2020年06月19日
第11話「蝦夷探検」⑦(“拓北”の決意)
こんばんは。
前回、藩校の大乱闘事件・“南北騒動”の中心にいた、大隈八太郎(重信)。藩校・“弘道館”を退学になった大隈は、学びの場を求めて、枝吉神陽を訪ねます。
災害が頻発した安政年間は、幕府が大きく揺らいだ時期でもあります。長文ですので、落ち着いたときにお読みいただければと思います。
――1855年。佐賀城下。
枝吉家の門前に立つ、少年が声を張る。
「大隈八太郎です!神陽先生、こんにちは。」
いつもの大隈らしからぬ緊張ぶりである。
佐賀で枝吉神陽と言えば、志ある若者たちの“カリスマ”なのである。
「構わぬぞ!表より入るが良い。」
「はい、失礼します!」
――神陽の声は清々しく辺りに響いた。大隈八太郎も元気よく返す。
「八太郎か!大きくなったな。」
「はい!」
この辺りの感じは、幼児のときに母・三井子に連れられて、神陽先生に会ったときと変わらない。
しかし、大隈八太郎、今ではかなりの長身である。まさに“大きくなった”のだ。
神陽は、八太郎を一瞥(いちべつ)すると、軽く微笑んだ。
「“弘道館”では、随分と暴れたそうではないか!」
「はい…」
――年を経る毎に、神陽先生の“義祭同盟”は存在感が高まり、有望な若者が多く集う。
最近の大隈八太郎は、その末席に居るような状況である。
オーラがある神陽先生に、あまり馴れ馴れしくも話しかけられず、しばらく様子を見守る。
「…うむ。」
「神陽先生!いかがなさいましたか!」
読みかけであった手紙を見ながら、眉間にしわを寄せる神陽先生。
手紙の内容が気になって仕方がない八太郎が問う。
「八太郎よ。存じておるか。ここ1年ばかり天変地異が続いておる。」
――当時、日米和親条約の締結の年(1854年)から災害が続いた。代表的なものは、安政の東海地震および南海地震である。
新暦で言えば12月下旬。初冬に立て続けに起きた、2つの巨大地震。あまりに災害が続くので、元号を“嘉永”から“安政”に改めたのである。
このような経過で、歴史上は1854年は年始から“安政元年”だったという扱いになっている。
「公儀(幕府)の費え(支出)は莫大になるだろう。いかに建て直すか…であろうな」
神陽は、幕府の安定を揺るがす、財政負担に考えを巡らせる。
大隈八太郎は「やはり神陽先生は、“弘道館”の教師たちとは違う!今を見ておられる!」と目を輝かせた。
ここで、いつもなら“鐘の鳴る”ような声量で言葉を発する神陽が、いつになく訥々(とつとつ)とつぶやく。
「何やら、良からぬ胸騒ぎがいたすな…」
――不幸なことに、この年(1855年)も“天変地異”は続いた。そして、大都市・江戸を大きな揺れが襲ったのである。

前年の初冬に起きた2つの巨大地震から1年も経たない、晩秋。
江戸の小石川にある水戸藩の屋敷。
島義勇(団右衛門)の先生でもある、藤田東湖は“安政の江戸地震”の真っ只中にいた。
「浮足(うきあし)立つな!気を鎮めて、事にあたれ!!」
藤田東湖が、落ち着いた声で指示を出す。
「はっ!」
激しい揺れに驚いた水戸藩士たちも、藤田の言葉に正気を取り戻す。避難誘導は順調である。
――水戸の屋敷には、藤田東湖の母・梅子もいた。年老いてはいるが避難には問題ない。
しかし、藤田の母は、屋敷が延焼する危険に気付いた。
「いけない…火鉢をそのままにしておる!辺りに火が廻ってしまう!」
責任感の強い、藤田の母は慌てて屋敷に引き返そうとする。
ここで藤田東湖は、母の動きに気付いた。
「いかん!母上、お戻りなされ!」
――先ほどの揺れで、屋敷の建屋が崩れかかっている。
ガラガラッ…ズン!
屋敷の梁(はり)が、落下する。
ガシッ!
藤田東湖は、“神道無念流”の剣の達人である。
無駄のない足運びで、崩れゆく梁の下に潜り込み、肩で受け止めた。
「むっ…ぐぐ…っ」
「…母上…お逃げなされ!」
「“虎っ”…!」
藤田東湖の幼名は“虎之助”であったと言う。
年老いた母・梅子は、東湖の身を挺した動きにより、難を逃れたのである。
――佐賀城下。島義勇(団右衛門)のもとに、同僚の犬塚が駆け込んでくる。

