2023年05月23日
第19話「閑叟上洛」⑫(新しき御代〔みよ〕に)
こんばんは。
“本編”では文久二年(1862年)秋の話を綴っていますが、ここからわずか5年ほどで、“明治維新”と呼ばれる時期が到来します。
江藤新平と言えば、近代司法制度を作った事が有名ですが、幕府から朝廷への政権の移行期を支え、“国家”の機能を保つ事にも深く関わったようです。
いわゆる“無血開城”で江戸に入った時も、調査にあたっていた江藤新平は、幕府の行政(税制)や裁判(刑法)の書類を集め回ったといいます。

他の志士たちとは一線を画す、独特の行動。江藤は、旧幕府の実務を回してきた役人と多数知り合い、人材不足の新政府に引き込んだようです。
のちに日本が近代国家となるために、どうしても必要だった人物がいた。今回は、その視点でご覧ください。
――尊王攘夷派の有力公家・姉小路公知の屋敷。
「江藤、どうしても佐賀に帰るんか。」
「先日、お伝えしたとおりにて。」
〔参照:第19話「閑叟上洛」⑧(“逃げるが勝ち”とも申すのに)〕
幕府に攘夷決行を促すため、江戸下向の準備に忙しい姉小路。江藤の返事が変わらぬと見るや、話を変えた。
「まろも、江戸に下れば、忙しゅうなるんや。」
「“攘夷”の催促にございますか。」
「それもあるんやが、鉄(くろがね)の大筒も見ておかんとな。」
「良きことかと存じます。」

江藤も“火術方”の役人として出入りした反射炉で、佐賀藩が鋳造した鉄製の大砲も、江戸の台場に配備されている。
「徳川が夷狄(いてき)に備えとるか、この姉小路が見聞してつかわそう。」
――有力公家としては年若い、姉小路。やや茶目っ気を見せている。
京都での活動で才覚を示した江藤。姉小路からも「側近に入らないか」という誘いがあったが、先日、それを断っていた。
「江藤よ。京で待っておっても、“中将”(鍋島直正)は参じるのやないか。」
姉小路が、話を本筋に戻した。
たしかに鍋島直正は、朝廷からの上洛の要請に承諾を返している。ここだけ見れば、江藤が無理をして、佐賀に戻る必要はなさそうだ。

「ただ、“中将”様が、京に上れば良いという事ではありませぬ。」
ここは、江藤が否定した。
――佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)。
武家なら「肥前守」なのだろうが、公家との対話なので“中将”となっている。
「中将様にあるべき道筋を示すため、佐賀に帰るのでございます。」
江藤が続けた。尊王攘夷派が意気盛んな京都の情勢について、佐賀藩には情報が乏しいのだ。
佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)に伝えたいことがある。実際のところ、江藤は、姉小路の周囲に集まる尊王攘夷派の“志士”を評価していない。
〔参照(中盤):第18話「京都見聞」⑱(秋風の吹く頃に)〕

考えなく異国とぶつかろうとする攘夷派と、扇動された公家の動きが京の都には渦巻く。それに鍋島直正が巻き込まれるのを心配している。
影響力の大きい佐賀藩が、攘夷決行などという“妄言”に乗って動けば、それこそ国が危うくなりかねない。
――わりと饒舌な姉小路に対し、江藤はいつもより言葉少なく応じる。
「…長州の桂(小五郎)からも聞いておるぞ。江藤は、危うい事をする男やと。」
「危うきは、佐賀を抜けた時より覚悟のうえ。」
江藤も、“切腹”を命ぜられる恐れのある脱藩の帰路だとの認識はあるのだ。
「徳川が政を仕切る世は、もう長(なご)うは無い。」
姉小路が突如として、また別の話を切り出した。

「新しき御代(みよ)は、もうすぐ来るのや。」
これからは天皇を中心とした朝廷が政治を進めるのだと想いを語っている。
姉小路も最初に出会った時は、若さというより熱っぽさを感じさせたが、この夏の数か月で、その横顔には凜々しさも見えた。
〔参照:第18話「京都見聞」⑭(若き公家の星)〕
「江藤。新しき御代(みよ)に、そなたは居るんやろうな。」
「それは申す間でもないこと。必ず参じます。」
「よし。その言葉、この姉小路が聞きおいたで。」
――姉小路卿は袖をひるがえし、京の夕日に向かう。
「そなたとは、もう少しゆるりと話をしたかったのう。」
背を向けたまま、姉小路が語る。
「まろは、近いうちに“蒸気仕掛け”の船にも乗ってみよう。」
「よか事にございます。異国の業(わざ)を超えんと欲すれば、学ばねばならんです。」
この姿勢は、江藤のみならず、佐賀藩の志士たちの心構えでもあった。
〔参照:第18話「京都見聞」⑲(“蒸気”の目覚め)〕

