2023年11月12日
第19話「閑叟上洛」㉒(海を渡った、“数学の子”)
こんばんは。
幕末期の日本において、指導者層としては、最も“世界”が見えていた人物という評価がある、鍋島直正(閑叟)。
幕府や諸藩にも開明的な人材はいましたが、“殿様”が西洋の技術の導入や、開国後の通商を先読みし、ここまで手を打っている例は他に思い付きません。

文久二年(1862年)は、幕府の使節や調査団に同行して、佐賀藩士がヨーロッパや清国(上海)にも渡った時期でもあります。
直正が立ち寄った、商いの街・大坂。数か月前に上海で海外の情勢を調査していた、佐賀藩士・中牟田倉之助が再登場します。
〔参考記事1(後半):「ある東洋の“迷宮”にて」〕
〔参照(初回登場の場面):第12話「海軍伝習」⑥(数学の子)〕
――京に向かう途上、「天下の台所」と呼ばれた、大坂(大阪)にて。
時代は海外貿易へと向かっている、佐賀藩も資金の調達力を強化するため、大坂近辺の豪商との協力を進めていた。
直正(閑叟)には、この場であらためて話を聞いておきたい配下がいた。
「中牟田は、近くにおるか。」
「…はっ、何やらお呼びがありそうだと、参じております。」
直正が言うが早いか、側近・古川与一(松根)が答える。

「先だってより、こちらに控えおります。」
呼ばれた傍(そば)から現れたのは、中牟田倉之助。普段から佐賀海軍で、蒸気船を操る側にいることが多く、いつも忙しい。
キリッとした、それでいて融通の利かなさそうな顔立ち。呼び出しを先読みしたように、襖一枚を隔てて、大殿の声かけを待っていたようだ。
「…ほう、余が呼び出すと察しておったか。」
直正は、中牟田の登場の仕方が、少し面白かったらしく、目を細めた。
――文久二年の春~夏にかけて、
幕府が清国の上海に船を出すのを聞きつけて、直正は、主に海外での貿易事情の調査のために佐賀藩士を同行させていた。

上海への調査団には、佐賀藩から4名が参加したが、そのうちの1人が、佐賀海軍の“エース”のような存在に成長しつつある、中牟田倉之助だ。
藩校に通う頃から理数の素養に長じ、長崎で海軍伝習所に通っていた頃は、オランダ人の教官を待ち構えては、数学の教本を借り受けて、書き写す…
教官もその熱心さに呆れるほどに、船の運用に関わる学問を求めた。そして、中牟田の近くで勉強する者も、引っ張られて賢くなった。
〔参照(後半):第12話「海軍伝習」⑨-2(悔しかごたぁ・後編)〕
〔参照(中盤):第12話「海軍伝習」⑩-1(負けんばい!・前編)〕
――佐賀藩には中牟田のように、周囲に好影響を及ぼす者がいる。
直正(閑叟)は、海外での中牟田の体験談を聞いておきたいようだ。
「お主が行っておった、清国でのことだ。尋ねておきたいことがある。」
「恥じ入るばかりですが、上海では惜しかことをしました。」
「はて、お主は充分に見聞を為したと思っておったが。」
「…数日の間は、発熱にて寝込みよりました。」

「貴重な異国での時に、動き損じたのが悔しかです。」
気合いの入った表情で残念がる、中牟田倉之助。2か月ほど清国の上海に滞在したが、いまだに、寝込んでいた数日が惜しいらしい。
――直正(閑叟)自身も病がちなので、気になったのか、こう尋ねた。
「だが、異国での病は難儀だったであろう。いかがしておったか。」
本筋から外れた質問だが、もともと直正は好奇心が旺盛な気性だ。
病気がちで見た目、少し老け込んだが、興味のあることを聞くときは、相変わらず活き活きとしている。
「佐賀の者には、各々に使命がありますけん。頼るわけにはいかんでした。」
「然(しか)り、それぞれに余が直々に命じておる任があったのう。」
――直正は、上海に渡った他の3人にも、
中牟田とは、また違った任務を与えていた。
陶磁器などの価格相場や、取引の実情など商売に関わるところに2名、現地情報を写し取る画工の少年が1名で、中牟田とは別行動をしていた。

