2023年06月28日
第19話「閑叟上洛」⑰(問いかけの向こう側)
こんばんは。
文久二年(1862年)秋。初夏に脱藩した江藤新平が、数か月ぶりに佐賀へと戻ってきました。
こうして佐賀城下に戻った江藤ですが、まず、自宅での謹慎となっていました。ところが、なぜか、家から出られないわりに忙しい様子。
この時期には、佐賀藩から次々と送られる「御尋ね」に対して、返答を作成していた形跡があるそうです。
「幕末武士のテレワーク」のような話として、お読みいただければと思います。

――藩境を越える“仕事”をこなした、江藤の父・助右衛門。
「…よかごた。福岡までの旅路で済んで、本当に良かったばい。」
やや、気の抜けた印象の江藤助右衛門。ホッとした胸中を語っている。
助右衛門としては藩庁から指示された、子・新平の連れ戻しの任務を無事に果たしたことになるからだ。
「…ええ、先立つものも要りますので、大変、助かりました。」
会話している相手は、江藤の母・浅子。“変わり者”との評もある助右衛門には、しっかり者の妻がいる。
「それで、新平は、どがん(どのように)しとるかね。」
「ずっと書斎に籠もって、書き物ばしておりますよ。」
「…ほう。」
「そういえば、お役人が何か書き付けを残して行きんさったです。」
助右衛門と浅子は、遠目に様子をうかがっていた。

――江藤家の書斎。
同志の大木民平(喬任)に比べると、書物を溜め込むでもないが、文書の類は狭い空間に密集している。
江藤新平は粗末な文机に向かって、高い集中力で書き物を進めた。
…コトン。
「入りますよ。」
そんな一言を発して、江藤の妻・千代子が入室し、少し離れて、江藤の背後に湯呑みを置く。
「うむ、忝(かたじけな)い。」
秋晴れの陽射しの強い日だった。喉(のど)の渇きは感じていたものの、仕事に没頭していた江藤は、疎(おろそ)かにしていたようだ。
――江藤は湯呑みを取り、ズズッ…とすする。
「白湯(さゆ)だな。」
「ええ、こだわらないかと思いましたので。」
「…京では、茶を飲むことが多かったゆえ。」
京都での活動中は、身分の高い公家や、商人とつながって羽振りの良い志士たちとも関わっていた。

「あら、知らぬうちに、“都の水”に馴染んでしまいなさったのね。」
「千代子、済まん。苦労をかけた。」
やはり衣服には気を遣わぬことの多い江藤だが、食には知らず贅沢になっていたのかもしれない。
江藤の脱藩と、その探索を命令された父・助右衛門の旅支度の費用も嵩む。京への滞在中も、佐賀にいた妻・千代子には強烈な心労をかけていたはず。
――江藤千代子は、ふっと微笑んだ。
「でも、よかです。あなたがご無事に戻られたのですから。」
「いたく、楽し気だな。」
「…不機嫌な方が、よかですか。」
「いや、そのままでよい。」
文久二年の初めに、同志で親友の中野方蔵が“坂下門外の変”への関与を疑われて捕縛され、五月には江戸の牢獄で亡くなった。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑱(青葉茂れる頃に)〕

江藤は、各地の志士とのつながりを持っていた中野の代わりに立つべく、佐賀からの脱藩を決行した。
この間、常よりも尖った心境だった事は否めず、妻と穏やかに会話をするのは久しぶりだった。
「では、“そのまま”でおりますね。仕事のお邪魔をいたしました。」
重く処罰される可能性が高い“脱藩者の帰還”という楽観できない状況だが、千代子の背中はただ嬉しそうだった。
――江藤は、再び文机に向かう。
その手元にあったのは、佐賀藩から送られてきた、山積みの「お尋ね」だった。その質問は、あたかも江藤に語りかけてくるようだった。
「お主が関わった貴人・姉小路卿、その同志・三条卿の人となりを教えよ。」
名の挙がった2人の公家は、ほぼ尊王攘夷派の“旗頭”のような存在だ。
〔参照:第18話「京都見聞」⑳(公卿の評判)〕
江藤は、書面での問いかけに対して、返答を書き連ねる。
「…尊王の気概はあれど、暴論を吐く輩の妄言に流される事あり。」

この文久二年の秋には、三条実美を正使、姉小路公知を副使として、幕府に「条約など破棄して、異国を打払え」と迫るため、江戸へと向かっている。
江藤は京で姉小路の傍にいたが、取り巻きに多かった「すぐさま異国と一戦交えるべし」と、無計画な攘夷を叫ぶ“志士”への評価は低い。
〔参照:第18話「京都見聞」⑱(秋風の吹く頃に)〕
大殿・鍋島直正(閑叟)が京に上る際に、過激派の公家に流され、異国と無用の衝突をする展開になることを、江藤は憂慮していた。
――公家の人物評、諸藩の志士の言動、そして、幕府の対応。
佐賀藩からの「お尋ね」は、やや神経質な印象であらゆる事を気にしていた。
「諸国の浪士たちは、どのように動いておるか。」
「…薩摩で勤王を唱える者は粛清され、公家に連なる者や、諸国の浪士にも命を落とした者が多くおります。」
〔参照:第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)〕

