2023年04月25日
第19話「閑叟上洛」⑨(想いが届けば、若返る…)
こんばんは。
文久二年(1862年)の夏から秋にかけての話を続けています。
旧暦のうえ閏(うるう)月などもあって複雑なため、季節感で表現していますが、江藤新平の行動履歴も、あまり明確でないようで、日付は深追いしません。
この年の八月には、朝廷から佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)あてに上洛を促す手紙が届いたそうです。
返事を送ったことで、鍋島直正が京都に向かう段取りは進みますが、佐賀藩は近代化に突き進む一方で、あまり政治工作に熱心ではありませんでした。
その結果、佐賀の志士が京の都で活動する機会はほとんどなく、幕末期には目立ちそこねて、明治の世でようやく実力の一端を見せることになります。

――佐賀城。本丸御殿。
50歳手前の大殿(前藩主)・鍋島直正に、報告を行っているのは、さらに10歳以上も年配の重臣・鍋島夏雲(市佑)。
〔参照(前半):第19話「閑叟上洛」④(誇りある、その仕事)〕
間違いなくご隠居の年代だが、藩庁に集まる、ありとあらゆる情報を記録する有能な“秘書官”でもある。鍋島夏雲は、今日も書面を携えて姿を見せている。
「知りうる限りで、これが最も詳しか、京の都の内情にございます。」
「長州(山口)は、薩摩(鹿児島)とは、また違った思惑で動いておるな。}
尊王攘夷派の公家を動かすべく、長州藩は京都で政治工作を進めていた。
朝廷の権威を背景に、幕府に対して外国を打ち払う“攘夷決行”を促すことで、先行する薩摩藩から優位を取ろうとしているのだ。

――この時期、薩摩藩は“公武合体策”を熱心に進めていた。
長州のようには“攘夷”を唱えない薩摩藩は、幕府の人事に介入し、将軍候補だった、一橋慶喜らを要職に付けて、幕政の主導権を握る戦略だった。
公武合体は朝廷と幕府を近づけるものだから、尊王攘夷を唱える“志士”は、その障壁となりかねない。
薩摩の国父(藩主の父)・島津久光は、京都の寺田屋で“勤王”の動きを見せた藩士たちを、薩摩の者の壮絶な“同士討ち”により粛清したという。
〔参照第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)〕

「寺田屋の一件も凄絶にございましたが、その後も…」
佐賀の老臣・鍋島夏雲は、いたって真面目に説明を続ける。
薩摩藩士だけでなく、その場に集まっていた、公家に仕える侍、各藩の浪士も、その事件に関わって、命を落とした様子が伝わる。
「…海に消えた者まで、居たようにございます。」
〔参照:第18話「京都見聞」⑨(その志は、海に消えても)〕
話を聞く、鍋島直正は殊更(ことさら)に渋い表情をしていた。
「真に国を憂う、志ある者も居たであろうに。」

西国の雄藩同士で、競い合うところはあったが、母方の従兄というつながりもあって、先代の薩摩藩主・島津斉彬は信頼できる人物だった。
〔参照(後半):第14話「遣米使節」⑪(名君たちの“約束”)〕
幕府中枢では、老中・阿部正弘は黒船来航を受けて国内の調整に腐心し、その後、大老に付いた井伊直弼も、全ての責任を背負うように決断をしていた。
――時代は進んで、皆、居なくなってしまった。
各々の立ち位置の違いはあったにせよ、直正は一抹の寂しさを感じていた。気苦労を重ねた、自身の体も相当傷んでおり、昔日の気力は、もはや無い。
少し感傷的になる直正に対して、夏雲は報告を淡々と進める。
「薩摩と長州が争うのみならず、諸国(各藩)が京に入らんとします。」

