2023年05月30日
第19話「閑叟上洛」⑬(東海道から流れる噂)
こんばんは。
前回は、佐賀に帰ろうとする脱藩者・江藤新平と、有力公家・姉小路公知の別れの場面でした。
時期は文久二年(1862年)の秋ですが、姉小路は幕府に“攘夷実行”を催促する役回りで、京都から江戸へと向かいます。
この別れと旅立ちの少し前、同年八月に東海道では、幕末期の展開に大きい影響を及ぼす事件が起きていました。

――京。伏見の川港。
江藤新平は京の街から発ち、南にある川沿いの港町・伏見に向かい、佐賀への帰路へと入っていた。
大殿(前藩主)・鍋島直正まで、どうにか自身が見聞した京の情報を正確に伝え、役立ててほしいという強い想いを持っている。
「江藤さん。あんたも頑固な男や。姉小路卿も残ってほしいと仰せやのに。」
「それは恩に感じておるし、必ず戻って来らんばと思いよる。」
京に滞在中、世話になっていた姉小路の供回り。公家に仕える武士のことを“青侍”と言ったりするが、なかなか気の良い男らしい。
〔参照:第19話「閑叟上洛」②(入り組んだ、京の風向き)〕
無責任な暴論を吐く者は、手厳しく論破することもある江藤だが、この青侍との関係は良好なようだ。

――この伏見港から大坂(大阪)には、川下りの船旅となる。
「別れの手土産に一つ、聞いたばかりの噂話をしたるわ。」
京都から少し南にある伏見まで、この青侍は、江藤を見送りに来たらしい。
人あたりが良いのもあってか、かなりの早耳だ。尊王攘夷派の若き有力公家・姉小路公知の周囲には、様々な情報が集まっていた。
江藤が個人で、朝廷・幕府・諸大名や各地の志士の動向を掴むには、かなり良い位置にいたことになる。
「それは、ありがたか。佐賀に戻れば、もはや京での噂話は聞けぬゆえ。」
「…まだ噂やけどな。薩摩が、異人を斬ったらしいで。」
――つい数か月前には、この伏見にある寺田屋で。
薩摩藩は国父・島津久光の命令で、過激な勤王派の藩士を斬り捨てた。
〔参照:第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)〕

朝廷の威光により幕府の人事に介入し、薩摩が主導する幕政改革を実現したい時に、火種となる藩士は排除したい、という意図があったとされる。
この頃の薩摩は、一応は幕府寄りであり、海外貿易の利益も大事にするので、攘夷派のように、外国の排斥には組みしない傾向だった。
「薩摩が異人を斬ったとは、なにゆえか。どの国の者か。」
「詳しゅうわからんけど、異人が行列を横切ったらしいで。無礼や!というて、バッサリや。」
公家の供回りにしては、随分とくだけた物言いだが、この辺りの“軽さ”は身分が高くない者も多い志士や、商人ともつながるのに役立つようだ。
「それが事実であれば、国を危うくする短慮なり。」
その話を聞いて、江藤は厳しい表情をした。
――のちに“生麦事件”と呼ばれる、イギリス人に対する殺傷事件である。
文久二年八月に発生しており、事件現場は、東海道の神奈川宿に近い生麦村(現・横浜市内)。

川崎大師に向かったともいう、休日の乗馬を楽しんでいたイギリス人の一行が、薩摩藩の国父(藩主の父)・島津久光の、江戸から帰る行列とすれ違う。
薩摩の侍は「こらこら、馬を下りてたもんせ。」と身振りで伝えたが、イギリス人には理解できなかったようで、脇に逸れようとそのまま馬を進めた。
狭い道で薩摩の行列に逆流する形で進んだ馬が暴れ出し、国父・久光の駕籠の方を向いたので、薩摩の侍が抜刀した…というのが、概略のようだ。
日本国内の基準では、朝廷の使者を護衛する大藩の行列に突っ込めば成敗されて当然だが、欧米の感覚だと、自国民が斬られれば黙っていないだろう。
――開国後に続発した外国人襲撃とは状況が異なり、
脱藩の浪士が、突然襲いかかったものではない。明らかに斬ったのは、行列を警護していた薩摩藩士と思われる。
異人が行列に侵入してきたから、薩摩の手出しもやむを得なかったのかもしれないが、斬りつけた結果は外交上、重大なものだ。

