2023年02月19日
「点と点をつなぐと、有田に届いた話」
こんばんは。
最近の“本編”は1862年(文久二年)のエピソードをもとに展開していますが、調べる中には様々な発見があります。
昔から佐賀の歴史を学ぶ方にはよく知られた内容も、つい数年前から関心を持った私には、新たな“発見”ということに。
例えば、前回記事で触れた内容。佐賀藩関係者が清国の上海に渡った時期の話。文久二年の春~初夏ぐらいです。
“本編”の第17話「佐賀脱藩」の話中だと、江藤新平が脱藩する直前期で、親友・中野方蔵が、江戸の獄中に斃れた事を知った頃です。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑲(残された2人)〕
――貿易事情の調査などを目的とした、上海への渡航。
幕府が派遣した船に佐賀藩士・中牟田倉之助と、長州藩士・高杉晋作が乗っていたことは前回記事にしました。
補足すると、薩摩藩士・五代友厚も同じ船(千歳丸)に乗っており、この三者の間には交流があったようです。
五代友厚と言えば、連続テレビ小説『あさが来た』と大河ドラマ『青天を衝け』では、ディーン・フジオカさんが好演し、話題となりました。
明治期には東の渋沢栄一、西の五代友厚と並び称された経済界の超大物。大隈重信の気性も良く知り、耳の痛い忠告をしてくれる友人だったようです。
〔参照(中盤):「あえて“欠点”を述べる男」〕

――佐賀藩の関係者では、こんな方々も乗船していました。
中牟田倉之助は佐賀藩、そして明治新政府の海軍で活躍した人物ですが、他にも佐賀商人たちと、小城生まれの画才のある少年が乗船しています。
まず、佐賀商人のうちの1人が、深川長右衛門。
名前には聞き覚えがあったのですが、1867年(慶応三年)のパリ万博に出展した時の、佐野常民が率いる佐賀藩メンバー5人のうちの1人です。
確認した資料には、陶磁器製造・販売の専門家として選出された人物として名が挙がっていました。
――その、深川長右衛門という人物は…
ある情報から聞くところ、ぼんやりと鈍そうな印象の外見の中に、繊細で俊敏な“商才”を秘めた人物だったそうです。
イメージを持って、文字に起こしてみると、なかなか魅力的な人物に思えます。今まではあまり、佐賀商人を描けておらず、チャンスをうかがうところです。
「不利な海外での陶磁器販売に、敢然と挑む佐賀商人の魂(スピリッツ)」を、少しでも書いてみたい…という気分でしょうか。

――そして、小城生まれの「画才のある少年」とは…
納富(のうとみ)介次郎、というお名前。上海渡航の時点では19歳だった、といいますが、乗船した中では最年少だったようです。
私の知識では「工芸教育で有名な人」ぐらいのイメージしかなかったのですが、幕末には鍋島直正の指令を受けて、海外情勢の調査に出ていたのですね。
一応、写真機は存在する時代ですが、現地の風景や器物を画像で記録するには、スケッチを使うのが、まだ圧倒的に便利なこの時代。
長州の高杉晋作も、この「佐賀が送り込んだ、画工の少年」を見て、佐賀藩が組織的に貿易事情を調査していることを察したようです。
――この、納富少年は、近代工芸教育の先駆者へと成長。
欧州に渡航の際に陶磁器の製造現場も経て、明治20年(1887年)に日本で最初の工芸とデザインを専門的に教育する学校の初代校長に就任します。
日本が誇る「工芸王国」・石川県。その中心の、加賀百万石のご城下として、知られる美術の街・金沢にある学校です(石川県立工業高等学校の前身)。
納富介次郎は、日本の伝統のものづくりと、西洋のデザイン思想を融合したカリキュラムを組んだと伝わります。
――もはや、佐賀というより“加賀”(石川県)の偉人?
少し調べてみると、出身地の佐賀県以上に、石川県など北陸地方の方々が、納富介次郎の功績をより深く理解しておられる印象も受けます。
しかし、日本におけるデザイン(図案)教育を普及させた納富先生の足跡は、各地に見られます。

西洋の工業化技術に、貿易面で後れを取らないよう、日本の美術工芸品の国際競争力を高める…という熱意があったという評論も見かけます。
ここには、幕末の上海で列強の侵出を体感し、明治期のヨーロッパでの製造現場を体験した納富ならではの危機感もあったと聞きます。
納富が創り出した、実践的なデザイン教育の思想は、学生たちを通じて継承され、日本の工芸を、近代的な産業とする基礎が固まっていたようです。
石川県を去った後にも、納富介次郎は、富山県の高岡、香川県の高松にも、それぞれの地域の特色を活かした工芸学校を創立。そして…
――佐賀県で、有田工業学校(現・有田工業高校の前身)の初代校長に。
「よし、あの納富少年が、とうとう佐賀に帰ってきたぞ!」
つい先ほどまで、納富介次郎先生について、ほとんど知識が無かった私ですが、あっという間に感情移入しています。
資料を幾つか見るだけで、すっかり佐賀県が生んだ「日本の工芸教育の父」の壮大な物語が頭に浮かんできました。