夏雲は、各藩が競って“勤王”につぎ込んでいる人員の数・金銭の量、それを受け取っている公家の人物評を説明し出した。
〔参照:第18話「京都見聞」⑮(京の覇権争い)〕
「…待て。夏雲よ。」
ここで直正は、何かに気付いた。
――佐賀藩は、京都の政局とは距離を置いてきた。
それにしては、朝廷や各藩に関わる、報告の内容が詳細に過ぎる。
京で起きた事件の顛末も、各藩の勢力争いの構図も、それに関わる人物の評価も、具体に動いた人数や金額まで記されている。
「どう調べた…もしや。」
「…お気付きになられましたか。」
年齢のこともあるが、多少は話疲れたか、夏雲がひと呼吸を置いた。

「それだけの事を、この夏の間に調べ上げたと申すか。あの男が。」
「ええ、江藤新平と申す者。ただ、一人にて。」
その問いに、夏雲が答える。しばしの沈黙がある。
あえて野放しにしていた、江藤が京で綴った報告書『京都見聞』は、直正まで届いたのだ。
〔参照:第19話「閑叟上洛」①(ある佐賀浪士への苦情)〕
――姿勢悪く、前屈みに座っていた、直正がスッと立ち上がる。
「連れ戻せ。」
「はっ。」
「捕らえるのではない。佐賀に呼び戻せ。」
「ははっ。」
このところ、胸痛にも悩まされていた、直正だったが、久々に声を張った。少し嬉しそうである。
「聞きたい事は、山ほどあるぞ。江藤は、身内の者に迎えに行かせよ。」

直正は、念を押した。
佐賀からの脱藩は重罪であるが、「罪人として扱ってはならない」という、大殿・直正の意思が込められた言葉だ。
藩のために、これだけ情報を集めたのだ。江藤が報告に込めた想いも直正には伝わっていた。
――「なれば!」と、老臣・鍋島夏雲も立ち上がった。
こちらも60歳超えであるが、何やら愉快そうに、こう言った。
「迎えには、江藤の父・助右衛門を遣わしましょう。」
直正は、少し心配そうな顔をした。江藤も30歳手前のはずだ。老齢の父親に、京での探索が務まるのか。
「…大丈夫なのか。」
ここは、夏雲に迷いがない。
「よかことです。老いてなお、成すべき事がある。幸いではなかですか。」
夏雲自身も年配者なので、説得力が違う。直正は、一言だけ告げた。
「…うむ、任せる。」
(続く)
文久二年(1862年)の夏から秋にかけての話を続けています。
旧暦のうえ閏(うるう)月などもあって複雑なため、季節感で表現していますが、江藤新平の行動履歴も、あまり明確でないようで、日付は深追いしません。
この年の八月には、朝廷から佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)あてに上洛を促す手紙が届いたそうです。
返事を送ったことで、鍋島直正が京都に向かう段取りは進みますが、佐賀藩は近代化に突き進む一方で、あまり政治工作に熱心ではありませんでした。
その結果、佐賀の志士が京の都で活動する機会はほとんどなく、幕末期には目立ちそこねて、明治の世でようやく実力の一端を見せることになります。
――佐賀城。本丸御殿。
50歳手前の大殿(前藩主)・鍋島直正に、報告を行っているのは、さらに10歳以上も年配の重臣・鍋島夏雲(市佑)。
〔参照(前半):
間違いなくご隠居の年代だが、藩庁に集まる、ありとあらゆる情報を記録する有能な“秘書官”でもある。鍋島夏雲は、今日も書面を携えて姿を見せている。
「知りうる限りで、これが最も詳しか、京の都の内情にございます。」
「長州(山口)は、薩摩(鹿児島)とは、また違った思惑で動いておるな。}
尊王攘夷派の公家を動かすべく、長州藩は京都で政治工作を進めていた。
朝廷の権威を背景に、幕府に対して外国を打ち払う“攘夷決行”を促すことで、先行する薩摩藩から優位を取ろうとしているのだ。

――この時期、薩摩藩は“公武合体策”を熱心に進めていた。
長州のようには“攘夷”を唱えない薩摩藩は、幕府の人事に介入し、将軍候補だった、一橋慶喜らを要職に付けて、幕政の主導権を握る戦略だった。
公武合体は朝廷と幕府を近づけるものだから、尊王攘夷を唱える“志士”は、その障壁となりかねない。
薩摩の国父(藩主の父)・島津久光は、京都の寺田屋で“勤王”の動きを見せた藩士たちを、薩摩の者の壮絶な“同士討ち”により粛清したという。
〔参照

