2023年11月21日
第19話「閑叟上洛」㉓(“自由”を失った、異国の街)
こんばんは。
文久二年(1862年)の十一月。鍋島直正(閑叟)は、京の都に向かう途上で、賑わう商業の街・大坂(大阪)に立ち寄ります。
この半年ほど前に佐賀藩から海外情勢を探るべく、清国の上海に渡っていた藩士がいました。名を中牟田倉之助といいます。
有明海に面した三重津海軍所で士官や水兵を訓練し、蒸気船を修繕したり、伊万里港などを拠点に外洋に出ることもあった、佐賀海軍。

中牟田はその中でも、優秀な人物の一人です。この年、上海に渡った時には、長州藩士・高杉晋作と一緒に行動したことが伝わります。
――直正(閑叟)は朝廷と接触する前に、海外の事情を復習するようだ。
佐賀藩は、幕府の使節や調査団で、藩士を海外に派遣できる時には、どの藩よりも積極的に参加させている。
しっかり情報を集めて、はっきり参加者の任務を定め、きっちり幕府に手続きを取るのが、佐賀の特徴でもあった。
もちろん直正は、上海から戻った中牟田の報告も熱心に聞きとっている。

「看てくれる者が居って良かった。異国での病は、厄介であろうからな。」
「その高杉にも世話をかけ、全快まで六日ほどかかりました。」
中牟田を看病したのは長州藩士・高杉晋作。寝込んでいる間に随分と、話をする時間があったようだ。
「航海術の話などすると、熱心に記しておりました。」
高杉は西洋人の中では接点が持ちやすい、オランダ領事館への挨拶に参加もせず、中牟田を看ていたようだ。
「それほど、お主が語る海軍の話は、興味深かったのであろう。」
――直正の語り方には、少し含みがあった。
中牟田が長崎でオランダ人から直接学んだ知識は、実用に耐えうるものだ。
学んだのは航海術だけでなく、蒸気機関や砲術、船舶の構造や動かし方等、様々な西洋の技術と接している。

西洋の知識が日本の言葉で聞けるのだから、中牟田と話をするだけでも価値は充分にある。高杉という長州藩士、かなりの切れ者なのかもしれない。
「…そうじゃ。市中の様子は、いかがであったか。」
ここで直正は、質問を変えた。本当に気になっているのは、西洋人が支配しているであろう、街の様子らしい。
――同年の五月頃。清国・上海の街路を歩んでいた、中牟田と高杉。
通りの中心には、彫りの深い顔立ちと衣服の様子から判ずるに、欧米から来たと思われる人々が闊歩している。
街の様子も、もともとの清国とは、おそらく違っているだろう西洋風の建物などが並びだっている。高杉が周囲を見渡して、言葉を発した。
「えらく清国の者が、隅に引っ込んじまってるな。」
「それだけ街の差配が、欧米の者の手にあるということばい。」
ヨーロッパから来たと思われる2人組が通りをゆくのを見かける。何があったか機嫌が良くないらしく、道ばたにいる清国人に何事かの言葉を投げかける。

「…あの西洋人は、何と言っちょるんじゃ。」
高杉も言葉を発する状況で概ねわかるが、中牟田に翻訳を求めた。
「よか。イギリスの言葉を遣うとるごた。和解(わげ)できるとよ。」
――中牟田は、高杉に頼まれたので、淡々と英語の翻訳をした。
「察しは付いちょったが、えらい言いようじゃ。」
高杉にも想像は付いたが、西洋人から繰り出されていた言葉は、相当に侮蔑的な内容だった。
「お前らは…○○みたいなもんで××でもしておけ!…とか言いよるばい。」
中牟田は眉ひとつ動かさずに翻訳し、直接に変換できない単語は、説明的な言葉を続ける。
冷静な印象の強い中牟田。このように罵詈雑言を発するのは、真面目に翻訳しているからであり、普段、こんな言葉を吐くことは当然ない。

「…何ね、和解(わげ)ば続けんでも、よかとね。」
「いや、奴らが言うちょることが、明瞭になった。」
畳みかけるような中牟田の通訳に、高杉は「もう、翻訳は充分じゃ」とばかりに苦笑した。
品のない悪口を整然と翻訳し続ける、中牟田の態度も面白かったようだ。
欧米列強と戦をして負ければ、おそらくは自分たちの街でも、悠然と表通りを歩くことはできなくなる。高杉も、中牟田も、その重たさは感じ取っていた。
アヘン戦争から20年ほどが経過した、清国の状況を、言い換えれば外国による支配の実情を見せつけられたのだ。

――こうして現地での見聞を進める日々に、中牟田が高杉に提案をする。
「高杉さん。長崎に向かう外国船の来るばい。手紙の出せるとよ。」
「手紙か。中牟田くんは逐一、佐賀に報告をしちょるんか。」
「そうたい。おそらく大殿にも伝わるばい。」
中牟田が情報を伝える相手は、最終的には、佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)のようである。

