2024年02月19日
「ある“お買い物リスト”の話(後編)」
こんばんは。
前編のラストで紹介した、鍋島茂義公の“お買い物リスト”という「長崎方控」。
佐賀県西部にあり、長崎へとつながる西九州新幹線の発着点でもある、現在の武雄市で綴られた文書です。

「ながさきかたひかえ」と一気に読むのではなく、「長崎方」と「控」で意味の区切りがあります。
“控”(ひかえ)とは記録のこと、では、“長崎方”(ながさきかた)とは何なのか。今でも、その答えは明確には出ていないそうです。
ここからは、長い歴史の流れに沿って、お話をします。
――江戸時代の武雄領の成り立ちから考える…
まずは遡ること、戦国時代まで。“肥前の熊”の異名を持ち、「五州二島の太守」とも呼ばれ、九州北部をほぼ掌握した佐賀の戦国武将・龍造寺隆信。
龍造寺の快進撃を支えた副将格・鍋島直茂(当時の名は、信昌→信生)との並びは"龍造寺の仁王門”とも称されたそうです。
言うならば、剛と柔の“二枚看板”をもって、九州の北部から、その名を轟かせていたのですが…

――晩年の龍造寺隆信は、現在の白石町にある須古城を拠点とします。
しかし、この頃から素行を乱していったようで、いろいろと諫言する鍋島直茂を、次第に遠ざけるようになっていたそうです。
南九州の覇者・島津氏との戦。西九州の有馬氏の援軍として、薩摩の島津が進出してきます。
ここでも、鍋島直茂による「出陣を見合わせ、持久戦が有利」との忠告を聞き入れず、龍造寺隆信は戦場での深追いをします。
その最期の地は、島原の沖田畷という湿地帯。兵の動かしづらい、足場の悪く、狭い沼地へと突き進んでいったそうです。
このような場所を選んで、伏兵を忍ばせて待ち伏せ、側面から攻撃する…これは、島津氏の必勝パターンだったと聞きます。

――私は、戦国時代について充分調べていませんが…
カリスマのあった、大将・龍造寺隆信を戦で失い、当時の佐賀が大混乱に陥ったことは想像できます。
龍造寺一門が賢明だったのは、新当主は龍造寺氏で立てるものの、舵取りは“二枚看板”だった鍋島直茂に任せたことでしょう。
――豊臣政権の統治、徳川幕府の成立…と続く激動の時代。
失策や内紛で滅びゆく大名家は数知れず。
鍋島直茂は、嫡子・勝茂とともに龍造寺家臣団を率いて、この荒波を乗り越えたことにより、佐賀藩の祖となりました。

こうして、鍋島勝茂が初代藩主となり、龍造寺一門は藩の重臣として幕末まで続く…というのが、私の理解です。
――そして、龍造寺隆信の三男・後藤家信の家系が…
武雄鍋島家を名乗って、代々、佐賀藩の要職に就いていきます。
なお、後藤家信の姓が龍造寺ではなかったのは、戦国期に至るまで武雄を守った有力者・後藤一族に婿入りしたからだそうです。
龍造寺四家の一つ・武雄鍋島家。ここまで長い歴史を綴りましたが、幕末期には“お買い物リスト”の主である、鍋島茂義を世に送り出すことになります。
以上が、私の認識に基づいて、ざっと調べた内容ですが、佐賀県内の…とくに武雄周辺の歴史に詳しい方、おおむね合ってますでしょうか。

――幕末期の佐賀藩が「日本近代化のトップランナー」だったことは、
疑いの無いところでしょう。但し、開明の名君として知られる鍋島直正が藩主に就いた時期は1830年(天保元年)頃。
佐賀藩の改革そのものは、ここからのスタートという見解もあります。
しかし、近代化の進展で考えると、この時期から佐賀藩内にある程度の西洋知識の蓄積がないと、辻褄が合わないと考えます。
――その“矛盾”を説明できる存在が、
当ブログでは「蘭学兄貴」とかお呼びしている、武雄領主(邑主)・鍋島茂義だと考えています。
佐賀は、たしかに“トップランナー”だったが、マラソンや駅伝に喩えるなら、それを“白バイ”くらいの位置から先導する存在があった。
当時の日本では異例の感覚で、西洋に興味を持ち、その文物を買い求め、最新の砲術を自ら学んでしまう。飛び抜けて“蘭癖”な自治領主・鍋島茂義。