…幕末期、小城に生まれた絵が得意な少年。佐賀藩の命で海外の貿易事情などを調査する一団に加わり、幕府の船・千歳丸で上海に渡る。
――時代は明治へと進み、1873年のウィーン万博にも参加する。
欧州の工業の強さは感じても、日本の美意識に西洋の思想を取り入れれば対抗は可能だと考えた、納富青年は立派な先生に成長していく。
日本のものづくりと西洋のデザインを融合した、近代的な工芸教育を創る。
志の高い工芸教育には思惑どおり進まない事もあったか、石川県では教壇を去る展開になるも、残された学生たちが納富先生の思想を受け継いだという。
工芸の学校を創るたび、装飾だけでなく材料や実用性も学んでいく、そのデザイン思想は、富山県・香川県など各地で、若い学生たちに影響を与え…
故郷・佐賀県の陶磁器の街・有田では、工芸の学校を創設(分校からの昇格)する。こうして、納富先生の想いは、きっと現在の有田にもつながっている。

――おそらく“本編”では納富介次郎について、あまり多くを語れません。
ところが、調べると結構な感銘を受けて「書くなら“発見”の喜びがある今だ!」と思って、さっそく記事にしてみました。
以前、甲子園の高校野球大会に有田工業高校が出場した際に、選手の出身中学を見て、気付いたことがあります。
〔参照(前半):「有工の“明るさ”が…」〕
地元・有田町、近隣の伊万里市、武雄市、長崎県の波佐見町など…有田工に学生が集まる地域。
かつて陶磁器が伊万里港から出荷された時期に、肥前の磁器が集まる範囲と、大体重なると思うのですね。個人的には、こういうところが面白いです。
――まだ、第19話も下書きを始めたところで、
その次の第20話ぐらいになるかと思いますが、日本の近代工芸教育を創めた納富介次郎の姿もどこかで描ければ…と考えています。
最近の“本編”は1862年(文久二年)のエピソードをもとに展開していますが、調べる中には様々な発見があります。
昔から佐賀の歴史を学ぶ方にはよく知られた内容も、つい数年前から関心を持った私には、新たな“発見”ということに。
例えば、前回記事で触れた内容。佐賀藩関係者が清国の上海に渡った時期の話。文久二年の春~初夏ぐらいです。
“本編”の第17話「佐賀脱藩」の話中だと、江藤新平が脱藩する直前期で、親友・中野方蔵が、江戸の獄中に斃れた事を知った頃です。
〔参照:
――貿易事情の調査などを目的とした、上海への渡航。
幕府が派遣した船に佐賀藩士・中牟田倉之助と、長州藩士・高杉晋作が乗っていたことは前回記事にしました。
補足すると、薩摩藩士・五代友厚も同じ船(千歳丸)に乗っており、この三者の間には交流があったようです。
五代友厚と言えば、連続テレビ小説『あさが来た』と大河ドラマ『青天を衝け』では、ディーン・フジオカさんが好演し、話題となりました。
明治期には東の渋沢栄一、西の五代友厚と並び称された経済界の超大物。大隈重信の気性も良く知り、耳の痛い忠告をしてくれる友人だったようです。
〔参照(中盤):
――佐賀藩の関係者では、こんな方々も乗船していました。
中牟田倉之助は佐賀藩、そして明治新政府の海軍で活躍した人物ですが、他にも佐賀商人たちと、小城生まれの画才のある少年が乗船しています。
まず、佐賀商人のうちの1人が、深川長右衛門。
名前には聞き覚えがあったのですが、1867年(慶応三年)のパリ万博に出展した時の、佐野常民が率いる佐賀藩メンバー5人のうちの1人です。
確認した資料には、陶磁器製造・販売の専門家として選出された人物として名が挙がっていました。
――その、深川長右衛門という人物は…
ある情報から聞くところ、ぼんやりと鈍そうな印象の外見の中に、繊細で俊敏な“商才”を秘めた人物だったそうです。
イメージを持って、文字に起こしてみると、なかなか魅力的な人物に思えます。今まではあまり、佐賀商人を描けておらず、チャンスをうかがうところです。
「不利な海外での陶磁器販売に、敢然と挑む佐賀商人の魂(スピリッツ)」を、少しでも書いてみたい…という気分でしょうか。
――そして、小城生まれの「画才のある少年」とは…