高杉は、かなり意外に思った。
「佐賀では肥前侯(鍋島直正)まで、話が伝わるんか。」
「そがんたい。よく、お尋ねのあるとよ。」
事もなげに、中牟田が返事を返した。
昔から藩校・弘道館に姿を見せては、学生と問答をする…そんなところがある殿様だったので、中牟田にとっては、とくに不思議もない。
それに藩のお役目で清国まで来たのだから、任務を果たさなければならない。佐賀藩士が海外に出るときは、為すべき仕事も明確だった。
――ここから半年後。場面を、文久二年十一月の大坂に戻す。
鍋島直正は、中牟田からの報告にあった話を、よくよく思い返す。
「清国の街では、当地の者が粗雑に扱われおる…ということだったか。」
列強の支配を受けて、自由を失った海外の街の事例が気になるようだった。中牟田は、他にも見聞きした情報を補足する。

「時折、街外れから大砲の音も響きよりました。」
一方で、上海近辺では清国政府への反乱も続いており、西洋人の傭兵も制圧に加わって、内戦が続いているらしい。
「…うむ。」
腕を組むような格好をする、直正。最近では胃腸の痛みなどをかばってか、やや猫背なので、より丸まってみえる。
もともと、直正には強い危機感がある。20年ほど前のアヘン戦争の知らせを聞いてから、長崎港内の島々に砲台を築き、要塞化したのも備えのためだ。

――直正がふと、つぶやいた。
「はたして佐賀は、長崎だけを守っておれば、良いのか…」
江戸期を通じて長崎は、日本の表玄関として、機能してきた港である。そこを守ることが、異国と向き合う佐賀藩の役目だった。
しかし、昨今では横浜をはじめ、他に開港した土地もある。何より、京の都を守るには“摂海”(大阪湾)を守らねばならないのではないか。
「…大殿、いかがなさいましたか。」
急に黙り込んだ直正を見て、中牟田が問う。
「いや、考え事をしておるだけじゃ。特に障(さわ)りはない。」
――これから中牟田は蒸気船で、一旦、佐賀に戻る予定だ。
「大儀(たいぎ)であった。中牟田、海軍でのお主の働き、期待しておる。」
「ははっ。」

