2024年07月26日

「滑込の剣」(7)向き合えば、問答の間

こんばんは。5月上旬のこの時、ある「特別展」が閉幕の間近だったので、佐賀へと駆け込みました。

かつて、教科書では「佐賀の乱」とだけ記された、あの事件の真相…それが見えてきそうな気がしたからです。

会場である“佐賀城本丸歴史館”に向かう途上で、私は佐賀県庁に立ち寄りました。例によって“銅像との対話”が続きます。

県庁ロビーには佐賀七賢人江藤新平の銅像もあった。幕末佐賀から脱藩し謹慎となるが、明治初期のわずかな期間、その才能は強い光を放った。

「議論において、並ぶ者なし」とも評された江藤裁判所など近代の司法制度を整備するのみならず、徳川幕府から明治新政府への移行にも深く関わった。

ところが、日本近代国家として成り立たせるために奔走した人物は、新政府に不満を持つ士族による“反乱の首謀者”扱いとされ、その生涯を閉じた。

――「私は、江藤先生と違って、平凡な人間です。」

「…歳も取ってしまった。もう勉学に励んでも、たかが知れています。」
まさに、時を費やした。若き日は遠く、身体からは気力が感じられない。

「では、はそのままで良かと、そう考えるか。」
さすが江藤新平という人物、その銅像に向き合うだけで、ピリピリとした問答の気分になる。

「…いや、だからこそ“佐賀の力”が要るのです。」
「そがん言いよるが、佐賀ん力ば、いかに使うか。」

――しばし、無音にて間が空く。私は言葉を返した。

「…私はともかくとして、まだ佐賀には無限の可能性が残っている。」
「その佐賀可能性ば、どうやって引き出すつもりか。」

江藤理想を語れば、常に実行の手順があったという。それだけ、言いっ放しで後を考えない“評論家”には厳しい。

「それには佐賀の誇りを取り戻すこと。江藤新平という人物の評価を正しく行うのが、遠回りに見えて近道だと考えます。」
「よか、わかった。では、勉学に励まんね!」

――これが問答の結論か。

佐賀への帰藩のたびに行う「銅像との対話」は大体、何か1つの答えを残していく。今回、は結局のところ“勉学に励むべし”という話に戻された。

そういえば幕末期、全国で一番勉強したのは、佐賀藩だという話も聞く。

おそるべし、江藤新平。向き合うだけで「ああ、佐賀の者とは、その命が尽きるまで、学び続けることと見つけたり…」という気分になった。



  


Posted by SR at 23:08 | Comments(0) | 佐賀への道