「たぶん江藤さんは渋い顔をすると思うたけど、皆は大喜びや。」
どこからか聞いた話を青侍が続ける。事件の全容は見えないにせよ、旅人たちが現地での噂を拾えば、話は拡散していく。
「我らより先に異人を斬りゆうか!薩摩に遅れを取るな!…とか評判やで。」
青侍が、この話を聞いた攘夷派の志士たちの喜びようを再現してみせた。
――さらに、青侍が言葉を続ける。
「なぁ、江藤さん。時勢は動いとるで。いま、京から離れてええんか。」
「そがん(そのような)動きのあるなら、より急いて佐賀に戻らんばならん。」
青侍の呼びかけも理屈が通っていると思いつつも、江藤はそれを打ち消した。たしかに、刻一刻と移ろう政局を追うには、京の都に居る方が有利だ。
「…有り体(ありてい)に言えば、姉小路卿のところに残ってほしいんや。」
何やら、この青侍、今日は切羽詰まった印象があり、言葉を続ける。
「失礼な物言いやけど。こっちに居れば、金にも苦労はせんで。」

――伏見港の川風が、柳の枝を揺らす。
「そこまでのご厚情、恩に着る。」
もともと表情に固いところのある江藤だが、実のある提案に対して痩せ我慢をするようでもあった。
「佐賀に戻れば、切腹を命じられるかもしれんのやろ。」
ひとたび、江藤が佐賀に立ち入れば“重罪人”としての処遇が待っている可能性も高く、青侍の指摘も正しい。
江藤を引き留めたいのは、何か胸騒ぎを感じている様子もうかがえる。江藤は振り払うように、言葉を返した。
「ばってん、これも我が身一つの事ではなか。」
――幕府改革に熱心に介入し、開国も容認だったはずの薩摩藩。
国父・島津久光が兵を率いて、江戸に行った名目は公家の護衛だが、朝廷と幕府を結ぶ公武合体を、薩摩藩の圧力で進める意図だ。
ところが、事情はあったにせよ、帰り道に異人を斬る事件を起こしたことで、幕政を安定させるどころか混乱の中心に入ってしまった。
薩摩の思惑とは違う方向で、外国を排斥する“攘夷”運動の盛り上がりも加速させているのだ。

「姉小路卿にも、“中将”さまに道筋をお示ししてくる旨を、申し上げた。」
江藤が考える最適な答えは、実力があるうえ秩序を重んじる鍋島直正が佐賀という先進的な雄藩を率いて、事態の収拾をはかることで変わらない。
「わかるで。他の国より、佐賀は落ち着いとるからな。でもな…。」
この青侍にも、これから京の都で起きる事、どの程度まで見えていたかは定かではない。
――昼夜問わずに舟が行き交う、伏見の川港。
結構な頻度で船着場に発着があり、いつも賑やかだ。商人や侍も行き交う。江藤は、京から大坂に下っていく舟に乗り込んだ。
ここで青侍が、別れの一言を発した。
「江藤さん…命は大事にしろや。それと早う戻って来いよ。」
「いずれ都へと戻る事は約束する。御身も大切にせんばな。」
互いを気遣う言葉を交わして、大坂へと向かう乗り合いの舟はゆっくりと川べりから離れていき、ゆるやかな下りの流れに乗り始める。
このとき、江藤新平が京の都に滞在した期間は、わずか3か月程度という。短い夏に得た、微かな縁がつながって、のちの明治の世に活きることになる。
(続く)
前回は、佐賀に帰ろうとする脱藩者・江藤新平と、有力公家・姉小路公知の別れの場面でした。
時期は文久二年(1862年)の秋ですが、姉小路は幕府に“攘夷実行”を催促する役回りで、京都から江戸へと向かいます。
この別れと旅立ちの少し前、同年八月に東海道では、幕末期の展開に大きい影響を及ぼす事件が起きていました。

