2021年01月22日
「主に多久市民の皆様を対象としたつぶやき」
こんばんは。
実は密かに進めていました、多久市民の皆様へのつぶやき計画。
“本編”の中で幾度か名前が出た人物・草場佩川(はいせん)。
漢詩・墨画で有名な儒学者。佐賀の藩校「弘道館」の教師として活躍します。
…現在でも文教の風が薫る、“論語”の学習が盛んな、多久の出身者です。
――では、今までどのような登場をしていたか。
草場佩川は、“優等生”中野方蔵について、佐賀藩の重役・原田小四郎に忠告をします。これまで“本編”に草場先生のセリフはなく、実質的に初登場です。
〔参照(後半):第15話「江戸動乱」⑤(仮面の優等生)〕
逆に、例の3人組(大木喬任・江藤新平・中野方蔵)の噂話の中では、よく草場先生のお名前が出ていました。
――頭の回転が速く、行動力のある中野方蔵。
草場先生の権威を借りて、留学の決定を勝ち取ろうと計画。
〔参照(終盤):第9話「和親条約」②〕
かなり打算的に走り回る中野。大木・江藤の2人はやや引き気味。
〔参照(前半):第12話「海軍伝習」⑤(秘密結社の夜)〕
年長の大木が呆れたり、江藤は「媚びを売ってる!」とつぶやいてみたり…
〔参照(後半):第12話「海軍伝習」④(義祭同盟の青春)〕
――しかし草場先生。やはり只者ではなかった。
利発な若者・中野の才能を認めるも、内面に潜む“危うさ”にも気付いています。
…草場佩川という人物。多才なだけでなく、冷静な一面も見えるのです。
私自身も「草場先生が、中野の真意を見抜いていた…」という展開を書くつもりは無く、人物が自然に動いた感覚です。

――草場先生の出身地。多久が、“文教の郷”になった経過は…
江戸時代の多久は、佐賀藩の自治領の1つ。写真は4代目のご領主さまです。
自治領主・多久茂文は、学問(儒学)を重視しました。教育の力で、秩序ある理想郷・“多久”領を目指したようです。
志ある者に開かれた学問所“東原庠舎”、シンボルとして儒学の祖・孔子さまをはじめ、古の聖人を祀る“多久聖廟”を設立。
…こうして、多久には文教の気風が培われ、幕末・明治に活躍する人材も育てます。
――“儒学”には、古い学問というイメージがありますが…
幕末期には、儒学者も海防の研究や外交の折衝に力を発揮しています。
考えは固いけど、クールで論理的。これが儒学者の強みだと思うわけです。
余談ですが、多久にも“ゆるキャラ”が居ます。
…いや、「いらっしゃいます」と言い換えましょう。「品の良いお爺(じい)さま」という感じのキャラで、お名前は“多久翁(たくおう)”さん。

――多久には、“聖廟”があるので…
写真のような、儒学の聖人のイメージを親しみやすくしたのでしょう。
幕末の儒学者・草場佩川に話を戻します。
実は“本編”でも最年長クラスの登場人物で、1787年生まれ。
なんと中野方蔵や大隈八太郎(重信)あたりとは50歳ほど離れています。
――草場先生。1858年頃には70代。
ご高齢になっても、幕府から「ぜひ江戸で学問所の教授に!」と熱望されます。また、殿・鍋島直正の信任が厚すぎて、隠居できなかったという話も。
優れた洞察力を見せた、草場佩川先生。
そして幕末期の佐賀藩は、他の雄藩に比べて“冷静”な印象です。
…動乱期であっても“熱狂”を戒めるかのような草場先生。
「やはり多久のご老人を甘く見てはならぬ!」ようです。
実は密かに進めていました、多久市民の皆様へのつぶやき計画。
“本編”の中で幾度か名前が出た人物・草場佩川(はいせん)。
漢詩・墨画で有名な儒学者。佐賀の藩校「弘道館」の教師として活躍します。
…現在でも文教の風が薫る、“論語”の学習が盛んな、多久の出身者です。
――では、今までどのような登場をしていたか。
草場佩川は、“優等生”中野方蔵について、佐賀藩の重役・原田小四郎に忠告をします。これまで“本編”に草場先生のセリフはなく、実質的に初登場です。
〔参照(後半):
逆に、例の3人組(大木喬任・江藤新平・中野方蔵)の噂話の中では、よく草場先生のお名前が出ていました。
――頭の回転が速く、行動力のある中野方蔵。
草場先生の権威を借りて、留学の決定を勝ち取ろうと計画。
〔参照(終盤):
かなり打算的に走り回る中野。大木・江藤の2人はやや引き気味。
〔参照(前半):
年長の大木が呆れたり、江藤は「媚びを売ってる!」とつぶやいてみたり…
〔参照(後半):
――しかし草場先生。やはり只者ではなかった。
利発な若者・中野の才能を認めるも、内面に潜む“危うさ”にも気付いています。
…草場佩川という人物。多才なだけでなく、冷静な一面も見えるのです。
私自身も「草場先生が、中野の真意を見抜いていた…」という展開を書くつもりは無く、人物が自然に動いた感覚です。
――草場先生の出身地。多久が、“文教の郷”になった経過は…
江戸時代の多久は、佐賀藩の自治領の1つ。写真は4代目のご領主さまです。
自治領主・多久茂文は、学問(儒学)を重視しました。教育の力で、秩序ある理想郷・“多久”領を目指したようです。
志ある者に開かれた学問所“東原庠舎”、シンボルとして儒学の祖・孔子さまをはじめ、古の聖人を祀る“多久聖廟”を設立。
…こうして、多久には文教の気風が培われ、幕末・明治に活躍する人材も育てます。
――“儒学”には、古い学問というイメージがありますが…
幕末期には、儒学者も海防の研究や外交の折衝に力を発揮しています。
考えは固いけど、クールで論理的。これが儒学者の強みだと思うわけです。
余談ですが、多久にも“ゆるキャラ”が居ます。
…いや、「いらっしゃいます」と言い換えましょう。「品の良いお爺(じい)さま」という感じのキャラで、お名前は“多久翁(たくおう)”さん。
――多久には、“聖廟”があるので…
写真のような、儒学の聖人のイメージを親しみやすくしたのでしょう。
幕末の儒学者・草場佩川に話を戻します。
実は“本編”でも最年長クラスの登場人物で、1787年生まれ。
なんと中野方蔵や大隈八太郎(重信)あたりとは50歳ほど離れています。
――草場先生。1858年頃には70代。
ご高齢になっても、幕府から「ぜひ江戸で学問所の教授に!」と熱望されます。また、殿・鍋島直正の信任が厚すぎて、隠居できなかったという話も。
優れた洞察力を見せた、草場佩川先生。
そして幕末期の佐賀藩は、他の雄藩に比べて“冷静”な印象です。
…動乱期であっても“熱狂”を戒めるかのような草場先生。
「やはり多久のご老人を甘く見てはならぬ!」ようです。