2021年07月01日
「もしも不遇を感じた時には…」
こんばんは。
先週末で、大河ドラマ『青天を衝け』の第20回。「何だか、佐賀の匂いがする…」というわけでもありませんが、私は一瞬の登場でも見逃しません。
土曜に再放送を見る方は、注目してほしい、放送開始から19分ほど経過した時点。
――画面上に大写しされる、北九州の地図。
1866年。第2次長州征討の際、小倉(福岡県)付近では善戦していた幕府軍。
しかし、地図上では小倉城が発火する演出。幕府軍は拠点を失う事態となり、敗北が決定的になったとのナレーション。
広がる炎…その横には「小笠原壱岐守様 御陣」と墨書されていました。
――それは、佐賀の話…?
…そう思われた方。実は“小笠原”様というお名前が大事なのです。
当時、幕府軍で小倉口方面の指揮を執っていたのが、唐津藩の小笠原長行(おがさわら ながみち)さまなのです。
そうです。今の佐賀県には佐賀藩だけでなく、唐津藩もありました。そして江戸時代の唐津は、幕府で重職を務める譜代大名が入りました。
〔参照:「主に唐津市民の方を対象にしたつぶやき」〕

――唐津藩の“若殿”(藩主名代)である小笠原長行さま。
この方を調べるうちに、私は釈然としない感情を覚えるのです。
「一言でいえば…不憫(ふびん)過ぎるぞ!唐津の“若殿”」と感じます。
賢くて才能もある方なのに“貧乏クジ”ばかり引かされている…という印象です。
――不憫ポイント①「殿様の長男なのに…」
唐津城で生まれた、小笠原長行さま。幕府に近い立場の唐津藩。長崎の警備を担当する佐賀・福岡両藩(有力な外様大名)の見張り役を受け持ちます。
その“長崎見廻役”の任務は重く、幼い子は唐津藩の殿様になれなかったようです。そんな事情があってか、他藩から養子を迎え続ける唐津藩。
殿様の長男なのに、タイミング的に冷遇されて跡が継げない。何とも不憫です…
――不憫ポイント②「この時期に幕閣…」
“桜田門外の変”で大老・井伊直弼が亡くなった頃から急落する幕府の権威。人材を求める幕府は、賢いと評判の小笠原長行さまを老中の地位に付けます。
唐津藩の世継ぎの身分ながら、幕閣で活躍を始めた小笠原さま。
…1862年。薩摩藩士が行列を横切ったイギリス人を斬る事件が発生。小笠原さまは、この“生麦事件”で事後処理に奔走することになります。

誰も決断をしない中、武力行使に前のめりなイギリスに向き合い、老中としては「賠償金止む無し」と判断。
攘夷派からは目の敵にされますが、この判断は評価する見解も多いようです。ご苦労なさった…
――不憫ポイント③「もはや逃亡者…」
“第2次長州征討”で、幕府側の指揮官の1人だった小笠原長行さま。
1868年。戊辰戦争。薩摩・長州が中心の新政府軍からは“朝敵”と扱われます。幕府への忠誠心も強かった、小笠原さま。江戸を抜け出し、東北へ。
新政府から唐津藩には「小笠原長行の逮捕命令」まで出されます。
東北では、会津(福島)などを回って新政府軍に抗戦。のち蝦夷地(北海道)まで行くのですが、いろいろあって蝦夷地では、戦っていないようです。
――そんな“若殿”を救いたい唐津藩士たち…
唐津藩は明治新政府に、“若殿”とは断絶したと宣言する一方で、すでに新政府でも存在感を発揮する佐賀藩を頼ります。
当時は佐賀藩のご隠居・鍋島直正に“若殿”の助命への協力を願い出ます。
実際「薩長には従いたくないが、佐賀まで新政府に入っては致し方ないか…」と考えた藩は他にもあった様子。
――小笠原長行さま。何とか新時代を生きていくことに。
唐津藩士たちの想い、佐賀藩の援護もあって命には縁がありましたが、“唐津の殿様”だったかも不確かで、“世継ぎ”のままだったという扱いに。(諸説あり)
すごく苦労が感じられる人。もし「幕末佐賀藩の大河ドラマ」が実現したら、物語の要所に登場いただきたい方です。
“唐津の若殿”小笠原さまの視点で、幕府方の苦悩も描けば「“佐賀の大河”としては、“完全形”に近づく…」と考えたりもしています。
〔参照:「誰の“視点”から見るか?」〕
先週末で、大河ドラマ『青天を衝け』の第20回。「何だか、佐賀の匂いがする…」というわけでもありませんが、私は一瞬の登場でも見逃しません。
土曜に再放送を見る方は、注目してほしい、放送開始から19分ほど経過した時点。
――画面上に大写しされる、北九州の地図。
1866年。第2次長州征討の際、小倉(福岡県)付近では善戦していた幕府軍。
しかし、地図上では小倉城が発火する演出。幕府軍は拠点を失う事態となり、敗北が決定的になったとのナレーション。
広がる炎…その横には「小笠原壱岐守様 御陣」と墨書されていました。
――それは、佐賀の話…?
