2023年12月01日
第19話「閑叟上洛」㉔(御所へと参じる日)
こんばんは。本編の第19話、ようやく今回で完結です。
文久二年の十二月。佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)は、京都で御所を訪問し、孝明天皇と対面しました。(西暦でいえば1863年1月頃になるようです。)
十一月の22日に藩の蒸気船・電流丸で、大坂(大阪)の港に到着。そのわずか2日後の24日には、京都入りしたという慌ただしい日程が伝わります。

御所に参じた日は、十二月初旬(2日)とも中旬(19日)であるともいいますが、鍋島直正が朝廷と関わったことは、諸大名から相当に注目されたそうです。
――京の都。黒谷という閑かに社寺の佇む地区。
直正(閑叟)は、大坂の街で休養を取ることもなく、急ぎ足で京都入りした。
御所からは、北東の方角にある寺が宿舎となった。直正の世話をする“執事”・古川与一(松根)は、その寺の境内で段取りをする。

「その荷は、次の間に運ぶとよい。そいは献上の品、丁重にな。」
「はっ、古川さま。」
古川は、直正の生活面を支えており、ほぼ政務に関わらないが、その人望は厚い。藩士たちも、指示に従ってテキパキと動いている。
「もうじき日も暮れおるけん、急がんばならん。」
「ばってん、古川さまの仕切りがよか。何とかなるばい。」
「閑叟さまにとっても、晴れ舞台であるゆえな。つい張り切りおる。」
作業も、あと一息となりそうだ。藩士たちに、穏やかな表情で言葉を返す古川は、公家との交流が深い文化人でもある。
有力大名であっても御所に招かれるなど、今までは考えもしなかった。気合いが入るのも、自然なことだった。
――ようやく九州からの旅路が、ひと段落した、直正(閑叟)だが…
活き活きとする、古川とは対照的に、直正は重たい表情をする。話に聞く、海の向こうの清国では列強の侵出が進んでいるようだ。
国内では、朝廷の使者を奉じてではあるが、兵を率いて江戸へも行った、薩摩の動きも、火種になりそうな気配がする。
佐賀には若く優秀な藩士こそ多いものの、以前のように、直正の深い憂慮を受け止められるほどの経験を持つ人物は、もはや身近にはいない。

「…武雄の茂義さまの、お加減はどうであろうか。」
佐賀藩の西部にある武雄領の前領主は鍋島茂義といい、10歳ばかり年上。直正の姉の夫でもあった。
茂義と言えば、直正以上に西洋かぶれの“蘭癖”で、幼い頃から多大な影響を受けた。こんな心持ちの時にこそ、話がしたい“兄貴分”でもある。
「…遠き旅路から佐賀に戻らば、すぐ武雄に見舞いにいかねばならぬ。」
この時の直正(閑叟)には、早く京を出て江戸に来るようにという催促も届いていた。幕府には、朝廷と佐賀藩が接近してほしくないという思惑もあるようだ。
――七日ほどの後、文久二年も末の月、師走となった。
陽は差し込んでいるものの、盆地である京の都、寒さがひとしお身に染みる。十二月初旬のある日、側近の古川は朝から落ち着かない。
「閑叟さま。いよいよ、内裏(だいり)に参じる日にございますな。」
「うむ、そろそろ発つとするか。」
肥前国の“中将”・鍋島直正(閑叟)。京に入るや、朝廷から早速招きがあり、孝明天皇の住まう御所へと向かう。

ここまで江戸期を通じて、幕府(徳川政権)は、朝廷と諸大名の接近するのを徹底して封じてきたが、このところ、朝廷が力を持ち、慣例は崩れつつある。
朝廷から直接のお呼びがあるのも、異例のことだったので、さすがの直正も、天皇に拝謁するのは初めてのことである。
「この歳になっても、緊張をすることがあるものだな。」
やや堅い表情の直正を見て、傍に立つ古川は微笑みを浮かべていた。
――公家屋敷の建ち並ぶ中、御所への道を進む。
ふだんは武家の格好をする佐賀の大殿だが、この日は宮中に出向くにふさわしい公家風の装束のようだ。

