2022年01月03日
「醒覚の剣(歌枕)」
こんばんは。
私のブログでは、ここ2年間ほど佐賀に帰れないと語るわりに、佐賀の写真をよく掲載します。この“妙技”を可能にしているのが、地元に住む叔父上です。
…叔父上に次々と舞い込むのは、もう若くはない甥っ子からの依頼の数々。
今回はちょっと“新春ミステリー”風の書き出しで正月らしさを意識しましたが、嬉野~唐津へとつながる…まるで“2時間ドラマ”のような長文になりました。
――時に、私の想像の“斜め上”を行く叔父上。
「嬉野に寄るときに“和泉式部”が居たから、撮ってきたとよ。」
「…!和泉式部…、なぜ佐賀に?」
平安時代の歌人の名であることはわかる。しかし、一応は歴史好きのはずの私だが、その辺りの知識は乏しい。
「…平安期か…」
私は、思考を巡らした。こういう時の叔父上は、極めて無邪気である。奇をてらったところが無い分、動きが読めない。

――これを「幕末佐賀藩の大河ドラマ」がテーマのブログで、どう使う…?
「まず地図ば、見んね?」
私の住む地から、遠く隔たった佐賀。電話口から叔父上の声がする。そうだ、考えるだけでは駄目だ。現地に足を運べずとも、できる事があると言うことか。
「和泉式部像の所在は、嬉野市・塩田の辺りですね…。」
「そうたい、塩田の近くばい。」
嬉野市・塩田。そういえば“本編”でも描いたことがある。有明海の干満の差を利用し、江戸期に水運で栄えたという。

――隆盛(りゅうせい)を誇った“川の港”。
十二単(じゅうにひとえ)姿の女性像は、叔父上が私に出した公案(課題)であるのか。電話を切ったあと、さらに思索を重ねる。
「もしや京都と、佐賀にある塩田の港がつながっていた…ということか!」
少し調べると、実は全国各地に“和泉式部”の伝承はあるようだ。幾人もの、和泉式部の影。
――著名な平安の歌人だった和泉式部は、
生没年も不詳というが、恋多き女性だったと伝わるようだ。かの『源氏物語』の作者・紫式部は彼女の華やかさに妬みを感じていた…と聞いた事がある。
和泉式部像の周辺情報によると、佐賀出身説は、おそらくは御仏のご加護により、現在の白石町に生まれた才女が、ここ嬉野市・塩田の夫妻に育てられ、都に上ったそうだ。

――この歌碑は“千年”も前の、出来事の手がかりなのか。
古の時代にも、佐賀と京都の間にあったかもしれない、点と点を結ぶ“動線”。
百五十年ばかりしか離れていない、幕末でもわからぬ事だらけなのだ。さすがに、千年となれば厳しい。
「…この事案は、管轄外だ。私には追えない。」
しかし、幾つかの点には、思い当たるところがある。
1つ、当地・塩田が何らかの形で、京の都と交流があったと思われる事。
1つ、高名な女流歌人が輩出される素地がある、文化水準が推測できる事。
――現在、『さがファンブログ』でも閲覧できる…
“市報うれしの”にも、短歌を掲載するコーナーを見つけた。この流れだと、何の不思議もない。きっと心が動いた時には、歌を詠むのだ。では、
念願の 鉄路来たれる 嬉野に
茶の沸く 湯も湧く また街もわく
私に短歌の心得は無い…そして“字余り”だが、祝福の気持ちは込めた。嬉野に鉄道の新駅が来る。西九州新幹線の開業年には、いろいろと期待もある。

――さて平安期に、京の歌人たちは…
実際に足を運べずとも、遙か東北の地にさえ想いを馳せ、歌を詠んだという。
こうして名所化された場所を“歌枕”と呼び、江戸時代の俳人・松尾芭蕉などは、それら“聖地”を巡っていたと聞く。
いわば“強く想う力”が重なって、本物の“聖地”を創り出した事例もあるということか。強く想うことだけならば、微力ながらも、私の得手とするところである。
――想い出すのは、昨年の大河ドラマ『青天を衝け』での、
江戸幕府14代将軍・徳川家茂〔演:磯村勇斗〕と和宮〔演:深川麻衣〕の場面。美男美女で優雅であり、個人的に“源氏物語”っぽく見えてしまった。
但し、この“ご夫婦”、恋多き男女とは真逆。まるで、二昔くらい前の少女マンガでしか見られないような、一途な純愛物語と言ってよさそうだ。
――そして妻・和宮が、夫・家茂への気持ちを詠んだ和歌には、
涙を誘うような想いが伝わる一首がある。『青天を衝け』でも一瞬、この内容の場面が登場したが、ここでは詳細を差し控える。
妻だけでなく、幕臣たちからも慕われた“上様”だったのか。京都で苦境にあった将軍・徳川家茂を救おうとした人物もいた。
こちらも現在の佐賀県にある、唐津藩の小笠原長行。将軍・家茂を苦しめる攘夷派を一掃すべく、軍勢を率い、京都へ乗り込もうとした史実があるようだ。

