2020年10月16日
第14話「遣米使節」⑩(秘密の航海)
こんばんは。
前回、殿・鍋島直正が、薩摩(鹿児島)に蒸気船で向かう計画を明かしました。当時の薩摩藩主・島津斉彬は、殿の母方のいとこにあたります。
この航海の目的は判然としておらず、時期にも諸説ありますが、「日米修好通商条約」締結の直前期で、何らかの相談があった…と推測されています。
――長崎。ある蒸気船の甲板。
佐賀藩が、幕府から訓練のため借りている“観光丸”である。
「ふーっ!」
大きく深呼吸をする、佐野栄寿(常民)。この航海の船長に重責がのしかかる。
「佐野はん。いや、船長。いよいよやな。」
化学・物理の双方に通じた、科学者・中村奇輔。出身地の“京言葉”が抜けない佐賀藩士である。
中村も、殿・直正の指示で、自作した“電信機”を手土産に薩摩に向かうのだ。
――このとき、佐賀の殿様も、密かに船に乗り込んだ。
肥前佐賀35万7千石の当主・鍋島直正。
佐賀と薩摩。外様の大藩同士での“密談”に向かうのである。そして、幕府には単なる訓練の航海で届け出ている。
「佐野。よろしく頼むぞ。」
「はっ!」
――秘密の航海には、危険が伴う。
その途上で事故でもあれば、佐賀藩が危機に瀕するのは明らかだった。
さすがの佐野も、緊張で手がブルブルとする。
「船出だ!帆を上げろ!」
「はい!!船長!」
海軍伝習の経験者が先導し、佐賀の水夫(船手方)たちも動く。
――この頃は蒸気船でも、燃料補給の問題もあり、よく帆走を使う。
“観光丸”は、ゆらりと風を受けて長崎を出港した。
港から離れると、殿・直正が甲板に現れた。殿様も、窮屈な生活である。ましてや、直正ほどの“実力”がある大名は、常に動向が注目されている。
「…海は良いのう。潮風が快い。」
「はっ、今日は良き日和(ひより)です。」
順調な船出に安堵した、佐野が応える。
「この海の向こう、この目で見てみたいものよ。」
いつになく、大きく伸びをする直正。遠く、海の彼方を見遣っていた。

――風が弱まり、凪(なぎ)となる。
「この時を待っておった!行け、佐野よ。」
殿・直正が弾んだ声をかける。
「汽走に切り換えるぞ!」
佐野が、海軍伝習を受けた士官たちに“蒸気機関”の起動を指示した。
ボッ…
煙突から、ゆらゆらと黒煙が立ち上がる。
ガランガラン…
船の両舷(げん)にある“外輪”が、水車のようにゆっくり回転を始める。
――わずか4年ばかり前。日本を驚愕させた“黒船”。
佐賀藩士たちは、いまや自在に蒸気船を操り、薩摩に向かっているのだ。
外輪は勢いよく水を掻き、“観光丸”は速度を増している。
「取り舵(左に旋回)だ。」
佐野が海図を見ながら、指示を出す。船は着実に南方へと進む。
「…いやぁ、やっぱり“蒸気機関”は、ええなぁ!」
作業からご機嫌で帰ってきた、中村奇輔。
――顔中が、炭で煤(すす)けているが笑顔である。
「中村よ。また、ずいぶん“蒸気仕掛け”と戯れたと見えるな。」
殿・直正が、中村にも声をかける。
「これは…お殿様。まぁ、仰せの通りです。」
恐縮しながらも、やはり楽しそうな中村。
「お主が、佐賀に来てくれて良かった。」
「はっ、勿体(もったい)なき、お言葉。私こそ果報者です。」
佐野からの誘いに応じて中村は、京都から佐賀に来た。蒸気機関を設計したり、電信機を作ったり…これが中村にとって、幸せな日々なのである。

