2024年02月10日
「ある“お買い物リスト”の話(前編)」
こんばんは。
人は、その一生の中で、どれぐらいの“買い物”をするのでしょうか。
前回の記事で、「佐賀の品物への愛」を語ることを思い立った私。
〔参照:「新章は始められるのか」〕
何を欲して、何に価値を見いだすのか…ふと、ご自身の“お買い物リスト”を振り返ってみれば、貴方の求める人生の姿が見えるのかもしれません。

――ある日。県内に住む、叔父上から連絡があった。
「今日、“例の物”を送ったとよ。」という知らせだ。
私は、その報を聞いて微笑んだ。佐賀(市内)に用事があるときに…と、お願いしていた品物が届くそうだ。
“例の物”といっても送付元は現代の佐賀県で、幕末の佐賀藩ではないから、当然、アームストロング砲やスペンサー銃が送られてくるわけではない。
では、青が美しい伊万里の鍋島焼や、赤が冴える有田焼の陶磁器でも来るかと言えば、それも違う。

――しかし“例の物”は、幕末に世界に輸出された品物の1つではあった。
幕末期、世界での需要にお茶の供給は追いついていなかったという。日本からも海外に茶葉が輸出されたが、佐賀周辺では、やはり嬉野茶である。
〔参照:「主に嬉野市民の方を対象にしたつぶやき(前編)」〕
海の向こうでも紅茶として飲まれていた、嬉野茶のもう1つの姿が、この令和の現代に洗練されて、帰ってきている。
――その荷物を受け取った夜。
箱の封を開けると、また、新しい世界が見えた気がした。
待望の“嬉野の和紅茶”4種類のそろい踏みである。なんてスタイリッシュな。この並びだけでかなりの壮観だ。

もし佐賀藩で喩えるならば「武雄・須古・多久…そして、諫早」の龍造寺四家とでも語ろうか…と一般の方には、たぶん理解しづらい感覚が頭を巡る。
〔参照(中盤):「佐賀と長崎をつなぐもの」〔諫早駅〕〕
要は、かなり嬉しかったので、喜んで写真を撮った。
――叔父上にとりいそぎ、御礼の電話をする。
「これは、もう見た感じ…すでに美味しいです!」
「そうね、そいは良かったばい。」
その言葉には、何か含みがあった。
「…他にも、なにか別の物があったのですか?」
「そうとよ。実は“さくら”のあるらしかよ。」
「“さくら”とは…?」
その日は在庫が無くて入手できなかったらしいが、さらに別の種類で“さくら”のブレンド和紅茶も存在するらしい。
そういえば、“さくら”の紋様は、別に入手した小城羊羹の包装にも見かけた。「九州の小京都」の1つともいう、小城は桜のイメージが強い。

――「嬉野紅茶と、小城羊羹も合いそうだな…」
私は、佐賀県の各地がつながっていく思考を深める。叔父上は、言葉を継ぐ。
「そういえば、海苔も送っておいたとよ。」
「おお、この海苔ならば、こちらでも入手したことが…」
これは偶然にも、前回の記事で語ったものと同じ佐賀海苔だった。
都会の片隅で、今日も人波に流される、まるで“大河の一滴”のような私だが、佐賀の特産品が眼前に来れば見逃しはしない。

――こういう時の私は、都会に流される群衆の1人ではなくなる。
「佐賀の品物を選び取る」という、私自身の意思が強くはたらくからだ。近隣の大型スーバー等で、九州の特産を集めたフェアが狙い目と言える。
なお、佐賀の品物が出ない自称・“九州物産展”を、私は九州物産展とは認めていない。これも、私なりの意地なのだ。
――さて、「この海苔ならば、買った事はあるぞ」と思った私だったが、
「白のパッケージもあるのか…? これは見たことがない!」
黒いパッケージに入った味付海苔。その味わいについては、前回に語った。パリパリと海苔をかじりながら、有明の海を感じたものだ。

もう1つ、白いパッケージに包まれた、別種があるとは知らなかった。
「…塩海苔ですか?」
「ごま油も、使こうとるばい。」
叔父上は、そう補足をする。私は思った、「これも絶対、美味しいやつだ…」と。
――やはり、叔父上は常に、私の一歩先を行っている。
私は、叔父上にこう伝えた。
「また、次の機会があれば、ぜひ、買い物をお願いします。」
「佐賀駅まで行ったら、けっこう色々とあるけん。よかとよ。」
叔父上は、いつものように飄々(ひょうひょう)としていたのだった。

この私の生き方に「なぜ、通販を使わないのか」と疑問を持つ方もいるかもしれないが、それには幾つかの答えがある。
佐賀の品物を取り寄せ始めれば、たぶん私は買い過ぎる。"帰藩”のための資金も必要だ…というのも理由の1つだ。
――「買い物には、その人の“生き方”が表れる…」
こうして私は、自分自身の振る舞いからも、それを感じ取った。
本編・第20話「長崎方控」を何とか書き始めたいのだが、こんな日常から得た感覚も活かしていこうと思っている…

