2022年04月12日
第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)
こんばんは。
福岡城下に来た、江藤新平。先年、佐賀を来訪した福岡の志士・平野国臣の足取りを追っていました。
平野は、鎌倉期までの装束を好むだけでなく、よく変装して薩摩藩に入ったり、福岡藩からの追跡を振り切ったりしています。
福岡城下以外では、単独か他藩士との行動が多く、山伏やら、飛脚やらと…次々に衣装をチェンジして追っ手をかわしたそうです。まさに“七変化”。
このように何かと目立つ平野国臣。各地の勤王志士からの人気も急上昇で、江藤は、その人脈に期待したようですが、所在がつかめません。
今回は福岡の志士たちに暗い影を落とした“寺田屋騒動”の惨劇を描きます。七月頃に、事件のあった京に着いてから、江藤も詳細を調査したようです。

――文久二年(1862年)四月。京・伏見の船宿、寺田屋にて。
幕末期。大坂(大阪)から川を遡る水運があって、内陸であるが“京都港”として賑わう伏見の街。薩摩藩士の定宿で事件は起こった。
藩内の勤王派の不穏な動きを知った、薩摩の国父(藩主の父・島津久光)は、側近たちに事態の収拾を命じて、使者を度々送った。
しかし国父の側近・大久保一蔵(利通)などの説得工作は実らず。薩摩の過激な志士は、“寺田屋”に集結する。今度は、剣に秀でた者たちが派遣された。
「国父さまの仰せであるぞ、従え!」
「じゃっどん、今、立たねばなりもはん!我らの存念をお伝えしてくれやい。」
“倒幕”への決起を訴え、出頭に応じない志士たち。
“薩摩ことば”での言い争い。次第に大声となり、うち1人が「上意である!」と叫ぶと、突然「キェーッ!」と鋭い奇声が発された。
――重い金属の打ち合う響き、ザクッ…と不快な音が響く。
豪剣とも言うべき、薩摩の侍が振るう刃。それが互いに顔見知りの間で、命のやり取りに遣われている。
わずかの刻にある者は絶命し、ある者は瀕死の重傷を負った。劣勢となった勤王派の薩摩藩士・有馬新七が、対峙した薩摩藩士に組み付きながら叫ぶ。
「おいごと、刺せ!」
この場で“上意討ち”にあった者は、薩摩藩内の勤王派だが、幕府に近い公家などの襲撃を試みていたという。
それを上洛した薩摩の国父・島津久光が“成敗”したのだ。同郷の者たちの間で、凄惨な同士討ちが続く。

――同じ寺田屋の次の間には“福岡”の志士も居た。
久留米の神官・真木和泉らが、薩摩藩内の勤王派と連絡を取りに来ていた。騒ぎに気付いて、奥から出てきた。
「…おいっ、お主ら。ここは引け。もう、抵抗するな。」
筑前・筑後(福岡)など幾人か居た他藩の志士たちは、死ぬまで戦おうとする薩摩の侍を諫めたという。
「どうやら“他国”の者も居られるようじゃ。方々も、お連れしもんそ!」
「秋月の海賀宮門だ。仰せに従う。」
息のある薩摩藩士たちとあわせて、寺田屋に居た久留米や秋月など他藩の志士も連行された。福岡の平野は藩庁への直訴で不在だったようだ。
――その時は江藤も、福岡の者も騒動の顛末を知らない。
「先生も、捕らわれたのであろうか…」
平野がその場に居たか判然としないが、何か京では“凶事”が起きたらしい。伝え聞く事柄は、平野の門下生の表情を暗くしていた。
門下生は、訥々と言葉を続ける。
「それからは、秋月の海賀さんも行方が知れぬ。もし、事の次第がわかれば、お教えいただきたい。」
「承知した。京に着き次第、消息を探ろう。」
江藤は、騒動の経過を追うことにした。
福岡藩・平野国臣、秋月藩・海賀宮門。両者とも先年、佐賀を訪問している。その際に“義祭同盟”の面々と意見を交わしていた。