――地理的に、長崎に近いところで
佐賀藩の重臣となっていた「武雄・須古・多久、そして諫早」の龍造寺四家は、自治領を持っていました。
鍋島直正が佐賀藩主となった時代。藩政改革に協力的だったのは、前藩主の影響が強かった鍋島家の一門よりも、龍造寺四家だった…という話も。
武雄の自治領主として、決定権を持つ人物に“西洋かぶれ”の鍋島茂義がいたことは、佐賀藩を通じて、日本の近代に影響したと考えています。

――蘭学領主の“お買い物リスト”は、西洋の技術だけではないようで…
鉄砲、薬品、洋書、理化学機器…などはわかりやすいのですが、意外と飲食などの嗜好品が多いようです。
ブランデー、葡萄酒、リキュール、タバコ…あたりは“ちょいワル”な印象(?)の品物にも思えます。
それらが何処かで販売されて、佐賀藩や武雄領に利益をもたらしたのか、そもそも「長崎方」とは何者なのか…詳しくはわからないそうです。

――ところで随分と前に“本編”で、
佐賀の“蘭学ネットワーク”の関係者が集まる場面を書いたことがあります。その中心にいたのが、隠居した武雄領主の鍋島茂義。
〔参照:第4話「諸国遊学」⑥〕
行きがかり上で書いた話だったので、今、見返すとまとまりがありません…
ただ、「長崎方」とは、当時の佐賀にいた“西洋かぶれ”でやる気のある人々の集まりだったのかもしれない、とは思います。
――たとえば、ペリー来航の10年以上前の1840年代に、
当時の武雄では、西洋式の青銅砲を製作していましたが、のち幕府の韮山反射炉の開発責任者となる、江川英龍も視察に立ち寄ったといいます。
〔参照:第3話「西洋砲術」③-4〕
また、実際に韮山反射炉が造られた時期には、すでに反射炉で鉄製大砲を生産していた佐賀から技術者が派遣された、という記録もあるそうです。
〔参照(後半):第13話「通商条約」⑧(幕府の要〔かなめ〕)〕

幕末期、近代化のトップランナーの佐賀藩を先導した武雄領が、日本でも最先端の地域だった、ということはオーバーな話では無いと思います。
――歴史の表舞台から消えたように見えた、龍造寺氏。
その家系から、日本の近代化の先陣を切る人物が出ていたというのも、佐賀の皆様にとってロマンのある話だと思うのですが、どうでしょうか。
前編のラストで紹介した、鍋島茂義公の“お買い物リスト”という「長崎方控」。
佐賀県西部にあり、長崎へとつながる西九州新幹線の発着点でもある、現在の武雄市で綴られた文書です。
「ながさきかたひかえ」と一気に読むのではなく、「長崎方」と「控」で意味の区切りがあります。
“控”(ひかえ)とは記録のこと、では、“長崎方”(ながさきかた)とは何なのか。今でも、その答えは明確には出ていないそうです。
ここからは、長い歴史の流れに沿って、お話をします。
――江戸時代の武雄領の成り立ちから考える…
まずは遡ること、戦国時代まで。“肥前の熊”の異名を持ち、「五州二島の太守」とも呼ばれ、九州北部をほぼ掌握した佐賀の戦国武将・龍造寺隆信。
龍造寺の快進撃を支えた副将格・鍋島直茂(当時の名は、信昌→信生)との並びは"龍造寺の仁王門”とも称されたそうです。
言うならば、剛と柔の“二枚看板”をもって、九州の北部から、その名を轟かせていたのですが…
――晩年の龍造寺隆信は、現在の白石町にある須古城を拠点とします。
しかし、この頃から素行を乱していったようで、いろいろと諫言する鍋島直茂を、次第に遠ざけるようになっていたそうです。
南九州の覇者・島津氏との戦。西九州の有馬氏の援軍として、薩摩の島津が進出してきます。
ここでも、鍋島直茂による「出陣を見合わせ、持久戦が有利」との忠告を聞き入れず、龍造寺隆信は戦場での深追いをします。
その最期の地は、島原の沖田畷という湿地帯。兵の動かしづらい、足場の悪く、狭い沼地へと突き進んでいったそうです。
このような場所を選んで、伏兵を忍ばせて待ち伏せ、側面から攻撃する…これは、島津氏の必勝パターンだったと聞きます。