――ここから、幕末期の佐賀藩に話を戻します。
先ほど触れた、龍造寺四家の1つ・武雄領を治めたのが、鍋島茂義公。
第10代佐賀藩主だった鍋島直正公にとっては、義兄(姉の夫)にあたり、名実ともに“兄貴分”でした。
ご存知の方も多いと思いますが、「長崎方控」というのは、その鍋島茂義公の“お買い物リスト”の名前なのです。
…この続きは、後編で書く予定にしています。
人は、その一生の中で、どれぐらいの“買い物”をするのでしょうか。
前回の記事で、「佐賀の品物への愛」を語ることを思い立った私。
〔参照:
何を欲して、何に価値を見いだすのか…ふと、ご自身の“お買い物リスト”を振り返ってみれば、貴方の求める人生の姿が見えるのかもしれません。
――ある日。県内に住む、叔父上から連絡があった。
「今日、“例の物”を送ったとよ。」という知らせだ。
私は、その報を聞いて微笑んだ。佐賀(市内)に用事があるときに…と、お願いしていた品物が届くそうだ。
“例の物”といっても送付元は現代の佐賀県で、幕末の佐賀藩ではないから、当然、アームストロング砲やスペンサー銃が送られてくるわけではない。
では、青が美しい伊万里の鍋島焼や、赤が冴える有田焼の陶磁器でも来るかと言えば、それも違う。
――しかし“例の物”は、幕末に世界に輸出された品物の1つではあった。
幕末期、世界での需要にお茶の供給は追いついていなかったという。日本からも海外に茶葉が輸出されたが、佐賀周辺では、やはり嬉野茶である。
〔参照:
海の向こうでも紅茶として飲まれていた、嬉野茶のもう1つの姿が、この令和の現代に洗練されて、帰ってきている。
――その荷物を受け取った夜。
箱の封を開けると、また、新しい世界が見えた気がした。
待望の“嬉野の和紅茶”4種類のそろい踏みである。なんてスタイリッシュな。この並びだけでかなりの壮観だ。
もし佐賀藩で喩えるならば「武雄・須古・多久…そして、諫早」の龍造寺四家とでも語ろうか…と一般の方には、たぶん理解しづらい感覚が頭を巡る。
〔参照(中盤):
要は、かなり嬉しかったので、喜んで写真を撮った。
――叔父上にとりいそぎ、御礼の電話をする。
「これは、もう見た感じ…すでに美味しいです!」
「そうね、そいは良かったばい。」
その言葉には、何か含みがあった。
「…他にも、なにか別の物があったのですか?」
「そうとよ。実は“さくら”のあるらしかよ。」
「“さくら”とは…?」
その日は在庫が無くて入手できなかったらしいが、さらに別の種類で“さくら”のブレンド和紅茶も存在するらしい。
そういえば、“さくら”の紋様は、別に入手した小城羊羹の包装にも見かけた。「九州の小京都」の1つともいう、小城は桜のイメージが強い。
――「嬉野紅茶と、小城羊羹も合いそうだな…」
私は、佐賀県の各地がつながっていく思考を深める。叔父上は、言葉を継ぐ。
「そういえば、海苔も送っておいたとよ。」
「おお、この海苔ならば、こちらでも入手したことが…」
これは偶然にも、前回の記事で語ったものと同じ佐賀海苔だった。
都会の片隅で、今日も人波に流される、まるで“大河の一滴”のような私だが、佐賀の特産品が眼前に来れば見逃しはしない。
――こういう時の私は、都会に流される群衆の1人ではなくなる。
「佐賀の品物を選び取る」という、私自身の意思が強くはたらくからだ。近隣の大型スーバー等で、九州の特産を集めたフェアが狙い目と言える。
なお、佐賀の品物が出ない自称・“九州物産展”を、私は九州物産展とは認めていない。これも、私なりの意地なのだ。
――さて、「この海苔ならば、買った事はあるぞ」と思った私だったが、
「白のパッケージもあるのか…? これは見たことがない!」
黒いパッケージに入った味付海苔。その味わいについては、前回に語った。パリパリと海苔をかじりながら、有明の海を感じたものだ。
もう1つ、白いパッケージに包まれた、別種があるとは知らなかった。
「…塩海苔ですか?」
「ごま油も、使こうとるばい。」
叔父上は、そう補足をする。私は思った、「これも絶対、美味しいやつだ…」と。
――やはり、叔父上は常に、私の一歩先を行っている。
私は、叔父上にこう伝えた。
「また、次の機会があれば、ぜひ、買い物をお願いします。」
「佐賀駅まで行ったら、けっこう色々とあるけん。よかとよ。」
叔父上は、いつものように飄々(ひょうひょう)としていたのだった。
この私の生き方に「なぜ、通販を使わないのか」と疑問を持つ方もいるかもしれないが、それには幾つかの答えがある。
佐賀の品物を取り寄せ始めれば、たぶん私は買い過ぎる。"帰藩”のための資金も必要だ…というのも理由の1つだ。
――「買い物には、その人の“生き方”が表れる…」
こうして私は、自分自身の振る舞いからも、それを感じ取った。
本編・第20話「長崎方控」を何とか書き始めたいのだが、こんな日常から得た感覚も活かしていこうと思っている…

――ここから、幕末期の佐賀藩に話を戻します。
先ほど触れた、龍造寺四家の1つ・武雄領を治めたのが、鍋島茂義公。
第10代佐賀藩主だった鍋島直正公にとっては、義兄(姉の夫)にあたり、名実ともに“兄貴分”でした。
ご存知の方も多いと思いますが、「長崎方控」というのは、その鍋島茂義公の“お買い物リスト”の名前なのです。
…この続きは、後編で書く予定にしています。
Posted by SR at 22:27 | Comments(0) | 構成編(P)
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