――京。伏見の川港。
江藤新平は京の街から発ち、南にある川沿いの港町・伏見に向かい、佐賀への帰路へと入っていた。
大殿(前藩主)・鍋島直正まで、どうにか自身が見聞した京の情報を正確に伝え、役立ててほしいという強い想いを持っている。
「江藤さん。あんたも頑固な男や。姉小路卿も残ってほしいと仰せやのに。」
「それは恩に感じておるし、必ず戻って来らんばと思いよる。」
京に滞在中、世話になっていた姉小路の供回り。公家に仕える武士のことを“青侍”と言ったりするが、なかなか気の良い男らしい。
〔参照:
無責任な暴論を吐く者は、手厳しく論破することもある江藤だが、この青侍との関係は良好なようだ。

――この伏見港から大坂(大阪)には、川下りの船旅となる。
「別れの手土産に一つ、聞いたばかりの噂話をしたるわ。」
京都から少し南にある伏見まで、この青侍は、江藤を見送りに来たらしい。
人あたりが良いのもあってか、かなりの早耳だ。尊王攘夷派の若き有力公家・姉小路公知の周囲には、様々な情報が集まっていた。
江藤が個人で、朝廷・幕府・諸大名や各地の志士の動向を掴むには、かなり良い位置にいたことになる。
「それは、ありがたか。佐賀に戻れば、もはや京での噂話は聞けぬゆえ。」
「…まだ噂やけどな。薩摩が、異人を斬ったらしいで。」
――つい数か月前には、この伏見にある寺田屋で。
薩摩藩は国父・島津久光の命令で、過激な勤王派の藩士を斬り捨てた。
〔参照:

朝廷の威光により幕府の人事に介入し、薩摩が主導する幕政改革を実現したい時に、火種となる藩士は排除したい、という意図があったとされる。
この頃の薩摩は、一応は幕府寄りであり、海外貿易の利益も大事にするので、攘夷派のように、外国の排斥には組みしない傾向だった。
「薩摩が異人を斬ったとは、なにゆえか。どの国の者か。」
「詳しゅうわからんけど、異人が行列を横切ったらしいで。無礼や!というて、バッサリや。」
公家の供回りにしては、随分とくだけた物言いだが、この辺りの“軽さ”は身分が高くない者も多い志士や、商人ともつながるのに役立つようだ。
「それが事実であれば、国を危うくする短慮なり。」
その話を聞いて、江藤は厳しい表情をした。
――のちに“生麦事件”と呼ばれる、イギリス人に対する殺傷事件である。
文久二年八月に発生しており、事件現場は、東海道の神奈川宿に近い生麦村(現・横浜市内)。
川崎大師に向かったともいう、休日の乗馬を楽しんでいたイギリス人の一行が、薩摩藩の国父(藩主の父)・島津久光の、江戸から帰る行列とすれ違う。
薩摩の侍は「こらこら、馬を下りてたもんせ。」と身振りで伝えたが、イギリス人には理解できなかったようで、脇に逸れようとそのまま馬を進めた。
狭い道で薩摩の行列に逆流する形で進んだ馬が暴れ出し、国父・久光の駕籠の方を向いたので、薩摩の侍が抜刀した…というのが、概略のようだ。
日本国内の基準では、朝廷の使者を護衛する大藩の行列に突っ込めば成敗されて当然だが、欧米の感覚だと、自国民が斬られれば黙っていないだろう。
――開国後に続発した外国人襲撃とは状況が異なり、
脱藩の浪士が、突然襲いかかったものではない。明らかに斬ったのは、行列を警護していた薩摩藩士と思われる。
異人が行列に侵入してきたから、薩摩の手出しもやむを得なかったのかもしれないが、斬りつけた結果は外交上、重大なものだ。
「たぶん江藤さんは渋い顔をすると思うたけど、皆は大喜びや。」
どこからか聞いた話を青侍が続ける。事件の全容は見えないにせよ、旅人たちが現地での噂を拾えば、話は拡散していく。
「我らより先に異人を斬りゆうか!薩摩に遅れを取るな!…とか評判やで。」
青侍が、この話を聞いた攘夷派の志士たちの喜びようを再現してみせた。
――さらに、青侍が言葉を続ける。
「なぁ、江藤さん。時勢は動いとるで。いま、京から離れてええんか。」
「そがん(そのような)動きのあるなら、より急いて佐賀に戻らんばならん。」
青侍の呼びかけも理屈が通っていると思いつつも、江藤はそれを打ち消した。たしかに、刻一刻と移ろう政局を追うには、京の都に居る方が有利だ。
「…有り体(ありてい)に言えば、姉小路卿のところに残ってほしいんや。」
何やら、この青侍、今日は切羽詰まった印象があり、言葉を続ける。
「失礼な物言いやけど。こっちに居れば、金にも苦労はせんで。」

