2022年12月24日
第18話「京都見聞」⑰(湖畔の道を駆ける)
こんばんは。
文久二年(1862年)夏。郷里に残した家族の心配をしながら、江藤新平は京を中心に情報収集にあたり、各藩の志士とも交流します。
江藤は、志士として尊王攘夷の運動に加わる様子でもなく、佐賀藩のために、勝手に“偵察”をしていた…という感じのようです。
雄藩の上洛競争が続く中、有力でありながらも秩序を守ることができる佐賀藩が“まとめ役”に立つべきとの想いもあったのでしょう。
佐賀の大殿(前藩主)・鍋島直正が動く日を想定した、江藤の京都での見聞。その行動は周辺の地域にも及んだようですが、わずか数ヶ月の期間でした。

なお江藤は、朝廷・幕府・諸藩の動きなど、質量ともに相当な情報を集めた事がうかがえるも、その間の詳しい行動の記録は、あまり残っていないそうです。
結果から言えば、幕末の文久年間には功を奏しなかった江藤の脱藩ですが、のち明治へと時代が切り替わる、慶応年間には大きい意味を持ってきます。
――パカラッ、パカラッ…湖の傍らに、馬の蹄の音が響く。
ボヘーッ…と、馬が一息をつく。
江藤は鞍から降りると、馬のたてがみを一撫でする。
「しばし、休むといい。」
ボッ…まだ夏場であるので、馬の鼻息も熱い。江藤は、きれいな水の湧く場所で、休息を入れることにした。
眼前には、海の如く大きな湖を望む。近江(滋賀)の琵琶湖である。当地にある彦根藩は、幕府を支える譜代の雄藩として知られた。
ところが、安政七年(1860年)に当時の藩主で、大老を務めた井伊直弼が「桜田門外の変」で落命して以来、彦根藩は動きが定まらぬところがある。

かつて、京都を警備し「安政の大獄」の取締りでも恐れられた彦根藩の存在が薄れたことで、幕府の関係者には、京の街は危険な場所になりつつあった。
〔参照(終盤):第15話「江戸動乱」⑪(親心に似たるもの)〕
――湖畔を走る道。北は越前(福井)につながり、江藤はその帰路にある。
この文久二年(1862年)、幕政に関与しようと薩摩藩(鹿児島)の動きが活発だ。少し前に薩摩の“国父”(藩主の父)・島津久光が江戸へと向っている。
以前は、徳川の将軍候補だった一橋慶喜や、福井藩の松平慶永(春嶽)らを、薩摩藩の進言で幕府の重職に付け、影響力を強めるつもりらしい。
安政五年(1858年)に日米修好通商条約を締結してからの“開国”以来、幕閣への襲撃が続く。徳川の権威は揺らぎ、外様大名の存在感も増している。
いまや「朝廷の命で動いている」という立場を取ることが、各藩にとって重要な意味を持つ。それは政局を有利に運び、身を安全に保つ切り札となっていた。
――こうして、全国の諸藩が京を目指す。
薩摩藩と張り合うのは長州藩(山口)。佐賀を脱藩した江藤新平は、この長州の人脈を通じて、活動の幅を広げている。
また、江藤が関わる公家・姉小路公知を“盟主”とも仰ぎ、連携を求める志士も多い土佐藩(高知)の動きも積極的だ。

遠く東北地方から仙台藩(宮城)。九州地方からは筑前(福岡)や肥後(熊本)の各藩も、次々と京に入る。
いまだ動きを見せぬ、肥前の佐賀藩。大殿・鍋島直正が動く、その時が大事だ。佐賀藩は有力なだけに間違った動きをすれば、大きな混乱が生じる。
「とにかく異人を斬れ」と無謀な攘夷を叫ぶ者、「ただちに徳川を討て」と無理な倒幕を唱える者…京の都には異様な熱気と、様々な陰謀が渦巻くのだ。
――それゆえ京の周辺で、できる限りの情報を得る。
それを佐賀へと伝えること。これは江藤が自身に課した“使命”だった。
都度、手紙を大木喬任や坂井辰之允など、信頼できる佐賀の同志に送るのはそのためである。
「近いうちに閑叟(鍋島直正)さまは動くはず…急がねば。」
馬で京へと駆ける、江藤。琵琶湖の南端に至れば、ほぼ京の入口だ。この時、すでに姉小路公知の信頼を得ており“秘書”のような仕事をしたという。
江藤は、剣術と学問だけをしてきた志士ではない。佐賀藩の“火術方”や“代品方”に務めていたので、技術や貿易の知識もあり、実務にも長じている。
――北陸方面から京に戻ると、姉小路卿が待ち構えていた。
「お役目、確かに果たしました。」
江藤は、何らかの機密文書を届けた様子。状況報告とともに先方の返事を、姉小路の従者に引き渡す。

