2020年09月22日

「主に嬉野市民の方を対象にしたつぶやき(後編)」

こんばんは。
嬉野市について考える投稿の後編。今回のお題は「忍者と情報」です。ちなみに第14話遣米使節」の予告も兼ねています。


――第14話のテーマは“蘭学”から“英学”への転換。

1854年アメリカに続いて、イギリス日本との「和親条約」を締結します。

そして、井伊直弼大老に就任して調印となった「通商条約」(1858年)も、アメリカから始まり、欧米各国が続くという展開です。
〔参照(後半):第13話「通商条約」⑬(豪腕、唸〔うな〕る)


――さて、長崎で「日英和親条約」の締結交渉をしたイギリス。

当時の日本英語を遣う人物はほぼ居ません。オランダ語を介しての交渉。豊前(大分)の中津藩士福沢諭吉も、奉行所の手伝いで関わったようです。

このときから、長崎にはイギリス船も出入りするようになりました。


――そして、佐賀藩にとって、イギリスは“因縁の相手”。

半世紀くらい前ですが、幕末佐賀藩の起点ともなった事件1808年長崎港へのイギリス船フェートン号”の侵入がありました。

このとき佐賀藩が警備の手抜かりで、幕府から処罰されます。“本編”では、第1話の題材でした。
〔参照:第1話「長崎警護」⑥-3


――「では此度は、おのおの抜かりなく」という指令があったのか…

佐賀藩からも“忍者”を放って、イギリス船の様子を伺った形跡があります。

1856年長崎イギリス船の動向を探る武士がいました。佐賀支藩の1つ“蓮池藩”に所属する人物ですが、学術研究で“忍者”と認定されたそうです。

蓮池藩の領地は、各地に分散しています。しかし、嬉野周辺に広い領地を持っており、長崎にもアプローチが容易だったのでしょう。



――“忍者”が出向かずとも、情報が自然に集まる“場所”もあります。

道と道が重なる“結節点”。平たく言えば、江戸時代ターミナル駅ですね。

長崎街道塩田宿です。
ここは街道宿場町だけでなく“川の港”・塩田津として知られていました。

江戸時代には、陸上で物資を大量に運ぶのは難しく、水路を使った輸送が重要でした。幕末の舞台で有名な“川の港”としては、京都の伏見が代表格でしょう。


――ここ塩田にある“川の港”も、全国各地とつながっていました。

近くでは天草(熊本)からは“陶石”の取引が多かったようです。伊万里有田など、陶磁器の生産地に足回りも良い、塩田の港が有効に機能したと思います。

遠方では“天下の台所”と呼ばれた商業集積地・大坂(大阪)へも航路でつながっていたとも。有明海の干満の差を利用した“川の港”は便利だったようですね。


――書く内容が有り過ぎて、後編でも“嬉野温泉”に触れられませんでした。

今回の嬉野編もそうなのですが、佐賀各地幕末を調べると「溢れんばかりに、泉が湧いてくる」ような…そんな感覚になります。