この時期から、ほんの5年ばかり前。薩摩(鹿児島)の藩主は、名君で知られた島津斉彬だった。鍋島直正から見ると、母方の従兄(いとこ)にあたる。
〔参照:第14話「遣米使節」⑪(名君たちの“約束”)〕
当時、勤王の志士たちは、その島津斉彬の影響力のもと、諸藩がつながって改革を成そうという動きをしていた。
斉彬が急逝し、薩摩の実権を握った、国父(藩主の父)・島津久光は、異母兄だった斉彬の志を継ごうというが、自由に動く志士(浪士)を特に嫌うという。
――佐賀藩からの「お尋ね」は続く。
「昨今の薩摩の行状は、世情を騒がせておるのではないか。」
問いかけの主は、薩摩の最近の動きに、強い不信感を持っているようだった。
「…薩摩のみならず。長州・土佐・筑前・肥後・仙台と、諸侯が相次いで上洛するも、かえってまとまらず。」
江藤は、各藩が京都へと向かう競争を「崩壊の勢い」と評して、国を危うくすると報告した。
〔参照:第18話「京都見聞」⑮(京の覇権争い)〕

薩摩による幕府への圧迫、京都での雄藩の競争と攘夷を叫ぶ志士。いずれも秩序を重んじる“優等生”だった佐賀藩は、好ましく受け止めてはいない。
書面でのやり取りだが、江藤は、この「お尋ね」の出所に確信を持った。
「この問いかけの主は、大殿…閑叟(直正)さまに相違ない。」
――かつて、佐賀の藩校・弘道館で見た鍋島直正の記憶が浮かぶ。
佐賀の藩主だった頃も、直正は、しばしば藩校へと足を運んでいた。
「江藤と言ったか。お主、なかなか弁が立つようじゃな。励めよ。」
「はっ、ありがたき幸せ!」
直正が、よく学ぶ者に直接、声をかけることもあった。身分の低かった江藤も、佐賀では西洋の書物に親しむ機会を得られたのだ。

