2020年06月21日
第11話「蝦夷探検」⑧(伊勢街道の“旅人”)
こんにちは。
昨年、NHKで放送された「永遠のニシパ」というドラマをご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。
「北海道150周年記念」で製作された番組。“嵐”の松本潤さんが主役で、“北海道”の命名者“松浦武四郎”を演じました。
ここから数回、“団にょん(島義勇)”さんが街道を、雪原を、そして荒野を行く、ロードムービーのような展開になります。先ほどのドラマを見ていた方には、「おっ!?」と思う場面があるかもしれません…
――安政3年(1856年)旧暦9月。佐賀城下。
「“団にょん”さん、気ばつけていかんね!」
「体を厭(いと)いんしゃい!」
北へ向けて旅立つ、島義勇を佐賀の人々が見送る。
「見送り、ご苦労!いざ“蝦夷地”に行って参るぞ!」
島は高揚している。無理もない…かなりの大冒険になるのだ。
「では、行こうか!“犬っ”!」
「“犬”じゃなかばい!おいは、犬塚たい!」
「すまん、すまん…以後、気を付ける!」
島義勇とともに、同僚の犬塚与七郎も“蝦夷地”の探索に向かうのである。
――幕末、まだ陸路での旅が一般的な時代。島と犬塚の2人は佐賀から長崎街道を東へ。
秋の気配は少しずつ深まっていく。
双方とも健脚である。まずは3日間で下関に到着し、山陰道に入る。
…萩、津和野、米子、鳥取…
出立から1か月後、10月に入って城崎(兵庫)に到着した。
ひととき、城崎の温泉で疲れを癒す。
「“団にょん”さん!城崎の湯は、よかですね!」
「まぁ“武雄の湯”の次くらいかのう!」
…“団にょん”の地元びいきである。
佐賀には武雄温泉以外にも、“嬉野”や“古湯”など名湯も多いが、ここでは殿・鍋島直正のお気に入りを推しておこう。
この後、日本海沿いに小浜(福井)まで進み、南下。京都からは東海道に入る。
――出立から2か月後、11月に入る。桑名(三重)に差し掛かった2人。
「おおっ!犬じゃ!」
先を歩く、島義勇が声を出す。
「おいは、犬塚たい!…あっ、本当に犬の話でしたか…」
ここで犬塚与七郎にも、こちらに歩いてくる犬の姿が目に入った。参拝客たちと一緒に、東海道を西に向かってくる。
――三重といえば、“伊勢神宮”を思い浮かべる方も多いだろう。

江戸時代には“お伊勢参り”は「一生に一度は行きたいビックイベント」であった。しかし、日々の暮らしに追われる、大半の庶民にとっては叶わぬ夢…
――そして、江戸などに住む庶民は「お伊勢さんに行きたい!」想いを、地域の代表者や“犬”に託すこともあった!
ワンワン!
きつね色の毛並み、三角に立った両耳、クルンと巻いた尻尾。
典型的な“柴犬”である!
「お伊勢さんまで、あと少しじゃ!お前も頑張れよ!」
「お~よしよし、ワシの飯の残りじゃが、少し食べるか!」
伊勢に向かう人々のサポートを受けて、目的地を目指す犬。
クゥーン…!
こうして、お伊勢さんには、“犬”も参拝できた。
――彼らは“おかげ犬”と呼ばれ、親切にすると功徳(くどく)を積むことができると信じられ、大事にされた。
そして、犬たちも参拝客や沿道の人々に支えられて、伊勢を目指すのである。
「さすが、お伊勢さんが近いと賑やかなもんじゃのう!」
「そういえば、この辺りの生まれで、たいそう“蝦夷地”に詳しい者が居っとです!」
この頃“松浦武四郎”という人物が、“蝦夷地”に関する書籍を次々に発行していた。その松浦は、“伊勢商人”で有名な、松坂(三重)の出身である。
伊勢街道を往来する人々を、間近に眺めて育った、松浦武四郎。
自身も旅から旅への人生を選んでいったのである。
――島と犬塚の2人は、そのまま東海道を進む。途中、黒船来航の地・浦賀などを経て、江戸にある佐賀藩の屋敷に到着する。
9月に佐賀を発ち、12月に江戸入り。概ね3か月の旅路だった。
「“蝦夷地”に入った折は、まず箱館に留まれ。そして“松浦武四郎”と接触を試みよ!」
江戸では、さらに詳細な指示が与えられた。
沿海の各藩が、すでに“蝦夷地”の探索に乗り出している。
幕府の箱館奉行所、松前藩(蝦夷地の一部を統治)…そして、各藩。“蝦夷地”への目論見は様々である。
そして、現地で自由に動くためには、伝手(つて)が要る。佐賀藩は、既に“蝦夷地”を3度も探検し、当代随一の“蝦夷通”である松浦武四郎に着目していた。
――現地での接触は、おそらく“出たとこ勝負”になる。ある意味で、直線的な突破型の“団にょん”に向いた仕事である。
「陸奥(みちのく)の冬は厳しい。道中、気を付けて行かれよ。」
同じ佐賀藩でも、江戸屋敷の見送りは、やや“都会的”である。
「お見送り、忝(かたじけ)のうございます。」
そして島義勇、冬の東北に向かう。

