2022年04月09日
第18話「京都見聞」②(消えた“さぶらい”の行方)
こんばんは。
江藤新平は、文久二年(1862年)六月に佐賀を脱藩しています。数か月前、春の桜咲く頃は、京に集まった勤王の志士たちが期待に沸き立っていました。
その理由は薩摩藩(鹿児島)の“国父”(藩主の父)・島津久光が藩兵を率いて京都に上る動きがあったため。かつて各地の志士たちが大きい期待を寄せた、薩摩の名君・島津斉彬の異母弟です。
実際に島津久光が京に入ったのは、旧暦の四月なので、とうに桜の時節は過ぎ、初夏の陽気もあったかもしれません。その花が散った後に残ったものは…

――「いまは、京に向かう途上である。」
強い陽射しが注ぐ中、福岡城下の一角に足を運んでいた江藤。“佐賀脱藩”という身分だけでなく、その行先も明かした。
筑前・筑後(福岡県)だけでなく、九州各地、また双方が政治への影響力を競い始めている、薩摩や長州の志士たちの連携までを目論む平野国臣。
京の情勢を事前に探るには、その人脈は有用なはず。この留守の者からも、何か聞き出せるかもしれない。
――ところが門下生と思しき人物は、声を詰まらせた。
「いまや平野先生の、行方も知れぬのだ…。」
江戸期の一般的な武士と違い、平野と同様に古式ゆかしく髪をまとめている。
「一体、何があったか。」
発言を促す、江藤。良くない話が続きそうな事は容易にうかがえた。
――「京に向われるならば、お教えしておこう…」
江藤は、訥々と語る平野の門下生の話をうかがう。文久二年の春。京の都で活動する、各藩の勤王志士は沸き立っていた。
あの薩摩の名君・島津斉彬の弟である、久光公が亡き兄君の志を引き継ぎ、兵を率いて上洛(京)すると聞いていたからだ。
「今こそ、天下を動かす時!」
「徳川を倒す、千載一遇の好機じゃ!」
各地から集まる勤王の志士たちが、大いに盛り上がったのは言うまでもない。
その“沸騰”の中には、もちろん薩摩藩士だけではなく、他藩の者たちもいる。
福岡・平野国臣、秋月・海賀宮門、久留米・真木和泉など、筑前・筑後(現在の福岡県)の志士たちも京に集結していた。

――先年に、佐賀を訪れた者たちの名が続く。
枝吉神陽門下との連携を求めて、佐賀へと訪れる志士も多くあった。江藤も、よく他藩からの来訪者と議論をしていた。
但し、久留米の神官・真木和泉は地元から出られなかったのか、息子・主馬を佐賀に派遣したという。
そういった“福岡”からの客人を迎えた、江藤の師匠・枝吉神陽。彼らの話に共感を示すも、何かの思慮があってか動こうとしなかった印象がある。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑨(佐賀に“三平”あり)〕
「平野さまが、行方知れずとは。」
「…わからぬのだ。京に戻られたか、否かも。」
当時、京にいた志士たちは「薩摩の島津久光が“倒幕”に立ち上がる!」と大騒ぎしたが、それは誤解だったのだ。
島津久光の狙いは幕府を倒すことではなく、改革に手を貸し、幕政での主導権を握ることにあった。
――何とか、“国父”を動かそうとする薩摩藩士たち。
「じゃっどん、国父さまには立ってもらわねばなりもはん!」
島津久光の上洛にあわせ、幕府と親しい公家を排除する計画が動いていた。薩摩の“国父”から見れば、家来に邪魔をされているも同然だったようだ。
平野の門下生の話を聞いていた江藤が、鋭い一言を発した。
「その薩摩の者たちが、“暗殺”を企てたの意か。」
「お主の真っ直ぐな目。信じるぞ。その通りだろう。」
その弟子は思い切って、先刻、会ったばかりの江藤に言葉を返す。
――江藤は、さらに問答を続ける。
「先ほど、平野さまが“京に戻る”と聞いたが、如何なることか。」
ここで、江藤は事情を知りたがる。親友・中野方蔵が捕らわれた時の想いが、過(よぎ)っていた。
「黒田の殿様に訴えをなさるため、一時、京を離れたとも聞くのだ。」
平野国臣は福岡藩(黒田家)も、薩摩藩と共に倒幕に立つよう促したという。
福岡藩は慎重だった。薩摩の島津久光に「荒れる京都は素通りしよう」と提案するつもりだったという。

――「そこからは、先生の足取りがわからぬのだ。」
各地の志士に人気のある平野国臣が“直訴”に出たことで、福岡藩は対応に苦慮して、薩摩藩との接触を控えたようだ。
薩摩の島津久光はそのまま京に入ったが、これが筑前・筑後(福岡)の志士には厳しい展開の始まりだった。
そして佐賀は…と言えば、藩内の統制が取れていた分、志士たちも勝手には動きづらい。こういった激動の政局からは一歩引いた立場だった。
――幕末の黎明期から藩を富ませて、
外国の技術を導入する“近代化”のために、走ってきた佐賀藩士たち。
藩内の勤王志士たちも概ね、前藩主・鍋島直正(閑叟)のもとで佐賀藩全体が一致して、朝廷を中心とした国づくりに貢献する姿を望んでいた。
しかし当時の京では、佐賀藩士の江藤には想像しにくかった、“同郷の者”が潰し合う凄惨な事件が起きたばかりだった。
(続く)
江藤新平は、文久二年(1862年)六月に佐賀を脱藩しています。数か月前、春の桜咲く頃は、京に集まった勤王の志士たちが期待に沸き立っていました。
その理由は薩摩藩(鹿児島)の“国父”(藩主の父)・島津久光が藩兵を率いて京都に上る動きがあったため。かつて各地の志士たちが大きい期待を寄せた、薩摩の名君・島津斉彬の異母弟です。
実際に島津久光が京に入ったのは、旧暦の四月なので、とうに桜の時節は過ぎ、初夏の陽気もあったかもしれません。その花が散った後に残ったものは…