「おおっ、どうした犬っ!何かあったのか!?」
「犬じゃなか!犬塚たい。」
「いや…そいどころじゃなか!“団にょん”さん!落ち着いて聞かんね。」
犬塚は、人には「落ち着け」と言いながら、明らかに慌てている。
「もしや!江戸に関わる話か…」
江戸で、発生した巨大地震について、凄まじい被害状況が伝わり始めていた。
「実は、お主の親しかった、水戸の藤田さまが…」
先ほどまで軽口をたたいていた“団にょん”の表情が変わる。
藤田東湖の逝去が伝わった。
島義勇。無言のまま、はらはらと涙を落した。
――後日、佐賀城の本丸。殿・鍋島直正から呼び出しを受け、島義勇が登城していた。
「水戸の藤田は、最後まで立派な士(さむらい)であったようだな。」
「はい、ご母堂を庇(かば)って、お亡くなりに…」
「藤田とお主の二人で整えた、貢姫の縁組み。既に川越(藩)との話に進んでおり、盤石である。」
「藤田には、一言、礼を申したかったな。」
「はっ!」
――殿のお褒めを受け、島は「藤田東湖との“仕事”が形になった」と感じる。少し救われた想いである。
ここから、殿・直正は呼び出しの用件を伝える。
「此度の地震で、江戸の屋敷も無傷ではない。しかし時勢は動いておる。立ち止まってもおれん。」
――ついに殿から直々に、島義勇へ“蝦夷地探索”の命が下ったのである。

この頃、箱館(函館)が開港した影響で、沿海の諸藩が一斉に“蝦夷地”を目指していた。
「どの者を“蝦夷地”に派するか、迷うておったが…お主に決めた。」
「はっ!ワシ…いや、拙者にお命じいただいたのは、何故でございますか。」
「目じゃな!」
「はっ…?目でございますか。」
「あとは、足であろうな。」
「ははっ、ありがたき幸せ!この一身にて、蝦夷地を見聞いたしまする!」
――藤田東湖は“尊王”の志を説いたが、その後ろ姿で島義勇に伝えたことは、むしろ“殿様の懐刀”としての生き様である。
殿・直正からの「余の目となり、足となって働いて来い!」という指示は、まさに島が望むものであった。
“蝦夷地”で待つものは、広大な土地、豊かな天然資源、特産品の新しい販路…
こうして、“情熱の開拓者”・島義勇の冒険が始まるのである。
(続く)
前回、藩校の大乱闘事件・“南北騒動”の中心にいた、大隈八太郎(重信)。藩校・“弘道館”を退学になった大隈は、学びの場を求めて、枝吉神陽を訪ねます。
災害が頻発した安政年間は、幕府が大きく揺らいだ時期でもあります。長文ですので、落ち着いたときにお読みいただければと思います。
――1855年。佐賀城下。
枝吉家の門前に立つ、少年が声を張る。
「大隈八太郎です!神陽先生、こんにちは。」
いつもの大隈らしからぬ緊張ぶりである。
佐賀で枝吉神陽と言えば、志ある若者たちの“カリスマ”なのである。
「構わぬぞ!表より入るが良い。」
「はい、失礼します!」
――神陽の声は清々しく辺りに響いた。大隈八太郎も元気よく返す。
「八太郎か!大きくなったな。」
「はい!」
この辺りの感じは、幼児のときに母・三井子に連れられて、神陽先生に会ったときと変わらない。
しかし、大隈八太郎、今ではかなりの長身である。まさに“大きくなった”のだ。
神陽は、八太郎を一瞥(いちべつ)すると、軽く微笑んだ。
「“弘道館”では、随分と暴れたそうではないか!」
「はい…」
――年を経る毎に、神陽先生の“義祭同盟”は存在感が高まり、有望な若者が多く集う。
最近の大隈八太郎は、その末席に居るような状況である。
オーラがある神陽先生に、あまり馴れ馴れしくも話しかけられず、しばらく様子を見守る。
「…うむ。」
「神陽先生!いかがなさいましたか!」
読みかけであった手紙を見ながら、眉間にしわを寄せる神陽先生。
手紙の内容が気になって仕方がない八太郎が問う。
「八太郎よ。存じておるか。ここ1年ばかり天変地異が続いておる。」
――当時、日米和親条約の締結の年(1854年)から災害が続いた。代表的なものは、安政の東海地震および南海地震である。
新暦で言えば12月下旬。初冬に立て続けに起きた、2つの巨大地震。あまりに災害が続くので、元号を“嘉永”から“安政”に改めたのである。
このような経過で、歴史上は1854年は年始から“安政元年”だったという扱いになっている。
「公儀(幕府)の費え(支出)は莫大になるだろう。いかに建て直すか…であろうな」
神陽は、幕府の安定を揺るがす、財政負担に考えを巡らせる。
大隈八太郎は「やはり神陽先生は、“弘道館”の教師たちとは違う!今を見ておられる!」と目を輝かせた。
ここで、いつもなら“鐘の鳴る”ような声量で言葉を発する神陽が、いつになく訥々(とつとつ)とつぶやく。
「何やら、良からぬ胸騒ぎがいたすな…」
――不幸なことに、この年(1855年)も“天変地異”は続いた。そして、大都市・江戸を大きな揺れが襲ったのである。