納富(のうとみ)介次郎、というお名前。上海渡航の時点では19歳だった、といいますが、乗船した中では最年少だったようです。
私の知識では「工芸教育で有名な人」ぐらいのイメージしかなかったのですが、幕末には鍋島直正の指令を受けて、海外情勢の調査に出ていたのですね。
一応、写真機は存在する時代ですが、現地の風景や器物を画像で記録するには、スケッチを使うのが、まだ圧倒的に便利なこの時代。
長州の高杉晋作も、この「佐賀が送り込んだ、画工の少年」を見て、佐賀藩が組織的に貿易事情を調査していることを察したようです。
――この、納富少年は、近代工芸教育の先駆者へと成長。
欧州に渡航の際に陶磁器の製造現場も経て、明治20年(1887年)に日本で最初の工芸とデザインを専門的に教育する学校の初代校長に就任します。
日本が誇る「工芸王国」・石川県。その中心の、加賀百万石のご城下として、知られる美術の街・金沢にある学校です(石川県立工業高等学校の前身)。
納富介次郎は、日本の伝統のものづくりと、西洋のデザイン思想を融合したカリキュラムを組んだと伝わります。
――もはや、佐賀というより“加賀”(石川県)の偉人?
少し調べてみると、出身地の佐賀県以上に、石川県など北陸地方の方々が、納富介次郎の功績をより深く理解しておられる印象も受けます。
しかし、日本におけるデザイン(図案)教育を普及させた納富先生の足跡は、各地に見られます。
西洋の工業化技術に、貿易面で後れを取らないよう、日本の美術工芸品の国際競争力を高める…という熱意があったという評論も見かけます。
ここには、幕末の上海で列強の侵出を体感し、明治期のヨーロッパでの製造現場を体験した納富ならではの危機感もあったと聞きます。
納富が創り出した、実践的なデザイン教育の思想は、学生たちを通じて継承され、日本の工芸を、近代的な産業とする基礎が固まっていたようです。
石川県を去った後にも、納富介次郎は、富山県の高岡、香川県の高松にも、それぞれの地域の特色を活かした工芸学校を創立。そして…
――佐賀県で、有田工業学校(現・有田工業高校の前身)の初代校長に。
「よし、あの納富少年が、とうとう佐賀に帰ってきたぞ!」
つい先ほどまで、納富介次郎先生について、ほとんど知識が無かった私ですが、あっという間に感情移入しています。
資料を幾つか見るだけで、すっかり佐賀県が生んだ「日本の工芸教育の父」の壮大な物語が頭に浮かんできました。
…幕末期、小城に生まれた絵が得意な少年。佐賀藩の命で海外の貿易事情などを調査する一団に加わり、幕府の船・千歳丸で上海に渡る。
――時代は明治へと進み、1873年のウィーン万博にも参加する。
欧州の工業の強さは感じても、日本の美意識に西洋の思想を取り入れれば対抗は可能だと考えた、納富青年は立派な先生に成長していく。
日本のものづくりと西洋のデザインを融合した、近代的な工芸教育を創る。
志の高い工芸教育には思惑どおり進まない事もあったか、石川県では教壇を去る展開になるも、残された学生たちが納富先生の思想を受け継いだという。
工芸の学校を創るたび、装飾だけでなく材料や実用性も学んでいく、そのデザイン思想は、富山県・香川県など各地で、若い学生たちに影響を与え…
故郷・佐賀県の陶磁器の街・有田では、工芸の学校を創設(分校からの昇格)する。こうして、納富先生の想いは、きっと現在の有田にもつながっている。
――おそらく“本編”では納富介次郎について、あまり多くを語れません。
ところが、調べると結構な感銘を受けて「書くなら“発見”の喜びがある今だ!」と思って、さっそく記事にしてみました。
以前、甲子園の高校野球大会に有田工業高校が出場した際に、選手の出身中学を見て、気付いたことがあります。
〔参照(前半):
地元・有田町、近隣の伊万里市、武雄市、長崎県の波佐見町など…有田工に学生が集まる地域。
かつて陶磁器が伊万里港から出荷された時期に、肥前の磁器が集まる範囲と、大体重なると思うのですね。個人的には、こういうところが面白いです。
――まだ、第19話も下書きを始めたところで、
その次の第20話ぐらいになるかと思いますが、日本の近代工芸教育を創めた納富介次郎の姿もどこかで描ければ…と考えています。