――「いまは、京に向かう途上である。」
強い陽射しが注ぐ中、福岡城下の一角に足を運んでいた江藤。“佐賀脱藩”という身分だけでなく、その行先も明かした。
筑前・筑後(福岡県)だけでなく、九州各地、また双方が政治への影響力を競い始めている、薩摩や長州の志士たちの連携までを目論む平野国臣。
京の情勢を事前に探るには、その人脈は有用なはず。この留守の者からも、何か聞き出せるかもしれない。
――ところが門下生と思しき人物は、声を詰まらせた。
「いまや平野先生の、行方も知れぬのだ…。」
江戸期の一般的な武士と違い、平野と同様に古式ゆかしく髪をまとめている。
「一体、何があったか。」
発言を促す、江藤。良くない話が続きそうな事は容易にうかがえた。
――「京に向われるならば、お教えしておこう…」
江藤は、訥々と語る平野の門下生の話をうかがう。文久二年の春。京の都で活動する、各藩の勤王志士は沸き立っていた。
あの薩摩の名君・島津斉彬の弟である、久光公が亡き兄君の志を引き継ぎ、兵を率いて上洛(京)すると聞いていたからだ。
「今こそ、天下を動かす時!」
「徳川を倒す、千載一遇の好機じゃ!」
各地から集まる勤王の志士たちが、大いに盛り上がったのは言うまでもない。
その“沸騰”の中には、もちろん薩摩藩士だけではなく、他藩の者たちもいる。
福岡・平野国臣、秋月・海賀宮門、久留米・真木和泉など、筑前・筑後(現在の福岡県)の志士たちも京に集結していた。

――先年に、佐賀を訪れた者たちの名が続く。
枝吉神陽門下との連携を求めて、佐賀へと訪れる志士も多くあった。江藤も、よく他藩からの来訪者と議論をしていた。
但し、久留米の神官・真木和泉は地元から出られなかったのか、息子・主馬を佐賀に派遣したという。
そういった“福岡”からの客人を迎えた、江藤の師匠・枝吉神陽。彼らの話に共感を示すも、何かの思慮があってか動こうとしなかった印象がある。
〔参照:
「平野さまが、行方知れずとは。」
「…わからぬのだ。京に戻られたか、否かも。」
当時、京にいた志士たちは「薩摩の島津久光が“倒幕”に立ち上がる!」と大騒ぎしたが、それは誤解だったのだ。
島津久光の狙いは幕府を倒すことではなく、改革に手を貸し、幕政での主導権を握ることにあった。
――何とか、“国父”を動かそうとする薩摩藩士たち。
「じゃっどん、国父さまには立ってもらわねばなりもはん!」
島津久光の上洛にあわせ、幕府と親しい公家を排除する計画が動いていた。薩摩の“国父”から見れば、家来に邪魔をされているも同然だったようだ。
平野の門下生の話を聞いていた江藤が、鋭い一言を発した。
「その薩摩の者たちが、“暗殺”を企てたの意か。」
「お主の真っ直ぐな目。信じるぞ。その通りだろう。」
その弟子は思い切って、先刻、会ったばかりの江藤に言葉を返す。
――江藤は、さらに問答を続ける。
「先ほど、平野さまが“京に戻る”と聞いたが、如何なることか。」
ここで、江藤は事情を知りたがる。親友・中野方蔵が捕らわれた時の想いが、過(よぎ)っていた。
「黒田の殿様に訴えをなさるため、一時、京を離れたとも聞くのだ。」
平野国臣は福岡藩(黒田家)も、薩摩藩と共に倒幕に立つよう促したという。
福岡藩は慎重だった。薩摩の島津久光に「荒れる京都は素通りしよう」と提案するつもりだったという。

――「そこからは、先生の足取りがわからぬのだ。」
各地の志士に人気のある平野国臣が“直訴”に出たことで、福岡藩は対応に苦慮して、薩摩藩との接触を控えたようだ。
薩摩の島津久光はそのまま京に入ったが、これが筑前・筑後(福岡)の志士には厳しい展開の始まりだった。
そして佐賀は…と言えば、藩内の統制が取れていた分、志士たちも勝手には動きづらい。こういった激動の政局からは一歩引いた立場だった。
――幕末の黎明期から藩を富ませて、
外国の技術を導入する“近代化”のために、走ってきた佐賀藩士たち。
藩内の勤王志士たちも概ね、前藩主・鍋島直正(閑叟)のもとで佐賀藩全体が一致して、朝廷を中心とした国づくりに貢献する姿を望んでいた。
しかし当時の京では、佐賀藩士の江藤には想像しにくかった、“同郷の者”が潰し合う凄惨な事件が起きたばかりだった。
(続く)