「寺田屋の一件も凄絶にございましたが、その後も…」
佐賀の老臣・鍋島夏雲は、いたって真面目に説明を続ける。
薩摩藩士だけでなく、その場に集まっていた、公家に仕える侍、各藩の浪士も、その事件に関わって、命を落とした様子が伝わる。
「…海に消えた者まで、居たようにございます。」
〔参照:
話を聞く、鍋島直正は殊更(ことさら)に渋い表情をしていた。
「真に国を憂う、志ある者も居たであろうに。」
西国の雄藩同士で、競い合うところはあったが、母方の従兄というつながりもあって、先代の薩摩藩主・島津斉彬は信頼できる人物だった。
〔参照(後半):
幕府中枢では、老中・阿部正弘は黒船来航を受けて国内の調整に腐心し、その後、大老に付いた井伊直弼も、全ての責任を背負うように決断をしていた。
――時代は進んで、皆、居なくなってしまった。
各々の立ち位置の違いはあったにせよ、直正は一抹の寂しさを感じていた。気苦労を重ねた、自身の体も相当傷んでおり、昔日の気力は、もはや無い。
少し感傷的になる直正に対して、夏雲は報告を淡々と進める。
「薩摩と長州が争うのみならず、諸国(各藩)が京に入らんとします。」
夏雲は、各藩が競って“勤王”につぎ込んでいる人員の数・金銭の量、それを受け取っている公家の人物評を説明し出した。
〔参照:
「…待て。夏雲よ。」
ここで直正は、何かに気付いた。
――佐賀藩は、京都の政局とは距離を置いてきた。
それにしては、朝廷や各藩に関わる、報告の内容が詳細に過ぎる。
京で起きた事件の顛末も、各藩の勢力争いの構図も、それに関わる人物の評価も、具体に動いた人数や金額まで記されている。
「どう調べた…もしや。」
「…お気付きになられましたか。」
年齢のこともあるが、多少は話疲れたか、夏雲がひと呼吸を置いた。
「それだけの事を、この夏の間に調べ上げたと申すか。あの男が。」
「ええ、江藤新平と申す者。ただ、一人にて。」
その問いに、夏雲が答える。しばしの沈黙がある。
あえて野放しにしていた、江藤が京で綴った報告書『京都見聞』は、直正まで届いたのだ。
〔参照:
――姿勢悪く、前屈みに座っていた、直正がスッと立ち上がる。
「連れ戻せ。」
「はっ。」
「捕らえるのではない。佐賀に呼び戻せ。」
「ははっ。」
このところ、胸痛にも悩まされていた、直正だったが、久々に声を張った。少し嬉しそうである。
「聞きたい事は、山ほどあるぞ。江藤は、身内の者に迎えに行かせよ。」
直正は、念を押した。
佐賀からの脱藩は重罪であるが、「罪人として扱ってはならない」という、大殿・直正の意思が込められた言葉だ。
藩のために、これだけ情報を集めたのだ。江藤が報告に込めた想いも直正には伝わっていた。
――「なれば!」と、老臣・鍋島夏雲も立ち上がった。
こちらも60歳超えであるが、何やら愉快そうに、こう言った。
「迎えには、江藤の父・助右衛門を遣わしましょう。」
直正は、少し心配そうな顔をした。江藤も30歳手前のはずだ。老齢の父親に、京での探索が務まるのか。
「…大丈夫なのか。」
ここは、夏雲に迷いがない。
「よかことです。老いてなお、成すべき事がある。幸いではなかですか。」
夏雲自身も年配者なので、説得力が違う。直正は、一言だけ告げた。
「…うむ、任せる。」
(続く)
Posted by SR at 22:49 | Comments(0) | 第19話「閑叟上洛」
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