――藩の役人が届けてきた「お尋ね」文書だが、
その問いかけには直正(閑叟)の意思を感じる。
「…京で見聞きしたこと、余すところなくお伝えせんばならん。」
「お尋ね」の質問に答える、江藤の筆の進みは早かった。その想いは、大殿・鍋島直正(閑叟)への期待でもあった。
しかし、江藤が認識していた鍋島直正の残像は、まだ、いささか若くて、健康を害する前のものだったのである。
(続く)
文久二年(1862年)秋。初夏に脱藩した江藤新平が、数か月ぶりに佐賀へと戻ってきました。
こうして佐賀城下に戻った江藤ですが、まず、自宅での謹慎となっていました。ところが、なぜか、家から出られないわりに忙しい様子。
この時期には、佐賀藩から次々と送られる「御尋ね」に対して、返答を作成していた形跡があるそうです。
「幕末武士のテレワーク」のような話として、お読みいただければと思います。
――藩境を越える“仕事”をこなした、江藤の父・助右衛門。
「…よかごた。福岡までの旅路で済んで、本当に良かったばい。」
やや、気の抜けた印象の江藤助右衛門。ホッとした胸中を語っている。
助右衛門としては藩庁から指示された、子・新平の連れ戻しの任務を無事に果たしたことになるからだ。
「…ええ、先立つものも要りますので、大変、助かりました。」
会話している相手は、江藤の母・浅子。“変わり者”との評もある助右衛門には、しっかり者の妻がいる。
「それで、新平は、どがん(どのように)しとるかね。」
「ずっと書斎に籠もって、書き物ばしておりますよ。」
「…ほう。」
「そういえば、お役人が何か書き付けを残して行きんさったです。」
助右衛門と浅子は、遠目に様子をうかがっていた。
――江藤家の書斎。
同志の大木民平(喬任)に比べると、書物を溜め込むでもないが、文書の類は狭い空間に密集している。
江藤新平は粗末な文机に向かって、高い集中力で書き物を進めた。
…コトン。
「入りますよ。」
そんな一言を発して、江藤の妻・千代子が入室し、少し離れて、江藤の背後に湯呑みを置く。
「うむ、忝(かたじけな)い。」
秋晴れの陽射しの強い日だった。喉(のど)の渇きは感じていたものの、仕事に没頭していた江藤は、疎(おろそ)かにしていたようだ。
――江藤は湯呑みを取り、ズズッ…とすする。
「白湯(さゆ)だな。」
「ええ、こだわらないかと思いましたので。」
「…京では、茶を飲むことが多かったゆえ。」
京都での活動中は、身分の高い公家や、商人とつながって羽振りの良い志士たちとも関わっていた。
「あら、知らぬうちに、“都の水”に馴染んでしまいなさったのね。」
「千代子、済まん。苦労をかけた。」
やはり衣服には気を遣わぬことの多い江藤だが、食には知らず贅沢になっていたのかもしれない。
江藤の脱藩と、その探索を命令された父・助右衛門の旅支度の費用も嵩む。京への滞在中も、佐賀にいた妻・千代子には強烈な心労をかけていたはず。
――江藤千代子は、ふっと微笑んだ。
「でも、よかです。あなたがご無事に戻られたのですから。」
「いたく、楽し気だな。」
「…不機嫌な方が、よかですか。」
「いや、そのままでよい。」
文久二年の初めに、同志で親友の中野方蔵が“坂下門外の変”への関与を疑われて捕縛され、五月には江戸の牢獄で亡くなった。
〔参照:
江藤は、各地の志士とのつながりを持っていた中野の代わりに立つべく、佐賀からの脱藩を決行した。
この間、常よりも尖った心境だった事は否めず、妻と穏やかに会話をするのは久しぶりだった。
「では、“そのまま”でおりますね。仕事のお邪魔をいたしました。」
重く処罰される可能性が高い“脱藩者の帰還”という楽観できない状況だが、千代子の背中はただ嬉しそうだった。
――江藤は、再び文机に向かう。
その手元にあったのは、佐賀藩から送られてきた、山積みの「お尋ね」だった。その質問は、あたかも江藤に語りかけてくるようだった。
「お主が関わった貴人・姉小路卿、その同志・三条卿の人となりを教えよ。」
名の挙がった2人の公家は、ほぼ尊王攘夷派の“旗頭”のような存在だ。
〔参照:
江藤は、書面での問いかけに対して、返答を書き連ねる。
「…尊王の気概はあれど、暴論を吐く輩の妄言に流される事あり。」
この文久二年の秋には、三条実美を正使、姉小路公知を副使として、幕府に「条約など破棄して、異国を打払え」と迫るため、江戸へと向かっている。
江藤は京で姉小路の傍にいたが、取り巻きに多かった「すぐさま異国と一戦交えるべし」と、無計画な攘夷を叫ぶ“志士”への評価は低い。
〔参照:
大殿・鍋島直正(閑叟)が京に上る際に、過激派の公家に流され、異国と無用の衝突をする展開になることを、江藤は憂慮していた。
――公家の人物評、諸藩の志士の言動、そして、幕府の対応。
佐賀藩からの「お尋ね」は、やや神経質な印象であらゆる事を気にしていた。
「諸国の浪士たちは、どのように動いておるか。」
「…薩摩で勤王を唱える者は粛清され、公家に連なる者や、諸国の浪士にも命を落とした者が多くおります。」
〔参照:
この時期から、ほんの5年ばかり前。薩摩(鹿児島)の藩主は、名君で知られた島津斉彬だった。鍋島直正から見ると、母方の従兄(いとこ)にあたる。
〔参照:
当時、勤王の志士たちは、その島津斉彬の影響力のもと、諸藩がつながって改革を成そうという動きをしていた。
斉彬が急逝し、薩摩の実権を握った、国父(藩主の父)・島津久光は、異母兄だった斉彬の志を継ごうというが、自由に動く志士(浪士)を特に嫌うという。
――佐賀藩からの「お尋ね」は続く。
「昨今の薩摩の行状は、世情を騒がせておるのではないか。」
問いかけの主は、薩摩の最近の動きに、強い不信感を持っているようだった。
「…薩摩のみならず。長州・土佐・筑前・肥後・仙台と、諸侯が相次いで上洛するも、かえってまとまらず。」
江藤は、各藩が京都へと向かう競争を「崩壊の勢い」と評して、国を危うくすると報告した。
〔参照:
薩摩による幕府への圧迫、京都での雄藩の競争と攘夷を叫ぶ志士。いずれも秩序を重んじる“優等生”だった佐賀藩は、好ましく受け止めてはいない。
書面でのやり取りだが、江藤は、この「お尋ね」の出所に確信を持った。
「この問いかけの主は、大殿…閑叟(直正)さまに相違ない。」
――かつて、佐賀の藩校・弘道館で見た鍋島直正の記憶が浮かぶ。
佐賀の藩主だった頃も、直正は、しばしば藩校へと足を運んでいた。
「江藤と言ったか。お主、なかなか弁が立つようじゃな。励めよ。」
「はっ、ありがたき幸せ!」
直正が、よく学ぶ者に直接、声をかけることもあった。身分の低かった江藤も、佐賀では西洋の書物に親しむ機会を得られたのだ。
――藩の役人が届けてきた「お尋ね」文書だが、
その問いかけには直正(閑叟)の意思を感じる。
「…京で見聞きしたこと、余すところなくお伝えせんばならん。」
「お尋ね」の質問に答える、江藤の筆の進みは早かった。その想いは、大殿・鍋島直正(閑叟)への期待でもあった。
しかし、江藤が認識していた鍋島直正の残像は、まだ、いささか若くて、健康を害する前のものだったのである。
(続く)
Posted by SR at 21:46 | Comments(0) | 第19話「閑叟上洛」
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