…そう思われた方。実は“小笠原”様というお名前が大事なのです。
当時、幕府軍で小倉口方面の指揮を執っていたのが、唐津藩の小笠原長行(おがさわら ながみち)さまなのです。
そうです。今の佐賀県には佐賀藩だけでなく、唐津藩もありました。そして江戸時代の唐津は、幕府で重職を務める譜代大名が入りました。
〔参照:
――唐津藩の“若殿”(藩主名代)である小笠原長行さま。
この方を調べるうちに、私は釈然としない感情を覚えるのです。
「一言でいえば…不憫(ふびん)過ぎるぞ!唐津の“若殿”」と感じます。
賢くて才能もある方なのに“貧乏クジ”ばかり引かされている…という印象です。
――不憫ポイント①「殿様の長男なのに…」
唐津城で生まれた、小笠原長行さま。幕府に近い立場の唐津藩。長崎の警備を担当する佐賀・福岡両藩(有力な外様大名)の見張り役を受け持ちます。
その“長崎見廻役”の任務は重く、幼い子は唐津藩の殿様になれなかったようです。そんな事情があってか、他藩から養子を迎え続ける唐津藩。
殿様の長男なのに、タイミング的に冷遇されて跡が継げない。何とも不憫です…
――不憫ポイント②「この時期に幕閣…」
“桜田門外の変”で大老・井伊直弼が亡くなった頃から急落する幕府の権威。人材を求める幕府は、賢いと評判の小笠原長行さまを老中の地位に付けます。
唐津藩の世継ぎの身分ながら、幕閣で活躍を始めた小笠原さま。
…1862年。薩摩藩士が行列を横切ったイギリス人を斬る事件が発生。小笠原さまは、この“生麦事件”で事後処理に奔走することになります。
誰も決断をしない中、武力行使に前のめりなイギリスに向き合い、老中としては「賠償金止む無し」と判断。
攘夷派からは目の敵にされますが、この判断は評価する見解も多いようです。ご苦労なさった…
――不憫ポイント③「もはや逃亡者…」
“第2次長州征討”で、幕府側の指揮官の1人だった小笠原長行さま。
1868年。戊辰戦争。薩摩・長州が中心の新政府軍からは“朝敵”と扱われます。幕府への忠誠心も強かった、小笠原さま。江戸を抜け出し、東北へ。
新政府から唐津藩には「小笠原長行の逮捕命令」まで出されます。
東北では、会津(福島)などを回って新政府軍に抗戦。のち蝦夷地(北海道)まで行くのですが、いろいろあって蝦夷地では、戦っていないようです。
――そんな“若殿”を救いたい唐津藩士たち…
唐津藩は明治新政府に、“若殿”とは断絶したと宣言する一方で、すでに新政府でも存在感を発揮する佐賀藩を頼ります。
当時は佐賀藩のご隠居・鍋島直正に“若殿”の助命への協力を願い出ます。
実際「薩長には従いたくないが、佐賀まで新政府に入っては致し方ないか…」と考えた藩は他にもあった様子。
――小笠原長行さま。何とか新時代を生きていくことに。
唐津藩士たちの想い、佐賀藩の援護もあって命には縁がありましたが、“唐津の殿様”だったかも不確かで、“世継ぎ”のままだったという扱いに。(諸説あり)
すごく苦労が感じられる人。もし「幕末佐賀藩の大河ドラマ」が実現したら、物語の要所に登場いただきたい方です。
“唐津の若殿”小笠原さまの視点で、幕府方の苦悩も描けば「“佐賀の大河”としては、“完全形”に近づく…」と考えたりもしています。
〔参照: