2022年04月02日
「その道の先にあったもの」(第18話プロローグ)
こんばんは。
新年度を迎えて気ぜわしいのですが、そろそろ“本編”も進めようと思います。
第17話「佐賀脱藩」のラストで、江藤新平は当時「二重鎖国」とまで言われた佐賀の藩境を越えます。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」㉑(郷里を背に)〕
文久二年(1862年)六月。佐賀から東へと向かう道はどこにつながったか…江藤の脱藩から5~6年経過した時期の話を、少し先取りしてみます。

――慶応四年(1868年)の一月。
激動の幕末も大詰めの時期。前年には京都で副島種臣・大隈八太郎(重信)が“大政奉還”の実現に動きますが、佐賀藩の援護はなく失敗に終わります。
〔参照(後半):「私の失策とイルミネーションのご夫婦(前編)」〕
結局、土佐藩の進言で大政奉還は成りました。大隈の悔しがる表情が目に浮かぶようです。その後も旧幕府側と、薩摩・長州側で主導権争いは続きます。
混沌とする情勢の中で、本来の持ち場である日本の表玄関・長崎の状況を気にしつつ、朝廷のある京都も警備しようと、出陣の準備を進めていた佐賀藩。
“ご隠居”なれど、藩の実権を持つ鍋島直正は、対外的に隙が生じる、内戦の勃発を避ける方針であり、その動きは慎重でした。
――ここでは、完全に出遅れています。
その頃、周到な薩摩からの挑発に乗ってしまった旧幕府方。戊辰戦争の始まりだった「鳥羽伏見の戦い」が起きてしまいます。
兵力差もあって総合的には旧幕府側の有利だったはずが、明らかな失策が重なります。“錦の御旗”が翻って薩長を中心とする“官軍”が勝利しました。
尊王攘夷思想の本家だった、水戸藩の出身である第15代将軍・徳川慶喜。一時でも、朝廷と対峙することはできなかったようです。
大坂城にいたはずの旧幕府軍のトップは、なんと江戸に向けて蒸気船で脱出してしまいました。

――「佐賀藩、まったく見せ場なし。」
現地・京都にすら出発できていません。なぜか、これを人気アニメ『鬼滅の刃』の“炎柱・煉獄杏寿郎”っぽく語ると…
「少し出遅れているうちに、このような事態になっていようとは。よもや よもやだ!これは 佐賀藩士として不甲斐なし!」…という表現になるのでしょうか。
「無理にアニメの話に持っていかんでよかけん…」と、呆れる方もいるでしょう。その反応が正しいかもしれず、「穴があったら入りたい!!」とお答えします。
――それでも“薩長土肥”の一角に入った肥前(佐賀藩)。
「鳥羽伏見の戦い」が、決着したとの報が届いた頃。
江藤新平は先発隊の一員として、佐賀藩が購入していたイギリス製の鉄製蒸気船・甲子丸に乗船し、伊万里港から出航。
遅れて京都に入った、佐賀藩に対して薩長を中心とする“新政府”からの風当たりは強いものでした。
第18話『京都見聞』で描こうとする、江藤新平の動きが真価を発揮したのは、この時。滞在は短くとも、幕末の京都で築いた人脈が活きてくるのです。
江藤の滞京は、わずか数か月でしたが、その才能が強い印象を与えたのか、旧知の長州藩・桂小五郎からの推挙で、混乱していた“新政府”に入ります。

――江戸期。佐賀では“脱藩”は、特に重罪でした。
かつて藩の掟を破った江藤は一転、朝廷の臣・平胤雄として歴史の表舞台に出ることになりました。
〔参照(終盤):「紅白から“源平”を考える。」〕
朝臣の立場で、江戸時代の仕組みを理解して、西洋に準じた新政府の制度を整える。和漢洋すべての学問に通じ、課題の解決において右に出る者なし。
西郷隆盛らと入った江戸開城の時点から、江藤は猛然と幕府の文書を収集・分析。その才能が作用して、明治という時代は前に進んでいきます。
…以上の展開から見ると、“第0話(エピソード・ゼロ)”とも言える始まりの話。
各種の想像や演出も入る予定ですが、縦横に京の街を駆ける江藤の姿を書いてみたい。どこまで表現できるかわかりませんが、挑んでみたいと思います。
新年度を迎えて気ぜわしいのですが、そろそろ“本編”も進めようと思います。
第17話「佐賀脱藩」のラストで、江藤新平は当時「二重鎖国」とまで言われた佐賀の藩境を越えます。
〔参照:
文久二年(1862年)六月。佐賀から東へと向かう道はどこにつながったか…江藤の脱藩から5~6年経過した時期の話を、少し先取りしてみます。