まず水戸街道を北へ。かつて島が、水戸(茨城)に出向いたときにも通った道だ。
安政の江戸地震で、藤田東湖をはじめ政務の中心人物を失った水戸藩。不穏な空気が漂い始めていた。
「…やはり、人なのじゃな。大事なものは…」
島義勇は、東北へと続く空を見上げた。
ピ-ヒョロロ-
冬の寒空を、鳶(トンビ)が鳴き声を上げて、旋回していた。
(続く)
昨年、NHKで放送された「永遠のニシパ」というドラマをご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。
「北海道150周年記念」で製作された番組。“嵐”の松本潤さんが主役で、“北海道”の命名者“松浦武四郎”を演じました。
ここから数回、“団にょん(島義勇)”さんが街道を、雪原を、そして荒野を行く、ロードムービーのような展開になります。先ほどのドラマを見ていた方には、「おっ!?」と思う場面があるかもしれません…
――安政3年(1856年)旧暦9月。佐賀城下。
「“団にょん”さん、気ばつけていかんね!」
「体を厭(いと)いんしゃい!」
北へ向けて旅立つ、島義勇を佐賀の人々が見送る。
「見送り、ご苦労!いざ“蝦夷地”に行って参るぞ!」
島は高揚している。無理もない…かなりの大冒険になるのだ。
「では、行こうか!“犬っ”!」
「“犬”じゃなかばい!おいは、犬塚たい!」
「すまん、すまん…以後、気を付ける!」
島義勇とともに、同僚の犬塚与七郎も“蝦夷地”の探索に向かうのである。
――幕末、まだ陸路での旅が一般的な時代。島と犬塚の2人は佐賀から長崎街道を東へ。
秋の気配は少しずつ深まっていく。
双方とも健脚である。まずは3日間で下関に到着し、山陰道に入る。
…萩、津和野、米子、鳥取…
出立から1か月後、10月に入って城崎(兵庫)に到着した。
ひととき、城崎の温泉で疲れを癒す。
「“団にょん”さん!城崎の湯は、よかですね!」
「まぁ“武雄の湯”の次くらいかのう!」
…“団にょん”の地元びいきである。
佐賀には武雄温泉以外にも、“嬉野”や“古湯”など名湯も多いが、ここでは殿・鍋島直正のお気に入りを推しておこう。
この後、日本海沿いに小浜(福井)まで進み、南下。京都からは東海道に入る。
――出立から2か月後、11月に入る。桑名(三重)に差し掛かった2人。
「おおっ!犬じゃ!」
先を歩く、島義勇が声を出す。
「おいは、犬塚たい!…あっ、本当に犬の話でしたか…」
ここで犬塚与七郎にも、こちらに歩いてくる犬の姿が目に入った。参拝客たちと一緒に、東海道を西に向かってくる。
――三重といえば、“伊勢神宮”を思い浮かべる方も多いだろう。
江戸時代には“お伊勢参り”は「一生に一度は行きたいビックイベント」であった。しかし、日々の暮らしに追われる、大半の庶民にとっては叶わぬ夢…
――そして、江戸などに住む庶民は「お伊勢さんに行きたい!」想いを、地域の代表者や“犬”に託すこともあった!
ワンワン!
きつね色の毛並み、三角に立った両耳、クルンと巻いた尻尾。
典型的な“柴犬”である!
「お伊勢さんまで、あと少しじゃ!お前も頑張れよ!」
「お~よしよし、ワシの飯の残りじゃが、少し食べるか!」
伊勢に向かう人々のサポートを受けて、目的地を目指す犬。
クゥーン…!
こうして、お伊勢さんには、“犬”も参拝できた。
――彼らは“おかげ犬”と呼ばれ、親切にすると功徳(くどく)を積むことができると信じられ、大事にされた。
そして、犬たちも参拝客や沿道の人々に支えられて、伊勢を目指すのである。
「さすが、お伊勢さんが近いと賑やかなもんじゃのう!」
「そういえば、この辺りの生まれで、たいそう“蝦夷地”に詳しい者が居っとです!」
この頃“松浦武四郎”という人物が、“蝦夷地”に関する書籍を次々に発行していた。その松浦は、“伊勢商人”で有名な、松坂(三重)の出身である。
伊勢街道を往来する人々を、間近に眺めて育った、松浦武四郎。
自身も旅から旅への人生を選んでいったのである。
――島と犬塚の2人は、そのまま東海道を進む。途中、黒船来航の地・浦賀などを経て、江戸にある佐賀藩の屋敷に到着する。
9月に佐賀を発ち、12月に江戸入り。概ね3か月の旅路だった。
「“蝦夷地”に入った折は、まず箱館に留まれ。そして“松浦武四郎”と接触を試みよ!」
江戸では、さらに詳細な指示が与えられた。
沿海の各藩が、すでに“蝦夷地”の探索に乗り出している。
幕府の箱館奉行所、松前藩(蝦夷地の一部を統治)…そして、各藩。“蝦夷地”への目論見は様々である。
そして、現地で自由に動くためには、伝手(つて)が要る。佐賀藩は、既に“蝦夷地”を3度も探検し、当代随一の“蝦夷通”である松浦武四郎に着目していた。
――現地での接触は、おそらく“出たとこ勝負”になる。ある意味で、直線的な突破型の“団にょん”に向いた仕事である。
「陸奥(みちのく)の冬は厳しい。道中、気を付けて行かれよ。」
同じ佐賀藩でも、江戸屋敷の見送りは、やや“都会的”である。
「お見送り、忝(かたじけ)のうございます。」
そして島義勇、冬の東北に向かう。

まず水戸街道を北へ。かつて島が、水戸(茨城)に出向いたときにも通った道だ。
安政の江戸地震で、藤田東湖をはじめ政務の中心人物を失った水戸藩。不穏な空気が漂い始めていた。
「…やはり、人なのじゃな。大事なものは…」
島義勇は、東北へと続く空を見上げた。
ピ-ヒョロロ-
冬の寒空を、鳶(トンビ)が鳴き声を上げて、旋回していた。
(続く)