前年の初冬に起きた2つの巨大地震から1年も経たない、晩秋。
江戸の小石川にある水戸藩の屋敷。
島義勇(団右衛門)の先生でもある、藤田東湖は“安政の江戸地震”の真っ只中にいた。
「浮足(うきあし)立つな!気を鎮めて、事にあたれ!!」
藤田東湖が、落ち着いた声で指示を出す。
「はっ!」
激しい揺れに驚いた水戸藩士たちも、藤田の言葉に正気を取り戻す。避難誘導は順調である。
――水戸の屋敷には、藤田東湖の母・梅子もいた。年老いてはいるが避難には問題ない。
しかし、藤田の母は、屋敷が延焼する危険に気付いた。
「いけない…火鉢をそのままにしておる!辺りに火が廻ってしまう!」
責任感の強い、藤田の母は慌てて屋敷に引き返そうとする。
ここで藤田東湖は、母の動きに気付いた。
「いかん!母上、お戻りなされ!」
――先ほどの揺れで、屋敷の建屋が崩れかかっている。
ガラガラッ…ズン!
屋敷の梁(はり)が、落下する。
ガシッ!
藤田東湖は、“神道無念流”の剣の達人である。
無駄のない足運びで、崩れゆく梁の下に潜り込み、肩で受け止めた。
「むっ…ぐぐ…っ」
「…母上…お逃げなされ!」
「“虎っ”…!」
藤田東湖の幼名は“虎之助”であったと言う。
年老いた母・梅子は、東湖の身を挺した動きにより、難を逃れたのである。
――佐賀城下。島義勇(団右衛門)のもとに、同僚の犬塚が駆け込んでくる。

「おおっ、どうした犬っ!何かあったのか!?」
「犬じゃなか!犬塚たい。」
「いや…そいどころじゃなか!“団にょん”さん!落ち着いて聞かんね。」
犬塚は、人には「落ち着け」と言いながら、明らかに慌てている。
「もしや!江戸に関わる話か…」
江戸で、発生した巨大地震について、凄まじい被害状況が伝わり始めていた。
「実は、お主の親しかった、水戸の藤田さまが…」
先ほどまで軽口をたたいていた“団にょん”の表情が変わる。
藤田東湖の逝去が伝わった。
島義勇。無言のまま、はらはらと涙を落した。
――後日、佐賀城の本丸。殿・鍋島直正から呼び出しを受け、島義勇が登城していた。
「水戸の藤田は、最後まで立派な士(さむらい)であったようだな。」
「はい、ご母堂を庇(かば)って、お亡くなりに…」
「藤田とお主の二人で整えた、貢姫の縁組み。既に川越(藩)との話に進んでおり、盤石である。」
「藤田には、一言、礼を申したかったな。」
「はっ!」
――殿のお褒めを受け、島は「藤田東湖との“仕事”が形になった」と感じる。少し救われた想いである。
ここから、殿・直正は呼び出しの用件を伝える。
「此度の地震で、江戸の屋敷も無傷ではない。しかし時勢は動いておる。立ち止まってもおれん。」
――ついに殿から直々に、島義勇へ“蝦夷地探索”の命が下ったのである。
この頃、箱館(函館)が開港した影響で、沿海の諸藩が一斉に“蝦夷地”を目指していた。
「どの者を“蝦夷地”に派するか、迷うておったが…お主に決めた。」
「はっ!ワシ…いや、拙者にお命じいただいたのは、何故でございますか。」
「目じゃな!」
「はっ…?目でございますか。」
「あとは、足であろうな。」
「ははっ、ありがたき幸せ!この一身にて、蝦夷地を見聞いたしまする!」
――藤田東湖は“尊王”の志を説いたが、その後ろ姿で島義勇に伝えたことは、むしろ“殿様の懐刀”としての生き様である。
殿・直正からの「余の目となり、足となって働いて来い!」という指示は、まさに島が望むものであった。
“蝦夷地”で待つものは、広大な土地、豊かな天然資源、特産品の新しい販路…
こうして、“情熱の開拓者”・島義勇の冒険が始まるのである。
(続く)