――慶応四年(1868年)の一月。
激動の幕末も大詰めの時期。前年には京都で副島種臣・大隈八太郎(重信)が“大政奉還”の実現に動きますが、佐賀藩の援護はなく失敗に終わります。
〔参照(後半):
結局、土佐藩の進言で大政奉還は成りました。大隈の悔しがる表情が目に浮かぶようです。その後も旧幕府側と、薩摩・長州側で主導権争いは続きます。
混沌とする情勢の中で、本来の持ち場である日本の表玄関・長崎の状況を気にしつつ、朝廷のある京都も警備しようと、出陣の準備を進めていた佐賀藩。
“ご隠居”なれど、藩の実権を持つ鍋島直正は、対外的に隙が生じる、内戦の勃発を避ける方針であり、その動きは慎重でした。
――ここでは、完全に出遅れています。
その頃、周到な薩摩からの挑発に乗ってしまった旧幕府方。戊辰戦争の始まりだった「鳥羽伏見の戦い」が起きてしまいます。
兵力差もあって総合的には旧幕府側の有利だったはずが、明らかな失策が重なります。“錦の御旗”が翻って薩長を中心とする“官軍”が勝利しました。
尊王攘夷思想の本家だった、水戸藩の出身である第15代将軍・徳川慶喜。一時でも、朝廷と対峙することはできなかったようです。
大坂城にいたはずの旧幕府軍のトップは、なんと江戸に向けて蒸気船で脱出してしまいました。

――「佐賀藩、まったく見せ場なし。」
現地・京都にすら出発できていません。なぜか、これを人気アニメ『鬼滅の刃』の“炎柱・煉獄杏寿郎”っぽく語ると…
「少し出遅れているうちに、このような事態になっていようとは。よもや よもやだ!これは 佐賀藩士として不甲斐なし!」…という表現になるのでしょうか。
「無理にアニメの話に持っていかんでよかけん…」と、呆れる方もいるでしょう。その反応が正しいかもしれず、「穴があったら入りたい!!」とお答えします。
――それでも“薩長土肥”の一角に入った肥前(佐賀藩)。
「鳥羽伏見の戦い」が、決着したとの報が届いた頃。
江藤新平は先発隊の一員として、佐賀藩が購入していたイギリス製の鉄製蒸気船・甲子丸に乗船し、伊万里港から出航。
遅れて京都に入った、佐賀藩に対して薩長を中心とする“新政府”からの風当たりは強いものでした。
第18話『京都見聞』で描こうとする、江藤新平の動きが真価を発揮したのは、この時。滞在は短くとも、幕末の京都で築いた人脈が活きてくるのです。
江藤の滞京は、わずか数か月でしたが、その才能が強い印象を与えたのか、旧知の長州藩・桂小五郎からの推挙で、混乱していた“新政府”に入ります。
――江戸期。佐賀では“脱藩”は、特に重罪でした。
かつて藩の掟を破った江藤は一転、朝廷の臣・平胤雄として歴史の表舞台に出ることになりました。
〔参照(終盤):
朝臣の立場で、江戸時代の仕組みを理解して、西洋に準じた新政府の制度を整える。和漢洋すべての学問に通じ、課題の解決において右に出る者なし。
西郷隆盛らと入った江戸開城の時点から、江藤は猛然と幕府の文書を収集・分析。その才能が作用して、明治という時代は前に進んでいきます。
…以上の展開から見ると、“第0話(エピソード・ゼロ)”とも言える始まりの話。
各種の想像や演出も入る予定ですが、縦横に京の街を駆ける江藤の姿を書いてみたい。どこまで表現できるかわかりませんが、挑んでみたいと思います。
Posted by SR at 22:02 | Comments(0) | 構成編(P)
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