」
「…されど、江藤なる者。もうしばし京に置いておくか。」
江藤は京の都から、佐賀城下にいる同志に報告を送り続けている。仲間たちも頑張っているのか、断片的にその動きを直正も知る様子だ。
――しかし、ほどなく大坂にある佐賀藩の屋敷から報告が届く。
その内容は、幕府からの注意の伝達で、概ねこのようにあった。
「江藤という者が、京にて暴論を吐く。佐賀で責任を持って対応されたい」と。
「佐賀藩で対処を決められよ」とあるが、ここは「取り押さえて京から排除せよ」と読むべきだろう。
江藤は過激な志士とは一線を画すが「王政を復古するには、外交権の接収」などと具体的な手順を示すので、幕府からすれば危険な者には違いない。
〔参照:
――ますます、不穏となる京の都。
過熱する志士への対応に窮した幕府は“京都守護職”を設置し、会津(福島)の藩主・松平容保を、その任に宛てる様子だ。
京の都にて自由に行動した江藤だったが、その存在について、佐賀藩に正式に問い合わせが来てしまっている。
幕府からの依頼は、尊重する傾向がある佐賀藩。もはや江藤に“勝手”をさせておくわけにはいかないようだ。
江藤にとっても、決断の時は近づいていた。
(続く)