2023年11月05日
第19話「閑叟上洛」㉑(“摂海”の賑わう街にて)
こんばんは。
少しずつ“本編”を進めます。文久二年(1862年)の十一月。鍋島直正(閑叟)が、京の都へと向かう話を続けています。
旧暦の話ですので、冬の寒さを感じながらお読みいただければ幸いです。
直正が乗船する佐賀藩の蒸気船・電流丸と、お供の観光丸の二隻は瀬戸内を抜けて、摂津国・大坂(大阪)の港に至ります。
この“摂海”(大阪湾)は、京の都を防衛するためには抑えねばならない場所。摂津国(大阪・兵庫)に面した海。幕末が舞台のドラマではよく聞く地名です。

――佐賀藩の“船団”が、大坂の港へと近づく。
江戸期を通じて、大坂は“天下の台所”とも呼ばれており、商人の活動が盛んな経済のまちである。
物見高い町衆の噂話が絶えることはない。蒸気船団の入港を、わざわざ見に来る者たちもいる様子だ。
「おい。向こうに“黒船”が見えとるんは、どこの国のもんや。」
「あれか、佐賀の船らしいで。」
「佐賀やて?肥前国のか…。」
「“殿様”が乗っとるらしいし、危ない黒船とは、ちゃう(違う)で。」
「じゃ、もっと近くで見とこか。」
商業の集積地である大坂の街は、何かと賑やかな土地柄のようだ。

――“殿様”とは言われたが、この“黒船”・電流丸に乗船しているのは、
肥前国・佐賀の前藩主である鍋島直正(閑叟)。前年の文久元年(1861年)に、子の鍋島直大(茂実)に藩主の座を譲って、隠居となっている。
着岸を前にして、直正も、“執事役”の古川与一(松根)を伴い、船の甲板へと上がった。
ここは電流丸も、観光丸も湾内での細かな操船のためか、モクモクと煙突から黒煙を吐き出している。
「…大殿、このような煙たい折に、船上に出られてよろしいのですか。」
「胃の具合は良からずだが、少々の煙を吸っても障(さわ)りはあるまい。」
「それに、あの者たちが船を操る姿を見ておきたくてな。」
「閑叟さまのご高覧であれば、船員たちも喜びましょう。」
「それと…やけに、岸壁が騒々しいようだが。」
「大坂の町衆のようですな。ちと、派手に寄せ過ぎたやもしれません。」

――こうして佐賀の大殿・鍋島直正は、“蒸気船”で大坂に入った。
少々、入港が目立ってしまった。西洋式の艦船を操れる藩士が多数いる佐賀にとっては、蒸気船を遣うのは自然な発想だが、たしかに国内では異例だ。
ここから京の都に入るまでの間、直正(閑叟)は大坂に滞在する。川沿いには諸国から廻ってきた、積み荷を下ろす活気がみなぎっている。
「商いで成り立つ街だと、ようわかるな。」
巨大都市・江戸(東京)に生まれ、青年期までを過ごした直正だが、また違った空気がある商人の街・大坂が珍しいようだ。
「大殿がお立ち寄りですので、例のお話をお耳に入れておきたく。」
「…大坂と言えば、商いの話か。」

「お察しのとおりです。此度は、北風家の者を呼んでおるとのこと。」
この文久二年頃に、佐賀藩は海外への展開を見据え、豪商を介して、大坂に両替(資金調達)の拠点を作ろうとしていた。
――ここ数年間の“開国”で、経済を取り巻く環境は激変している。
佐賀藩は、直正の藩主就任から、大地主より耕作者を大事にする農政改革をしたこともあり、数十年かけて、次第に豊かになってきた。
しかし安政年間に欧米各国と締結した通商条約によって、長年、徳川政権が貿易を管理してきた“鎖国”体制から“開国”へと時代は転換しつつある。
通商条約以前からも拡大傾向にあった、海外との貿易。開国により、その流れは加速し、時に制御できないほどの、商品と資金の動きも生じる。
以前にもイギリスが茶葉を買い付ければ、佐賀の嬉野では到底足らず、九州全土からかき集めねばならない…という異例の事態もあった。