――航海は順調に進む。薩摩の桜島(錦江湾)に寄せていく“観光丸”。
「殿…なにゆえ危険を顧みず、薩摩まで…」
佐野は船上で、ずっと聞きたかったことを、直正に尋ねた。
「薩摩さまに、差し出がましいことを申し上げるためじゃ。」
「…!?」
「狭い日本(ひのもと)で、“小競り合い”を為しても仕方ないとな。」
(続く)
前回、殿・鍋島直正が、薩摩(鹿児島)に蒸気船で向かう計画を明かしました。当時の薩摩藩主・島津斉彬は、殿の母方のいとこにあたります。
この航海の目的は判然としておらず、時期にも諸説ありますが、「日米修好通商条約」締結の直前期で、何らかの相談があった…と推測されています。
――長崎。ある蒸気船の甲板。
佐賀藩が、幕府から訓練のため借りている“観光丸”である。
「ふーっ!」
大きく深呼吸をする、佐野栄寿(常民)。この航海の船長に重責がのしかかる。
「佐野はん。いや、船長。いよいよやな。」
化学・物理の双方に通じた、科学者・中村奇輔。出身地の“京言葉”が抜けない佐賀藩士である。
中村も、殿・直正の指示で、自作した“電信機”を手土産に薩摩に向かうのだ。
――このとき、佐賀の殿様も、密かに船に乗り込んだ。
肥前佐賀35万7千石の当主・鍋島直正。
佐賀と薩摩。外様の大藩同士での“密談”に向かうのである。そして、幕府には単なる訓練の航海で届け出ている。
「佐野。よろしく頼むぞ。」
「はっ!」
――秘密の航海には、危険が伴う。
その途上で事故でもあれば、佐賀藩が危機に瀕するのは明らかだった。
さすがの佐野も、緊張で手がブルブルとする。
「船出だ!帆を上げろ!」
「はい!!船長!」
海軍伝習の経験者が先導し、佐賀の水夫(船手方)たちも動く。
――この頃は蒸気船でも、燃料補給の問題もあり、よく帆走を使う。
“観光丸”は、ゆらりと風を受けて長崎を出港した。
港から離れると、殿・直正が甲板に現れた。殿様も、窮屈な生活である。ましてや、直正ほどの“実力”がある大名は、常に動向が注目されている。
「…海は良いのう。潮風が快い。」
「はっ、今日は良き日和(ひより)です。」
順調な船出に安堵した、佐野が応える。
「この海の向こう、この目で見てみたいものよ。」
いつになく、大きく伸びをする直正。遠く、海の彼方を見遣っていた。

――風が弱まり、凪(なぎ)となる。
「この時を待っておった!行け、佐野よ。」
殿・直正が弾んだ声をかける。
「汽走に切り換えるぞ!」
佐野が、海軍伝習を受けた士官たちに“蒸気機関”の起動を指示した。
ボッ…
煙突から、ゆらゆらと黒煙が立ち上がる。
ガランガラン…
船の両舷(げん)にある“外輪”が、水車のようにゆっくり回転を始める。
――わずか4年ばかり前。日本を驚愕させた“黒船”。
佐賀藩士たちは、いまや自在に蒸気船を操り、薩摩に向かっているのだ。
外輪は勢いよく水を掻き、“観光丸”は速度を増している。
「取り舵(左に旋回)だ。」
佐野が海図を見ながら、指示を出す。船は着実に南方へと進む。
「…いやぁ、やっぱり“蒸気機関”は、ええなぁ!」
作業からご機嫌で帰ってきた、中村奇輔。
――顔中が、炭で煤(すす)けているが笑顔である。
「中村よ。また、ずいぶん“蒸気仕掛け”と戯れたと見えるな。」
殿・直正が、中村にも声をかける。
「これは…お殿様。まぁ、仰せの通りです。」
恐縮しながらも、やはり楽しそうな中村。
「お主が、佐賀に来てくれて良かった。」
「はっ、勿体(もったい)なき、お言葉。私こそ果報者です。」
佐野からの誘いに応じて中村は、京都から佐賀に来た。蒸気機関を設計したり、電信機を作ったり…これが中村にとって、幸せな日々なのである。
――航海は順調に進む。薩摩の桜島(錦江湾)に寄せていく“観光丸”。
「殿…なにゆえ危険を顧みず、薩摩まで…」
佐野は船上で、ずっと聞きたかったことを、直正に尋ねた。
「薩摩さまに、差し出がましいことを申し上げるためじゃ。」
「…!?」
「狭い日本(ひのもと)で、“小競り合い”を為しても仕方ないとな。」
(続く)