2020年10月22日

第14話「遣米使節」⑫(遠くまで…)

こんばんは。

今回の投稿は、長崎で“写真術”を身に付けた佐賀藩医が登場します。日本の“ジャーナリスト”の先駆けの1人、川崎道民です。
〔参照(終盤):第13話「通商条約」④(お大事になされませ!)

年代は少し進んで1859年頃の設定です。もちろん、殿鍋島直正は無事に薩摩から帰還しています。

通商条約の締結」「安政の大獄」と激動の時代は進み、豪腕とも評された、大老井伊直弼が、幕府で奮闘していた時期のお話です。
〔参照(終盤):第13話「通商条約」⑬(豪腕、唸〔うな〕る)


――佐賀城内。北の堀端に面した“須古鍋島家”の屋敷。

須古”は、現在の白石町にあった自治領。その領主・鍋島安房(茂真)は佐賀藩請役(ナンバー2)を務める。

直正より1歳年上の異母兄は、30年近く殿直正を支え続けていた。

川崎よ。立派になったな。」
安房様から、学ぶ場お授けいただいたのです。」

ひたすら感謝の意を述べている、坊主頭の青年。名を川崎道民という。利発そうな丸顔の若者である。



――川崎道民は、“須古領”の侍医(お付きの医者)に養子に入っていた。

鍋島安房は、才能ある川崎道民を領内に留めず、佐賀の藩医に推挙した。こうして川崎は、進んだ西洋の医術を学ぶことができた。

ふと、川崎が“良い事を思い付いた!”と、その表情を緩める。
長崎にて、面白き業(わざ)を身に付けて参りました!」

「ほう…」
興味がある”という反応の鍋島安房。この姿勢は変わらない。長年、寝る間も惜しんで、下級藩士たちの話も大切に聞き続けてきた。

昔日は、仕事場藩校「弘道館」との往復に走り回ったが、今はその気力は感じられず、病身にも伺える。


――しかし探求心は、まだ失われていない様子だ。

「“写真”と呼ばれるに、ございます。」

人の姿を、ありのままに写すという業か。」
「左様(その通り)です。」

「もし、宜しければ…」
川崎は、“写真”撮影を提案した。

鍋島安房は、フッと寂しげな表情を浮かべる。
「今のありのままには、もはや値打ちは無い。」


――自分を引き立ててくれた、“ご領主”の言葉は芳(かんば)しくない。

川崎も、意気消沈の様子を見せる。

「…川崎よ。お主が写すべきものは、もっと遠くに遥か向こうにあるのではないか。」
鍋島安房の目には、まだ確かなが宿っている。その言葉に川崎は、ハッと胸を打たれた。

「…世を広く見聞し、必ずやご期待に応えてお見せします。」
川崎は、鍋島安房の言葉を受け止めた。


――元は、主従の関係だった、この2人。想いは引き継がれた。

ほどなく川崎道民江戸に向かった。

そして、長年に渡って鍋島直正補佐役を務めた、鍋島安房は“罷免”という形で表舞台を去っていく



――1859年。江戸の佐賀藩邸。

川崎道民が、写真の道具を扱っている。この年に撮影されたものが、鍋島直正肖像写真として最も有名な1枚として知られる。

「…川崎。もう動いても良いか?」
殿しばし、しばしのお待ちを!」

「“写真”も、なかなかに窮屈なものよ。」
良き写りを得るためには、辛抱こそが肝要でござる!」


――殿・直正の“写真”撮影に奮闘する、川崎道民。

「ところで…川崎よ。メリケン(アメリカ)に行かぬか?」
殿、しばし!動かずにお待ちを…え!?」

海の向こうの異国、メリケンじゃ。」
「…殿良き1枚が撮れたようです。」

殿直正から、突然の海外渡航の提案。動揺する川崎道民だったが、さすがは佐賀の藩医。抜かりなく撮影は成し遂げた様子だ。


(続く)

  


Posted by SR at 22:03 | Comments(0) | 第14話「遣米使節」