――伏見港の川風が、柳の枝を揺らす。
「そこまでのご厚情、恩に着る。」
もともと表情に固いところのある江藤だが、実のある提案に対して痩せ我慢をするようでもあった。
「佐賀に戻れば、切腹を命じられるかもしれんのやろ。」
ひとたび、江藤が佐賀に立ち入れば“重罪人”としての処遇が待っている可能性も高く、青侍の指摘も正しい。
江藤を引き留めたいのは、何か胸騒ぎを感じている様子もうかがえる。江藤は振り払うように、言葉を返した。
「ばってん、これも我が身一つの事ではなか。」
――幕府改革に熱心に介入し、開国も容認だったはずの薩摩藩。
国父・島津久光が兵を率いて、江戸に行った名目は公家の護衛だが、朝廷と幕府を結ぶ公武合体を、薩摩藩の圧力で進める意図だ。
ところが、事情はあったにせよ、帰り道に異人を斬る事件を起こしたことで、幕政を安定させるどころか混乱の中心に入ってしまった。
薩摩の思惑とは違う方向で、外国を排斥する“攘夷”運動の盛り上がりも加速させているのだ。

「姉小路卿にも、“中将”さまに道筋をお示ししてくる旨を、申し上げた。」
江藤が考える最適な答えは、実力があるうえ秩序を重んじる鍋島直正が佐賀という先進的な雄藩を率いて、事態の収拾をはかることで変わらない。
「わかるで。他の国より、佐賀は落ち着いとるからな。でもな…。」
この青侍にも、これから京の都で起きる事、どの程度まで見えていたかは定かではない。
――昼夜問わずに舟が行き交う、伏見の川港。
結構な頻度で船着場に発着があり、いつも賑やかだ。商人や侍も行き交う。江藤は、京から大坂に下っていく舟に乗り込んだ。
ここで青侍が、別れの一言を発した。
「江藤さん…命は大事にしろや。それと早う戻って来いよ。」
「いずれ都へと戻る事は約束する。御身も大切にせんばな。」
互いを気遣う言葉を交わして、大坂へと向かう乗り合いの舟はゆっくりと川べりから離れていき、ゆるやかな下りの流れに乗り始める。
このとき、江藤新平が京の都に滞在した期間は、わずか3か月程度という。短い夏に得た、微かな縁がつながって、のちの明治の世に活きることになる。
(続く)
Posted by SR at 22:36 | Comments(0) | 第19話「閑叟上洛」
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
|
|
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。 |