「それゆえ、同じく上海に渡りよる、長州の者に世話をかけました。」
「ほう、長州か。その者の名は、何と言ったか。」
直正は最近、薩摩の動向には不信感を強めており、同じく西国の雄藩である、長州には関心がある様子だ。
「高杉という男です。当地では、ほぼ一緒に動いておりました。」
直正からの問いかけに答えて、中牟田は今までの報告で表せなかった、海の向こうでの、日々の出来事を語りだした。
(続く)
〔参考記事2:「点と点をつなぐと、有田に届いた話」〕
幕末期の日本において、指導者層としては、最も“世界”が見えていた人物という評価がある、鍋島直正(閑叟)。
幕府や諸藩にも開明的な人材はいましたが、“殿様”が西洋の技術の導入や、開国後の通商を先読みし、ここまで手を打っている例は他に思い付きません。

文久二年(1862年)は、幕府の使節や調査団に同行して、佐賀藩士がヨーロッパや清国(上海)にも渡った時期でもあります。
直正が立ち寄った、商いの街・大坂。数か月前に上海で海外の情勢を調査していた、佐賀藩士・中牟田倉之助が再登場します。
〔参考記事1(後半):
〔参照(初回登場の場面):
――京に向かう途上、「天下の台所」と呼ばれた、大坂(大阪)にて。
時代は海外貿易へと向かっている、佐賀藩も資金の調達力を強化するため、大坂近辺の豪商との協力を進めていた。
直正(閑叟)には、この場であらためて話を聞いておきたい配下がいた。
「中牟田は、近くにおるか。」
「…はっ、何やらお呼びがありそうだと、参じております。」
直正が言うが早いか、側近・古川与一(松根)が答える。

「先だってより、こちらに控えおります。」
呼ばれた傍(そば)から現れたのは、中牟田倉之助。普段から佐賀海軍で、蒸気船を操る側にいることが多く、いつも忙しい。
キリッとした、それでいて融通の利かなさそうな顔立ち。呼び出しを先読みしたように、襖一枚を隔てて、大殿の声かけを待っていたようだ。
「…ほう、余が呼び出すと察しておったか。」
直正は、中牟田の登場の仕方が、少し面白かったらしく、目を細めた。
――文久二年の春~夏にかけて、
幕府が清国の上海に船を出すのを聞きつけて、直正は、主に海外での貿易事情の調査のために佐賀藩士を同行させていた。
上海への調査団には、佐賀藩から4名が参加したが、そのうちの1人が、佐賀海軍の“エース”のような存在に成長しつつある、中牟田倉之助だ。
藩校に通う頃から理数の素養に長じ、長崎で海軍伝習所に通っていた頃は、オランダ人の教官を待ち構えては、数学の教本を借り受けて、書き写す…
教官もその熱心さに呆れるほどに、船の運用に関わる学問を求めた。そして、中牟田の近くで勉強する者も、引っ張られて賢くなった。
〔参照(後半):
〔参照(中盤):
――佐賀藩には中牟田のように、周囲に好影響を及ぼす者がいる。
直正(閑叟)は、海外での中牟田の体験談を聞いておきたいようだ。
「お主が行っておった、清国でのことだ。尋ねておきたいことがある。」
「恥じ入るばかりですが、上海では惜しかことをしました。」
「はて、お主は充分に見聞を為したと思っておったが。」
「…数日の間は、発熱にて寝込みよりました。」
「貴重な異国での時に、動き損じたのが悔しかです。」
気合いの入った表情で残念がる、中牟田倉之助。2か月ほど清国の上海に滞在したが、いまだに、寝込んでいた数日が惜しいらしい。
――直正(閑叟)自身も病がちなので、気になったのか、こう尋ねた。
「だが、異国での病は難儀だったであろう。いかがしておったか。」
本筋から外れた質問だが、もともと直正は好奇心が旺盛な気性だ。
病気がちで見た目、少し老け込んだが、興味のあることを聞くときは、相変わらず活き活きとしている。
「佐賀の者には、各々に使命がありますけん。頼るわけにはいかんでした。」
「然(しか)り、それぞれに余が直々に命じておる任があったのう。」
――直正は、上海に渡った他の3人にも、
中牟田とは、また違った任務を与えていた。
陶磁器などの価格相場や、取引の実情など商売に関わるところに2名、現地情報を写し取る画工の少年が1名で、中牟田とは別行動をしていた。
「それゆえ、同じく上海に渡りよる、長州の者に世話をかけました。」
「ほう、長州か。その者の名は、何と言ったか。」
直正は最近、薩摩の動向には不信感を強めており、同じく西国の雄藩である、長州には関心がある様子だ。
「高杉という男です。当地では、ほぼ一緒に動いておりました。」
直正からの問いかけに答えて、中牟田は今までの報告で表せなかった、海の向こうでの、日々の出来事を語りだした。
(続く)
〔参考記事2:
Posted by SR at 15:40 | Comments(0) | 第19話「閑叟上洛」
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