今回、直正(閑叟)が上洛するので、佐賀藩の海軍は、京の都への近道として、門司から大坂の港まで船を出した。
これからの行程には、蒸気船で移動する予定は無いので、船団はひとまず、佐賀まで引き返すことになる。
「大殿は、何ば気にされておったのか…。」
先を読む傾向のある中牟田。直正が心配性なのは昔からだが、この日は特に西洋が支配を強める、海外の街の様子をひたすらに気にしていた。
急な直正の沈黙を見て、中牟田は一抹の不安を持って、退出したのだった。
(続く)
文久二年(1862年)の十一月。鍋島直正(閑叟)は、京の都に向かう途上で、賑わう商業の街・大坂(大阪)に立ち寄ります。
この半年ほど前に佐賀藩から海外情勢を探るべく、清国の上海に渡っていた藩士がいました。名を中牟田倉之助といいます。
有明海に面した三重津海軍所で士官や水兵を訓練し、蒸気船を修繕したり、伊万里港などを拠点に外洋に出ることもあった、佐賀海軍。
中牟田はその中でも、優秀な人物の一人です。この年、上海に渡った時には、長州藩士・高杉晋作と一緒に行動したことが伝わります。
――直正(閑叟)は朝廷と接触する前に、海外の事情を復習するようだ。
佐賀藩は、幕府の使節や調査団で、藩士を海外に派遣できる時には、どの藩よりも積極的に参加させている。
しっかり情報を集めて、はっきり参加者の任務を定め、きっちり幕府に手続きを取るのが、佐賀の特徴でもあった。
もちろん直正は、上海から戻った中牟田の報告も熱心に聞きとっている。
「看てくれる者が居って良かった。異国での病は、厄介であろうからな。」
「その高杉にも世話をかけ、全快まで六日ほどかかりました。」
中牟田を看病したのは長州藩士・高杉晋作。寝込んでいる間に随分と、話をする時間があったようだ。
「航海術の話などすると、熱心に記しておりました。」
高杉は西洋人の中では接点が持ちやすい、オランダ領事館への挨拶に参加もせず、中牟田を看ていたようだ。
「それほど、お主が語る海軍の話は、興味深かったのであろう。」
――直正の語り方には、少し含みがあった。
中牟田が長崎でオランダ人から直接学んだ知識は、実用に耐えうるものだ。
学んだのは航海術だけでなく、蒸気機関や砲術、船舶の構造や動かし方等、様々な西洋の技術と接している。
西洋の知識が日本の言葉で聞けるのだから、中牟田と話をするだけでも価値は充分にある。高杉という長州藩士、かなりの切れ者なのかもしれない。
「…そうじゃ。市中の様子は、いかがであったか。」
ここで直正は、質問を変えた。本当に気になっているのは、西洋人が支配しているであろう、街の様子らしい。
――同年の五月頃。清国・上海の街路を歩んでいた、中牟田と高杉。
通りの中心には、彫りの深い顔立ちと衣服の様子から判ずるに、欧米から来たと思われる人々が闊歩している。
街の様子も、もともとの清国とは、おそらく違っているだろう西洋風の建物などが並びだっている。高杉が周囲を見渡して、言葉を発した。
「えらく清国の者が、隅に引っ込んじまってるな。」
「それだけ街の差配が、欧米の者の手にあるということばい。」
ヨーロッパから来たと思われる2人組が通りをゆくのを見かける。何があったか機嫌が良くないらしく、道ばたにいる清国人に何事かの言葉を投げかける。
「…あの西洋人は、何と言っちょるんじゃ。」
高杉も言葉を発する状況で概ねわかるが、中牟田に翻訳を求めた。
「よか。イギリスの言葉を遣うとるごた。和解(わげ)できるとよ。」
――中牟田は、高杉に頼まれたので、淡々と英語の翻訳をした。
「察しは付いちょったが、えらい言いようじゃ。」
高杉にも想像は付いたが、西洋人から繰り出されていた言葉は、相当に侮蔑的な内容だった。
「お前らは…○○みたいなもんで××でもしておけ!…とか言いよるばい。」
中牟田は眉ひとつ動かさずに翻訳し、直接に変換できない単語は、説明的な言葉を続ける。
冷静な印象の強い中牟田。このように罵詈雑言を発するのは、真面目に翻訳しているからであり、普段、こんな言葉を吐くことは当然ない。
「…何ね、和解(わげ)ば続けんでも、よかとね。」
「いや、奴らが言うちょることが、明瞭になった。」
畳みかけるような中牟田の通訳に、高杉は「もう、翻訳は充分じゃ」とばかりに苦笑した。
品のない悪口を整然と翻訳し続ける、中牟田の態度も面白かったようだ。
欧米列強と戦をして負ければ、おそらくは自分たちの街でも、悠然と表通りを歩くことはできなくなる。高杉も、中牟田も、その重たさは感じ取っていた。
アヘン戦争から20年ほどが経過した、清国の状況を、言い換えれば外国による支配の実情を見せつけられたのだ。
――こうして現地での見聞を進める日々に、中牟田が高杉に提案をする。
「高杉さん。長崎に向かう外国船の来るばい。手紙の出せるとよ。」
「手紙か。中牟田くんは逐一、佐賀に報告をしちょるんか。」
「そうたい。おそらく大殿にも伝わるばい。」
中牟田が情報を伝える相手は、最終的には、佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)のようである。
高杉は、かなり意外に思った。
「佐賀では肥前侯(鍋島直正)まで、話が伝わるんか。」
「そがんたい。よく、お尋ねのあるとよ。」
事もなげに、中牟田が返事を返した。
昔から藩校・弘道館に姿を見せては、学生と問答をする…そんなところがある殿様だったので、中牟田にとっては、とくに不思議もない。
それに藩のお役目で清国まで来たのだから、任務を果たさなければならない。佐賀藩士が海外に出るときは、為すべき仕事も明確だった。
――ここから半年後。場面を、文久二年十一月の大坂に戻す。
鍋島直正は、中牟田からの報告にあった話を、よくよく思い返す。
「清国の街では、当地の者が粗雑に扱われおる…ということだったか。」
列強の支配を受けて、自由を失った海外の街の事例が気になるようだった。中牟田は、他にも見聞きした情報を補足する。
「時折、街外れから大砲の音も響きよりました。」
一方で、上海近辺では清国政府への反乱も続いており、西洋人の傭兵も制圧に加わって、内戦が続いているらしい。
「…うむ。」
腕を組むような格好をする、直正。最近では胃腸の痛みなどをかばってか、やや猫背なので、より丸まってみえる。
もともと、直正には強い危機感がある。20年ほど前のアヘン戦争の知らせを聞いてから、長崎港内の島々に砲台を築き、要塞化したのも備えのためだ。
――直正がふと、つぶやいた。
「はたして佐賀は、長崎だけを守っておれば、良いのか…」
江戸期を通じて長崎は、日本の表玄関として、機能してきた港である。そこを守ることが、異国と向き合う佐賀藩の役目だった。
しかし、昨今では横浜をはじめ、他に開港した土地もある。何より、京の都を守るには“摂海”(大阪湾)を守らねばならないのではないか。
「…大殿、いかがなさいましたか。」
急に黙り込んだ直正を見て、中牟田が問う。
「いや、考え事をしておるだけじゃ。特に障(さわ)りはない。」
――これから中牟田は蒸気船で、一旦、佐賀に戻る予定だ。
「大儀(たいぎ)であった。中牟田、海軍でのお主の働き、期待しておる。」
「ははっ。」

今回、直正(閑叟)が上洛するので、佐賀藩の海軍は、京の都への近道として、門司から大坂の港まで船を出した。
これからの行程には、蒸気船で移動する予定は無いので、船団はひとまず、佐賀まで引き返すことになる。
「大殿は、何ば気にされておったのか…。」
先を読む傾向のある中牟田。直正が心配性なのは昔からだが、この日は特に西洋が支配を強める、海外の街の様子をひたすらに気にしていた。
急な直正の沈黙を見て、中牟田は一抹の不安を持って、退出したのだった。
(続く)
Posted by SR at 22:53 | Comments(0) | 第19話「閑叟上洛」
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