――私は、戦国時代について充分調べていませんが…
カリスマのあった、大将・龍造寺隆信を戦で失い、当時の佐賀が大混乱に陥ったことは想像できます。
龍造寺一門が賢明だったのは、新当主は龍造寺氏で立てるものの、舵取りは“二枚看板”だった鍋島直茂に任せたことでしょう。
――豊臣政権の統治、徳川幕府の成立…と続く激動の時代。
失策や内紛で滅びゆく大名家は数知れず。
鍋島直茂は、嫡子・勝茂とともに龍造寺家臣団を率いて、この荒波を乗り越えたことにより、佐賀藩の祖となりました。
こうして、鍋島勝茂が初代藩主となり、龍造寺一門は藩の重臣として幕末まで続く…というのが、私の理解です。
――そして、龍造寺隆信の三男・後藤家信の家系が…
武雄鍋島家を名乗って、代々、佐賀藩の要職に就いていきます。
なお、後藤家信の姓が龍造寺ではなかったのは、戦国期に至るまで武雄を守った有力者・後藤一族に婿入りしたからだそうです。
龍造寺四家の一つ・武雄鍋島家。ここまで長い歴史を綴りましたが、幕末期には“お買い物リスト”の主である、鍋島茂義を世に送り出すことになります。
以上が、私の認識に基づいて、ざっと調べた内容ですが、佐賀県内の…とくに武雄周辺の歴史に詳しい方、おおむね合ってますでしょうか。
――幕末期の佐賀藩が「日本近代化のトップランナー」だったことは、
疑いの無いところでしょう。但し、開明の名君として知られる鍋島直正が藩主に就いた時期は1830年(天保元年)頃。
佐賀藩の改革そのものは、ここからのスタートという見解もあります。
しかし、近代化の進展で考えると、この時期から佐賀藩内にある程度の西洋知識の蓄積がないと、辻褄が合わないと考えます。
――その“矛盾”を説明できる存在が、
当ブログでは「蘭学兄貴」とかお呼びしている、武雄領主(邑主)・鍋島茂義だと考えています。
佐賀は、たしかに“トップランナー”だったが、マラソンや駅伝に喩えるなら、それを“白バイ”くらいの位置から先導する存在があった。
当時の日本では異例の感覚で、西洋に興味を持ち、その文物を買い求め、最新の砲術を自ら学んでしまう。飛び抜けて“蘭癖”な自治領主・鍋島茂義。

――地理的に、長崎に近いところで
佐賀藩の重臣となっていた「武雄・須古・多久、そして諫早」の龍造寺四家は、自治領を持っていました。
鍋島直正が佐賀藩主となった時代。藩政改革に協力的だったのは、前藩主の影響が強かった鍋島家の一門よりも、龍造寺四家だった…という話も。
武雄の自治領主として、決定権を持つ人物に“西洋かぶれ”の鍋島茂義がいたことは、佐賀藩を通じて、日本の近代に影響したと考えています。
――蘭学領主の“お買い物リスト”は、西洋の技術だけではないようで…
鉄砲、薬品、洋書、理化学機器…などはわかりやすいのですが、意外と飲食などの嗜好品が多いようです。
ブランデー、葡萄酒、リキュール、タバコ…あたりは“ちょいワル”な印象(?)の品物にも思えます。
それらが何処かで販売されて、佐賀藩や武雄領に利益をもたらしたのか、そもそも「長崎方」とは何者なのか…詳しくはわからないそうです。

――ところで随分と前に“本編”で、
佐賀の“蘭学ネットワーク”の関係者が集まる場面を書いたことがあります。その中心にいたのが、隠居した武雄領主の鍋島茂義。
〔参照:
行きがかり上で書いた話だったので、今、見返すとまとまりがありません…
ただ、「長崎方」とは、当時の佐賀にいた“西洋かぶれ”でやる気のある人々の集まりだったのかもしれない、とは思います。
――たとえば、ペリー来航の10年以上前の1840年代に、
当時の武雄では、西洋式の青銅砲を製作していましたが、のち幕府の韮山反射炉の開発責任者となる、江川英龍も視察に立ち寄ったといいます。
〔参照:
また、実際に韮山反射炉が造られた時期には、すでに反射炉で鉄製大砲を生産していた佐賀から技術者が派遣された、という記録もあるそうです。
〔参照(後半):

幕末期、近代化のトップランナーの佐賀藩を先導した武雄領が、日本でも最先端の地域だった、ということはオーバーな話では無いと思います。
――歴史の表舞台から消えたように見えた、龍造寺氏。
その家系から、日本の近代化の先陣を切る人物が出ていたというのも、佐賀の皆様にとってロマンのある話だと思うのですが、どうでしょうか。
Posted by SR at 22:34 | Comments(0) | 構成編(P)
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