「“中将”。遠く肥前より、よう参ったのう。」
場を仕切ると見える公家の発声で、対面の儀礼が進む。万事が仰々しくあるが、相応の風格がある。
「すぐさま駆けつけるべきところ、遅れて参じまして、恥じ入るばかりです。」
夏には上洛すると返答したものの、直正は病がちで、佐賀からの出立は晩秋になってしまった。
「殊勝な心がけや。お上(かみ)は、“中将”が参じたこと、お喜びやぞ。」
公家たちにも佐賀藩が異国に対抗しうる武力を持つとは伝わっているらしい。孝明天皇は、直正に期待するところが大きいようだ。

――さらに、天皇(お上)の意向として、直正に声がかかる。
「お上は、もうそっと近う寄れと仰せや。」
公家が、直正に呼びかける。
「はっ。」
手短かに答えて、玉座に向って距離を詰める直正。
「この盃(さかずき)を取らせる。肥前の武威、頼みにしておるぞ。」
平たく言えば、佐賀藩の武力で異国を打ち払う、“攘夷”の実行を期待するということだ。
そして、天皇自らが、直正に“天杯”を授けるという、破格の対応でもある。
「…勿体(もったい)のうございます。ありがたき幸せ。」
――周囲は色々な見方をするが、性根は真っ直ぐな鍋島直正(閑叟)。
孝明天皇から直々の期待が伝わり、さらに責任の重さを感じる。たしかに佐賀が培った技術を用いれば、国を守るための抑えになるかもしれない。
その力は、直正が若い頃から積み上げてきたものだ。
しかし、ともに強い佐賀藩への改革を進めた面々も、年を経るにつれ、次々と世を去った。あるいは長年の無理がたたり、動くこともままならない者もいる。

「もはや…万事、余が決めていかねばならぬか。」
直正とて歳を重ねて、健康も損なった。御所からの帰路に、一人つぶやく言葉に、走り続ける辛さが浮かぶ。
以前なら、年長者や同世代の者たちが、直正の決断を支えてきた。ふと気が付けば、残る者はわずかとなっている。
めでたいはずの参内の日だが、直正が感じたのは、深まる孤独だった。
(第20話「長崎方控」に続く)
文久二年の十二月。佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)は、京都で御所を訪問し、孝明天皇と対面しました。(西暦でいえば1863年1月頃になるようです。)
十一月の22日に藩の蒸気船・電流丸で、大坂(大阪)の港に到着。そのわずか2日後の24日には、京都入りしたという慌ただしい日程が伝わります。
御所に参じた日は、十二月初旬(2日)とも中旬(19日)であるともいいますが、鍋島直正が朝廷と関わったことは、諸大名から相当に注目されたそうです。
――京の都。黒谷という閑かに社寺の佇む地区。
直正(閑叟)は、大坂の街で休養を取ることもなく、急ぎ足で京都入りした。
御所からは、北東の方角にある寺が宿舎となった。直正の世話をする“執事”・古川与一(松根)は、その寺の境内で段取りをする。
「その荷は、次の間に運ぶとよい。そいは献上の品、丁重にな。」
「はっ、古川さま。」
古川は、直正の生活面を支えており、ほぼ政務に関わらないが、その人望は厚い。藩士たちも、指示に従ってテキパキと動いている。
「もうじき日も暮れおるけん、急がんばならん。」
「ばってん、古川さまの仕切りがよか。何とかなるばい。」
「閑叟さまにとっても、晴れ舞台であるゆえな。つい張り切りおる。」
作業も、あと一息となりそうだ。藩士たちに、穏やかな表情で言葉を返す古川は、公家との交流が深い文化人でもある。
有力大名であっても御所に招かれるなど、今までは考えもしなかった。気合いが入るのも、自然なことだった。
――ようやく九州からの旅路が、ひと段落した、直正(閑叟)だが…
活き活きとする、古川とは対照的に、直正は重たい表情をする。話に聞く、海の向こうの清国では列強の侵出が進んでいるようだ。
国内では、朝廷の使者を奉じてではあるが、兵を率いて江戸へも行った、薩摩の動きも、火種になりそうな気配がする。
佐賀には若く優秀な藩士こそ多いものの、以前のように、直正の深い憂慮を受け止められるほどの経験を持つ人物は、もはや身近にはいない。