「必ず生き延びて、然るべき時に都に参じよ。」
「はっ。」
江藤は、はっきりと通る声で、姉小路に返答した。
ここから数年後。“新しき御代(みよ)”を迎えた時、京都にて混乱する新政府に、江藤はその姿を見せることになる。
しかし、その江藤を迎え入れたのは、姉小路ではなく、その盟友だった公家・三条実美だったという。これは、まだ先の話である。
〔参照:第18話「京都見聞」⑳(公卿の評判)〕
(続く)
“本編”では文久二年(1862年)秋の話を綴っていますが、ここからわずか5年ほどで、“明治維新”と呼ばれる時期が到来します。
江藤新平と言えば、近代司法制度を作った事が有名ですが、幕府から朝廷への政権の移行期を支え、“国家”の機能を保つ事にも深く関わったようです。
いわゆる“無血開城”で江戸に入った時も、調査にあたっていた江藤新平は、幕府の行政(税制)や裁判(刑法)の書類を集め回ったといいます。
他の志士たちとは一線を画す、独特の行動。江藤は、旧幕府の実務を回してきた役人と多数知り合い、人材不足の新政府に引き込んだようです。
のちに日本が近代国家となるために、どうしても必要だった人物がいた。今回は、その視点でご覧ください。
――尊王攘夷派の有力公家・姉小路公知の屋敷。
「江藤、どうしても佐賀に帰るんか。」
「先日、お伝えしたとおりにて。」
〔参照:
幕府に攘夷決行を促すため、江戸下向の準備に忙しい姉小路。江藤の返事が変わらぬと見るや、話を変えた。
「まろも、江戸に下れば、忙しゅうなるんや。」
「“攘夷”の催促にございますか。」
「それもあるんやが、鉄(くろがね)の大筒も見ておかんとな。」
「良きことかと存じます。」

江藤も“火術方”の役人として出入りした反射炉で、佐賀藩が鋳造した鉄製の大砲も、江戸の台場に配備されている。
「徳川が夷狄(いてき)に備えとるか、この姉小路が見聞してつかわそう。」
――有力公家としては年若い、姉小路。やや茶目っ気を見せている。
京都での活動で才覚を示した江藤。姉小路からも「側近に入らないか」という誘いがあったが、先日、それを断っていた。
「江藤よ。京で待っておっても、“中将”(鍋島直正)は参じるのやないか。」
姉小路が、話を本筋に戻した。
たしかに鍋島直正は、朝廷からの上洛の要請に承諾を返している。ここだけ見れば、江藤が無理をして、佐賀に戻る必要はなさそうだ。
「ただ、“中将”様が、京に上れば良いという事ではありませぬ。」
ここは、江藤が否定した。
――佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)。
武家なら「肥前守」なのだろうが、公家との対話なので“中将”となっている。
「中将様にあるべき道筋を示すため、佐賀に帰るのでございます。」
江藤が続けた。尊王攘夷派が意気盛んな京都の情勢について、佐賀藩には情報が乏しいのだ。
佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)に伝えたいことがある。実際のところ、江藤は、姉小路の周囲に集まる尊王攘夷派の“志士”を評価していない。
〔参照(中盤):
考えなく異国とぶつかろうとする攘夷派と、扇動された公家の動きが京の都には渦巻く。それに鍋島直正が巻き込まれるのを心配している。
影響力の大きい佐賀藩が、攘夷決行などという“妄言”に乗って動けば、それこそ国が危うくなりかねない。
――わりと饒舌な姉小路に対し、江藤はいつもより言葉少なく応じる。
「…長州の桂(小五郎)からも聞いておるぞ。江藤は、危うい事をする男やと。」
「危うきは、佐賀を抜けた時より覚悟のうえ。」
江藤も、“切腹”を命ぜられる恐れのある脱藩の帰路だとの認識はあるのだ。
「徳川が政を仕切る世は、もう長(なご)うは無い。」
姉小路が突如として、また別の話を切り出した。
「新しき御代(みよ)は、もうすぐ来るのや。」
これからは天皇を中心とした朝廷が政治を進めるのだと想いを語っている。
姉小路も最初に出会った時は、若さというより熱っぽさを感じさせたが、この夏の数か月で、その横顔には凜々しさも見えた。
〔参照:
「江藤。新しき御代(みよ)に、そなたは居るんやろうな。」
「それは申す間でもないこと。必ず参じます。」
「よし。その言葉、この姉小路が聞きおいたで。」
――姉小路卿は袖をひるがえし、京の夕日に向かう。
「そなたとは、もう少しゆるりと話をしたかったのう。」
背を向けたまま、姉小路が語る。
「まろは、近いうちに“蒸気仕掛け”の船にも乗ってみよう。」
「よか事にございます。異国の業(わざ)を超えんと欲すれば、学ばねばならんです。」
この姿勢は、江藤のみならず、佐賀藩の志士たちの心構えでもあった。
〔参照:
「必ず生き延びて、然るべき時に都に参じよ。」
「はっ。」
江藤は、はっきりと通る声で、姉小路に返答した。
ここから数年後。“新しき御代(みよ)”を迎えた時、京都にて混乱する新政府に、江藤はその姿を見せることになる。
しかし、その江藤を迎え入れたのは、姉小路ではなく、その盟友だった公家・三条実美だったという。これは、まだ先の話である。
〔参照:
(続く)