――自らの想いで動いた、“福岡”の志士たち。
佐賀に居た頃、江藤は自由な彼らに羨望(せんぼう)の眼差しを向けていた。よもや自身が、これほど早期に脱藩するとは、予期しなかったのだ。
過激な活動に巻き込まれ、あるいは自らが短慮を起こす。次々に惜しむべき人々が失われていく。親友・中野方蔵を思い起して、江藤は歯がみをした。
「我は、形勢を測るべく、京に赴くのだ。貴君も命は大切になされよ。」
江藤は、京都に向かうのは情報収集のためで、命を捨てに行くのではないと語る。そして、思い詰めた印象の門下生に、別れの言葉を発して退出した。
(続く)
福岡城下に来た、江藤新平。先年、佐賀を来訪した福岡の志士・平野国臣の足取りを追っていました。
平野は、鎌倉期までの装束を好むだけでなく、よく変装して薩摩藩に入ったり、福岡藩からの追跡を振り切ったりしています。
福岡城下以外では、単独か他藩士との行動が多く、山伏やら、飛脚やらと…次々に衣装をチェンジして追っ手をかわしたそうです。まさに“七変化”。
このように何かと目立つ平野国臣。各地の勤王志士からの人気も急上昇で、江藤は、その人脈に期待したようですが、所在がつかめません。
今回は福岡の志士たちに暗い影を落とした“寺田屋騒動”の惨劇を描きます。七月頃に、事件のあった京に着いてから、江藤も詳細を調査したようです。

――文久二年(1862年)四月。京・伏見の船宿、寺田屋にて。
幕末期。大坂(大阪)から川を遡る水運があって、内陸であるが“京都港”として賑わう伏見の街。薩摩藩士の定宿で事件は起こった。
藩内の勤王派の不穏な動きを知った、薩摩の国父(藩主の父・島津久光)は、側近たちに事態の収拾を命じて、使者を度々送った。
しかし国父の側近・大久保一蔵(利通)などの説得工作は実らず。薩摩の過激な志士は、“寺田屋”に集結する。今度は、剣に秀でた者たちが派遣された。
「国父さまの仰せであるぞ、従え!」
「じゃっどん、今、立たねばなりもはん!我らの存念をお伝えしてくれやい。」
“倒幕”への決起を訴え、出頭に応じない志士たち。
“薩摩ことば”での言い争い。次第に大声となり、うち1人が「上意である!」と叫ぶと、突然「キェーッ!」と鋭い奇声が発された。
――重い金属の打ち合う響き、ザクッ…と不快な音が響く。
豪剣とも言うべき、薩摩の侍が振るう刃。それが互いに顔見知りの間で、命のやり取りに遣われている。
わずかの刻にある者は絶命し、ある者は瀕死の重傷を負った。劣勢となった勤王派の薩摩藩士・有馬新七が、対峙した薩摩藩士に組み付きながら叫ぶ。
「おいごと、刺せ!」
この場で“上意討ち”にあった者は、薩摩藩内の勤王派だが、幕府に近い公家などの襲撃を試みていたという。
それを上洛した薩摩の国父・島津久光が“成敗”したのだ。同郷の者たちの間で、凄惨な同士討ちが続く。

――同じ寺田屋の次の間には“福岡”の志士も居た。
久留米の神官・真木和泉らが、薩摩藩内の勤王派と連絡を取りに来ていた。騒ぎに気付いて、奥から出てきた。
「…おいっ、お主ら。ここは引け。もう、抵抗するな。」
筑前・筑後(福岡)など幾人か居た他藩の志士たちは、死ぬまで戦おうとする薩摩の侍を諫めたという。
「どうやら“他国”の者も居られるようじゃ。方々も、お連れしもんそ!」
「秋月の海賀宮門だ。仰せに従う。」
息のある薩摩藩士たちとあわせて、寺田屋に居た久留米や秋月など他藩の志士も連行された。福岡の平野は藩庁への直訴で不在だったようだ。
――その時は江藤も、福岡の者も騒動の顛末を知らない。
「先生も、捕らわれたのであろうか…」
平野がその場に居たか判然としないが、何か京では“凶事”が起きたらしい。伝え聞く事柄は、平野の門下生の表情を暗くしていた。
門下生は、訥々と言葉を続ける。
「それからは、秋月の海賀さんも行方が知れぬ。もし、事の次第がわかれば、お教えいただきたい。」
「承知した。京に着き次第、消息を探ろう。」
江藤は、騒動の経過を追うことにした。
福岡藩・平野国臣、秋月藩・海賀宮門。両者とも先年、佐賀を訪問している。その際に“義祭同盟”の面々と意見を交わしていた。

――自らの想いで動いた、“福岡”の志士たち。
佐賀に居た頃、江藤は自由な彼らに羨望(せんぼう)の眼差しを向けていた。よもや自身が、これほど早期に脱藩するとは、予期しなかったのだ。
過激な活動に巻き込まれ、あるいは自らが短慮を起こす。次々に惜しむべき人々が失われていく。親友・中野方蔵を思い起して、江藤は歯がみをした。
「我は、形勢を測るべく、京に赴くのだ。貴君も命は大切になされよ。」
江藤は、京都に向かうのは情報収集のためで、命を捨てに行くのではないと語る。そして、思い詰めた印象の門下生に、別れの言葉を発して退出した。
(続く)