2021年09月14日

第16話「攘夷沸騰」⑮(“薬の街”に吹く風)

こんばんは。
今回から“本編”です。幕末期のドラマで、英米仏蘭4か国はよく登場します。

一方で当時のロシア)の動きは、あまり紹介されないように思います。佐賀藩では長崎警備などを通じて、とりわけロシアへの警戒感が強くありました。

今回から“対馬事件”を軸に物語を展開します。1861年(万延二年・文久元年)2月に、ロシア船“ポサドニック号”が対馬に上陸。混乱は各地に広がります。

なお前回、長崎英学修業に向かっていた、佐賀藩士海軍伝習の経験者)に乗艦命令が出たのも、この事件への対応のためです。
〔参照(後半):第16話「攘夷沸騰」⑭(多良海道の往還)

事件当事者だった“対馬藩士”たちも、実は“佐賀”で暮らしていました。


――佐賀藩の東隣にある、対馬藩の田代(たじろ)領。

現在の鳥栖市東部・基山町にあたる地域である。

「よう、“薬屋”。また、本草(物)のお勉強か。」
「相変わらず、物を考えぬ男だ。もう少し書物に親しんではどうか。」

若者2人が、田代(現・佐賀県鳥栖市)の代官所の近くで軽口を叩き合う。

薬学に熱心な書生を“薬屋”と揶揄(やゆ)した若侍は、木刀を引っ提げ、武芸の鍛錬に余念が無い様子。

一方、もっと本を読め…と返答した書生は、すらりと色白。若侍の言によれば、薬学の勉強に熱心なようで、理系学生の印象。彼を“田代の書生”と呼んでおく。



――対馬藩の飛び地。田代領では、“製薬業”が盛んだった。

対馬本藩は離島のため農産には不利で、田代領はそれを補う役割があった。かつては農業生産が落ちる心配から薬用作物の栽培が抑制されたともいう。

しかし、全国で著名な“富山薬売り”にも比すほど頑張った、田代領薬売りは、次第にその地位を高めた。現代風にいえば、“ブランド力”を得ていたのだ。

「かくいうお主は、など辞めて、薬売り婿(むこ)に収まらんね。」
思慮の浅かこと。もはや田代の侍薬の事ば知らん…では通らんばい。」

書生の方は、田代領の“経済”を思慮するようだ。だんだん感情的になる2人。次第に“佐賀ことば”が強まっていく。


――当時、日本における「四大売薬」の一角となっていた、田代。

もはや製薬は、この地の産業の柱。現代の佐賀県人口10万人あたりの薬局数日本一というが、それには“田代売薬”の伝統が関係するという。

学問ならばしておるぞ。もっと大きか話たい!」

「知っておる…お主が何かと“攘夷”を叫んでおるのは。」
国ば守るのは、おいの地元の誇りやけんな。」

先ほどから書生と言い合っている若侍武芸の鍛錬に攘夷思想。まさに典型的な幕末の志士。そして、彼の地元基山

古代から国を守る最前線だった“防人”(さきもり)のだったを眺めて育った。彼は“基山の若侍”と呼称しよう。



――小競り合いを続ける2人。

田代領にあった藩校東明館でともに学んだ“田代の書生”と“基山の若侍”。この対馬藩の学校には藩士役人だけでなく、庄屋などの子弟も通ったという。

「“攘夷”も良いが、命を粗末にするなよ。」
薬学の徒である“田代の書生”に身を案じられ“基山の若侍”は拍子抜けした。

「なんね、こん(の)臆病もんが…!?」
若侍は、こう言い放ったが、内心では同窓の者からの心配は受けとめたのか、今までより声がフワッとしている。


――ドドドッ…と、通りに響く足音。

突然、現れた幾人かの侍羽織もバサバサとはためかせて、代官所の門前に駆け込むのが見えた。軽く砂ぼこりがたって、明らかに急ぎの用件と見える。

「何ね!?」
「…府中(対馬)の御城からの使者では無いか?」

書生”の見立ては正しかった。その頃、彼らの本藩対馬では一大事が起きていたのである。


(続く)





  


Posted by SR at 20:32 | Comments(0) | 第16話「攘夷沸騰」