「ご苦労やったな。そなたに良き知らせがある。」
「はっ。」
すかさず語りかける姉小路。屋敷の庭に控えながらも視線を合わせる江藤。
姉小路も、まだ若い公家である。江藤に伝えたい事がある様子は、その表情からすぐに読みとれた。
「近いうちに鍋島が動くぞ。まことに喜ばしいことじゃ。」
朝廷の呼びかけに応える形で、ついに佐賀藩が…、鍋島直正が京を目指す。
これは、江藤にとっては希望の一報であったが、「さらに急がねばならない」という気持ちも強めることになった。
(続く)
文久二年(1862年)夏。郷里に残した家族の心配をしながら、江藤新平は京を中心に情報収集にあたり、各藩の志士とも交流します。
江藤は、志士として尊王攘夷の運動に加わる様子でもなく、佐賀藩のために、勝手に“偵察”をしていた…という感じのようです。
雄藩の上洛競争が続く中、有力でありながらも秩序を守ることができる佐賀藩が“まとめ役”に立つべきとの想いもあったのでしょう。
佐賀の大殿(前藩主)・鍋島直正が動く日を想定した、江藤の京都での見聞。その行動は周辺の地域にも及んだようですが、わずか数ヶ月の期間でした。
なお江藤は、朝廷・幕府・諸藩の動きなど、質量ともに相当な情報を集めた事がうかがえるも、その間の詳しい行動の記録は、あまり残っていないそうです。
結果から言えば、幕末の文久年間には功を奏しなかった江藤の脱藩ですが、のち明治へと時代が切り替わる、慶応年間には大きい意味を持ってきます。
――パカラッ、パカラッ…湖の傍らに、馬の蹄の音が響く。
ボヘーッ…と、馬が一息をつく。
江藤は鞍から降りると、馬のたてがみを一撫でする。
「しばし、休むといい。」
ボッ…まだ夏場であるので、馬の鼻息も熱い。江藤は、きれいな水の湧く場所で、休息を入れることにした。
眼前には、海の如く大きな湖を望む。近江(滋賀)の琵琶湖である。当地にある彦根藩は、幕府を支える譜代の雄藩として知られた。
ところが、安政七年(1860年)に当時の藩主で、大老を務めた井伊直弼が「桜田門外の変」で落命して以来、彦根藩は動きが定まらぬところがある。
かつて、京都を警備し「安政の大獄」の取締りでも恐れられた彦根藩の存在が薄れたことで、幕府の関係者には、京の街は危険な場所になりつつあった。
〔参照(終盤):
――湖畔を走る道。北は越前(福井)につながり、江藤はその帰路にある。
この文久二年(1862年)、幕政に関与しようと薩摩藩(鹿児島)の動きが活発だ。少し前に薩摩の“国父”(藩主の父)・島津久光が江戸へと向っている。
以前は、徳川の将軍候補だった一橋慶喜や、福井藩の松平慶永(春嶽)らを、薩摩藩の進言で幕府の重職に付け、影響力を強めるつもりらしい。
安政五年(1858年)に日米修好通商条約を締結してからの“開国”以来、幕閣への襲撃が続く。徳川の権威は揺らぎ、外様大名の存在感も増している。
いまや「朝廷の命で動いている」という立場を取ることが、各藩にとって重要な意味を持つ。それは政局を有利に運び、身を安全に保つ切り札となっていた。
――こうして、全国の諸藩が京を目指す。
薩摩藩と張り合うのは長州藩(山口)。佐賀を脱藩した江藤新平は、この長州の人脈を通じて、活動の幅を広げている。
また、江藤が関わる公家・姉小路公知を“盟主”とも仰ぎ、連携を求める志士も多い土佐藩(高知)の動きも積極的だ。
遠く東北地方から仙台藩(宮城)。九州地方からは筑前(福岡)や肥後(熊本)の各藩も、次々と京に入る。
いまだ動きを見せぬ、肥前の佐賀藩。大殿・鍋島直正が動く、その時が大事だ。佐賀藩は有力なだけに間違った動きをすれば、大きな混乱が生じる。
「とにかく異人を斬れ」と無謀な攘夷を叫ぶ者、「ただちに徳川を討て」と無理な倒幕を唱える者…京の都には異様な熱気と、様々な陰謀が渦巻くのだ。
――それゆえ京の周辺で、できる限りの情報を得る。
それを佐賀へと伝えること。これは江藤が自身に課した“使命”だった。
都度、手紙を大木喬任や坂井辰之允など、信頼できる佐賀の同志に送るのはそのためである。
「近いうちに閑叟(鍋島直正)さまは動くはず…急がねば。」
馬で京へと駆ける、江藤。琵琶湖の南端に至れば、ほぼ京の入口だ。この時、すでに姉小路公知の信頼を得ており“秘書”のような仕事をしたという。
江藤は、剣術と学問だけをしてきた志士ではない。佐賀藩の“火術方”や“代品方”に務めていたので、技術や貿易の知識もあり、実務にも長じている。
――北陸方面から京に戻ると、姉小路卿が待ち構えていた。
「お役目、確かに果たしました。」
江藤は、何らかの機密文書を届けた様子。状況報告とともに先方の返事を、姉小路の従者に引き渡す。
「ご苦労やったな。そなたに良き知らせがある。」
「はっ。」
すかさず語りかける姉小路。屋敷の庭に控えながらも視線を合わせる江藤。
姉小路も、まだ若い公家である。江藤に伝えたい事がある様子は、その表情からすぐに読みとれた。
「近いうちに鍋島が動くぞ。まことに喜ばしいことじゃ。」
朝廷の呼びかけに応える形で、ついに佐賀藩が…、鍋島直正が京を目指す。
これは、江藤にとっては希望の一報であったが、「さらに急がねばならない」という気持ちも強めることになった。
(続く)
Posted by SR at 23:26 | Comments(0) | 第18話「京都見聞」
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