――こうして、私の新春一本目の調査(?)は完了した。
「…叔父上。あの写真。どうにか、幕末の佐賀とつながりました。」
この記事が、調査報告だ。実際のところ叔父上は「あんまり無理ばせんと。」とよく言ってくれる。たぶん今回も、そうだろう。
佐賀県全体に通じる“物語”を描こうとする試み…“本編”を描く道のりは、今年も険しそうだ。
私のブログでは、ここ2年間ほど佐賀に帰れないと語るわりに、佐賀の写真をよく掲載します。この“妙技”を可能にしているのが、地元に住む叔父上です。
…叔父上に次々と舞い込むのは、もう若くはない甥っ子からの依頼の数々。
今回はちょっと“新春ミステリー”風の書き出しで正月らしさを意識しましたが、嬉野~唐津へとつながる…まるで“2時間ドラマ”のような長文になりました。
――時に、私の想像の“斜め上”を行く叔父上。
「嬉野に寄るときに“和泉式部”が居たから、撮ってきたとよ。」
「…!和泉式部…、なぜ佐賀に?」
平安時代の歌人の名であることはわかる。しかし、一応は歴史好きのはずの私だが、その辺りの知識は乏しい。
「…平安期か…」
私は、思考を巡らした。こういう時の叔父上は、極めて無邪気である。奇をてらったところが無い分、動きが読めない。
――これを「幕末佐賀藩の大河ドラマ」がテーマのブログで、どう使う…?
「まず地図ば、見んね?」
私の住む地から、遠く隔たった佐賀。電話口から叔父上の声がする。そうだ、考えるだけでは駄目だ。現地に足を運べずとも、できる事があると言うことか。
「和泉式部像の所在は、嬉野市・塩田の辺りですね…。」
「そうたい、塩田の近くばい。」
嬉野市・塩田。そういえば“本編”でも描いたことがある。有明海の干満の差を利用し、江戸期に水運で栄えたという。
――隆盛(りゅうせい)を誇った“川の港”。
十二単(じゅうにひとえ)姿の女性像は、叔父上が私に出した公案(課題)であるのか。電話を切ったあと、さらに思索を重ねる。
「もしや京都と、佐賀にある塩田の港がつながっていた…ということか!」
少し調べると、実は全国各地に“和泉式部”の伝承はあるようだ。幾人もの、和泉式部の影。
――著名な平安の歌人だった和泉式部は、
生没年も不詳というが、恋多き女性だったと伝わるようだ。かの『源氏物語』の作者・紫式部は彼女の華やかさに妬みを感じていた…と聞いた事がある。
和泉式部像の周辺情報によると、佐賀出身説は、おそらくは御仏のご加護により、現在の白石町に生まれた才女が、ここ嬉野市・塩田の夫妻に育てられ、都に上ったそうだ。
――この歌碑は“千年”も前の、出来事の手がかりなのか。
古の時代にも、佐賀と京都の間にあったかもしれない、点と点を結ぶ“動線”。
百五十年ばかりしか離れていない、幕末でもわからぬ事だらけなのだ。さすがに、千年となれば厳しい。
「…この事案は、管轄外だ。私には追えない。」
しかし、幾つかの点には、思い当たるところがある。
1つ、当地・塩田が何らかの形で、京の都と交流があったと思われる事。
1つ、高名な女流歌人が輩出される素地がある、文化水準が推測できる事。
――現在、『さがファンブログ』でも閲覧できる…
“市報うれしの”にも、短歌を掲載するコーナーを見つけた。この流れだと、何の不思議もない。きっと心が動いた時には、歌を詠むのだ。では、
念願の 鉄路来たれる 嬉野に
茶の沸く 湯も湧く また街もわく
私に短歌の心得は無い…そして“字余り”だが、祝福の気持ちは込めた。嬉野に鉄道の新駅が来る。西九州新幹線の開業年には、いろいろと期待もある。
――さて平安期に、京の歌人たちは…
実際に足を運べずとも、遙か東北の地にさえ想いを馳せ、歌を詠んだという。
こうして名所化された場所を“歌枕”と呼び、江戸時代の俳人・松尾芭蕉などは、それら“聖地”を巡っていたと聞く。
いわば“強く想う力”が重なって、本物の“聖地”を創り出した事例もあるということか。強く想うことだけならば、微力ながらも、私の得手とするところである。
――想い出すのは、昨年の大河ドラマ『青天を衝け』での、
江戸幕府14代将軍・徳川家茂〔演:磯村勇斗〕と和宮〔演:深川麻衣〕の場面。美男美女で優雅であり、個人的に“源氏物語”っぽく見えてしまった。
但し、この“ご夫婦”、恋多き男女とは真逆。まるで、二昔くらい前の少女マンガでしか見られないような、一途な純愛物語と言ってよさそうだ。
――そして妻・和宮が、夫・家茂への気持ちを詠んだ和歌には、
涙を誘うような想いが伝わる一首がある。『青天を衝け』でも一瞬、この内容の場面が登場したが、ここでは詳細を差し控える。
妻だけでなく、幕臣たちからも慕われた“上様”だったのか。京都で苦境にあった将軍・徳川家茂を救おうとした人物もいた。
こちらも現在の佐賀県にある、唐津藩の小笠原長行。将軍・家茂を苦しめる攘夷派を一掃すべく、軍勢を率い、京都へ乗り込もうとした史実があるようだ。
――こうして、私の新春一本目の調査(?)は完了した。
「…叔父上。あの写真。どうにか、幕末の佐賀とつながりました。」
この記事が、調査報告だ。実際のところ叔父上は「あんまり無理ばせんと。」とよく言ってくれる。たぶん今回も、そうだろう。
佐賀県全体に通じる“物語”を描こうとする試み…“本編”を描く道のりは、今年も険しそうだ。