「…武雄の茂義さまの、お加減はどうであろうか。」
佐賀藩の西部にある武雄領の前領主は鍋島茂義といい、10歳ばかり年上。直正の姉の夫でもあった。
茂義と言えば、直正以上に西洋かぶれの“蘭癖”で、幼い頃から多大な影響を受けた。こんな心持ちの時にこそ、話がしたい“兄貴分”でもある。
「…遠き旅路から佐賀に戻らば、すぐ武雄に見舞いにいかねばならぬ。」
この時の直正(閑叟)には、早く京を出て江戸に来るようにという催促も届いていた。幕府には、朝廷と佐賀藩が接近してほしくないという思惑もあるようだ。
――七日ほどの後、文久二年も末の月、師走となった。
陽は差し込んでいるものの、盆地である京の都、寒さがひとしお身に染みる。十二月初旬のある日、側近の古川は朝から落ち着かない。
「閑叟さま。いよいよ、内裏(だいり)に参じる日にございますな。」
「うむ、そろそろ発つとするか。」
肥前国の“中将”・鍋島直正(閑叟)。京に入るや、朝廷から早速招きがあり、孝明天皇の住まう御所へと向かう。
ここまで江戸期を通じて、幕府(徳川政権)は、朝廷と諸大名の接近するのを徹底して封じてきたが、このところ、朝廷が力を持ち、慣例は崩れつつある。
朝廷から直接のお呼びがあるのも、異例のことだったので、さすがの直正も、天皇に拝謁するのは初めてのことである。
「この歳になっても、緊張をすることがあるものだな。」
やや堅い表情の直正を見て、傍に立つ古川は微笑みを浮かべていた。
――公家屋敷の建ち並ぶ中、御所への道を進む。
ふだんは武家の格好をする佐賀の大殿だが、この日は宮中に出向くにふさわしい公家風の装束のようだ。
「“中将”。遠く肥前より、よう参ったのう。」
場を仕切ると見える公家の発声で、対面の儀礼が進む。万事が仰々しくあるが、相応の風格がある。
「すぐさま駆けつけるべきところ、遅れて参じまして、恥じ入るばかりです。」
夏には上洛すると返答したものの、直正は病がちで、佐賀からの出立は晩秋になってしまった。
「殊勝な心がけや。お上(かみ)は、“中将”が参じたこと、お喜びやぞ。」
公家たちにも佐賀藩が異国に対抗しうる武力を持つとは伝わっているらしい。孝明天皇は、直正に期待するところが大きいようだ。
――さらに、天皇(お上)の意向として、直正に声がかかる。
「お上は、もうそっと近う寄れと仰せや。」
公家が、直正に呼びかける。
「はっ。」
手短かに答えて、玉座に向って距離を詰める直正。
「この盃(さかずき)を取らせる。肥前の武威、頼みにしておるぞ。」
平たく言えば、佐賀藩の武力で異国を打ち払う、“攘夷”の実行を期待するということだ。
そして、天皇自らが、直正に“天杯”を授けるという、破格の対応でもある。
「…勿体(もったい)のうございます。ありがたき幸せ。」
――周囲は色々な見方をするが、性根は真っ直ぐな鍋島直正(閑叟)。
孝明天皇から直々の期待が伝わり、さらに責任の重さを感じる。たしかに佐賀が培った技術を用いれば、国を守るための抑えになるかもしれない。
その力は、直正が若い頃から積み上げてきたものだ。
しかし、ともに強い佐賀藩への改革を進めた面々も、年を経るにつれ、次々と世を去った。あるいは長年の無理がたたり、動くこともままならない者もいる。
「もはや…万事、余が決めていかねばならぬか。」
直正とて歳を重ねて、健康も損なった。御所からの帰路に、一人つぶやく言葉に、走り続ける辛さが浮かぶ。
以前なら、年長者や同世代の者たちが、直正の決断を支えてきた。ふと気が付けば、残る者はわずかとなっている。
めでたいはずの参内の日だが、直正が感じたのは、深まる孤独だった。
(第20話「長崎方控」に続く)
Posted by SR at 22:46 | Comments(0) | 第19話「閑叟上洛」
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。