「これからは長崎のみでの商いとは、比にはならぬからな…」
佐賀藩は、長くオランダとの交易で利益を得ていたが、このところ質量ともに、貿易の変化は著しい。一度に融通できる資金力の強化が課題だった。
「昨今は商いも、押し寄せる波濤のようにございます。」
「…違いない。その嵐から逃げることは、許されぬようだがな。」
幕末期にも一気にではなく、地道に近代化への足場を固めてきた佐賀藩。
急激な変化に対応するため、この年も、直正(閑叟)は、なるべく海外の実情を知ろうと、幾つかの手を打っていた。
(続く)
少しずつ“本編”を進めます。文久二年(1862年)の十一月。鍋島直正(閑叟)が、京の都へと向かう話を続けています。
旧暦の話ですので、冬の寒さを感じながらお読みいただければ幸いです。
直正が乗船する佐賀藩の蒸気船・電流丸と、お供の観光丸の二隻は瀬戸内を抜けて、摂津国・大坂(大阪)の港に至ります。
この“摂海”(大阪湾)は、京の都を防衛するためには抑えねばならない場所。摂津国(大阪・兵庫)に面した海。幕末が舞台のドラマではよく聞く地名です。
――佐賀藩の“船団”が、大坂の港へと近づく。
江戸期を通じて、大坂は“天下の台所”とも呼ばれており、商人の活動が盛んな経済のまちである。
物見高い町衆の噂話が絶えることはない。蒸気船団の入港を、わざわざ見に来る者たちもいる様子だ。
「おい。向こうに“黒船”が見えとるんは、どこの国のもんや。」
「あれか、佐賀の船らしいで。」
「佐賀やて?肥前国のか…。」
「“殿様”が乗っとるらしいし、危ない黒船とは、ちゃう(違う)で。」
「じゃ、もっと近くで見とこか。」
商業の集積地である大坂の街は、何かと賑やかな土地柄のようだ。
――“殿様”とは言われたが、この“黒船”・電流丸に乗船しているのは、
肥前国・佐賀の前藩主である鍋島直正(閑叟)。前年の文久元年(1861年)に、子の鍋島直大(茂実)に藩主の座を譲って、隠居となっている。
着岸を前にして、直正も、“執事役”の古川与一(松根)を伴い、船の甲板へと上がった。
ここは電流丸も、観光丸も湾内での細かな操船のためか、モクモクと煙突から黒煙を吐き出している。
「…大殿、このような煙たい折に、船上に出られてよろしいのですか。」
「胃の具合は良からずだが、少々の煙を吸っても障(さわ)りはあるまい。」
「それに、あの者たちが船を操る姿を見ておきたくてな。」
「閑叟さまのご高覧であれば、船員たちも喜びましょう。」
「それと…やけに、岸壁が騒々しいようだが。」
「大坂の町衆のようですな。ちと、派手に寄せ過ぎたやもしれません。」

――こうして佐賀の大殿・鍋島直正は、“蒸気船”で大坂に入った。
少々、入港が目立ってしまった。西洋式の艦船を操れる藩士が多数いる佐賀にとっては、蒸気船を遣うのは自然な発想だが、たしかに国内では異例だ。
ここから京の都に入るまでの間、直正(閑叟)は大坂に滞在する。川沿いには諸国から廻ってきた、積み荷を下ろす活気がみなぎっている。
「商いで成り立つ街だと、ようわかるな。」
巨大都市・江戸(東京)に生まれ、青年期までを過ごした直正だが、また違った空気がある商人の街・大坂が珍しいようだ。
「大殿がお立ち寄りですので、例のお話をお耳に入れておきたく。」
「…大坂と言えば、商いの話か。」
「お察しのとおりです。此度は、北風家の者を呼んでおるとのこと。」
この文久二年頃に、佐賀藩は海外への展開を見据え、豪商を介して、大坂に両替(資金調達)の拠点を作ろうとしていた。
――ここ数年間の“開国”で、経済を取り巻く環境は激変している。
佐賀藩は、直正の藩主就任から、大地主より耕作者を大事にする農政改革をしたこともあり、数十年かけて、次第に豊かになってきた。
しかし安政年間に欧米各国と締結した通商条約によって、長年、徳川政権が貿易を管理してきた“鎖国”体制から“開国”へと時代は転換しつつある。
通商条約以前からも拡大傾向にあった、海外との貿易。開国により、その流れは加速し、時に制御できないほどの、商品と資金の動きも生じる。
以前にもイギリスが茶葉を買い付ければ、佐賀の嬉野では到底足らず、九州全土からかき集めねばならない…という異例の事態もあった。
「これからは長崎のみでの商いとは、比にはならぬからな…」
佐賀藩は、長くオランダとの交易で利益を得ていたが、このところ質量ともに、貿易の変化は著しい。一度に融通できる資金力の強化が課題だった。
「昨今は商いも、押し寄せる波濤のようにございます。」
「…違いない。その嵐から逃げることは、許されぬようだがな。」
幕末期にも一気にではなく、地道に近代化への足場を固めてきた佐賀藩。
急激な変化に対応するため、この年も、直正(閑叟)は、なるべく海外の実情を知ろうと、幾つかの手を打っていた。
(続く)
Posted by SR at 17:26 | Comments(0) | 第19話「閑叟上洛」
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