2023年06月21日
第19話「閑叟上洛」⑯(福岡の志士も、諦めない)
こんばんは。
前回、佐賀藩の命令で、江藤新平を連れ戻すため、福岡に向かう藩境を越えたのは、父である江藤助右衛門。
三瀬街道の番人として務めていた古賀一平は、江藤新平の同志の1人であり、助右衛門に手がかりとなる情報を伝えます。
ところで、江藤が脱藩をする前年には、現在の福岡県にあたる筑前・筑後の地域から勤王の志士たちが、佐賀との連携を求めて来訪していました。
〔参照(後半):第17話「佐賀脱藩」⑧(福岡から来た“さぶらい”)〕

独自路線を進んだ佐賀藩よりも、幕府寄りだったとも言われる福岡藩。筑前(福岡)における勤王の志士たちの立場は、かなり厳しいものでした。
――三瀬街道を福岡方面へと急ぐ、江藤助右衛門。
先ほどの番所の役人・古賀一平の話によると、新平はすでに九州近くにまで来ている可能性もある。
江藤とは“義祭同盟”の同志だと小声で告げ、古賀はこんな事も語った。
「福岡の城下に着けば、新平どのは平野さまを訪ねるに違いなか。」
「…平野さま?」
「平野先生は、大志を持つ福岡の者たい。」
“勤王”の話となると、やや過熱気味になる傾向の古賀一平。各地の志士たちの間で、よく知られている平野国臣への評価も高い。
その平野の方も、先年、来佐した際に「佐賀に“三平”あり!」と言葉を発した。江藤新平や大木民平(喬任)と並んで、古賀一平を認めているようだ。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑨(佐賀に“三平”あり)〕

――佐賀藩の役目で助右衛門は、子・新平の連れ戻しが任務。
古賀から聞いた話は、有力な手がかりだ。老体には堪(こた)える旅路となる。できるだけ効率よく探索を進めねばならない。
「平野…という御方の住まいは、福岡城下のどの辺りかのう。」
福岡へと向かう街道。助右衛門は、佐賀の峠を背に、淡々と歩を進めていく。
――同じ頃、福岡城下にて。
「御免!平野さまはお戻りではないか!」
「おお、お主だったか。たしか江藤どの。」
ここで、勤王の志士・平野国臣の家を守るのは、門下生のようだ。
江藤新平は京の都に向かう前、各地の志士に強い人脈を持つ、旧知の平野を訪ね、活動の助けとするつもりだったが、その時は行方が知れなかった。

「江藤どのは、京の都から戻って来られたのか。」
「然(しか)り。京より、佐賀に帰るところだ。」
門下生からの問いかけ。江藤は予告どおり、京で活動して還る途上である。
「平野さまは福岡に戻られたが、藩庁の詮議(せんぎ)を受けたとか。」
「…随分とお詳しい。残念ながら、先生は、いまだ牢の中に居られる。」
――京で起きた“寺田屋騒動”は、勤王の志士に大打撃を与えた。
薩摩藩士による勤王派の粛清事件ではあるが、各地の志士も巻き込んだ。
〔参照:第18話「京都見聞」③(寺田屋騒動の始末)〕
先ほどの平野国臣は、事件の発生前に京を離れて無事だったが、福岡藩の黒田の殿様へ、勤王への決起を訴えていた。
この時は、勤王の志士としての平野の知名度もあり、まだ丁寧に扱われた。だが寺田屋騒動で薩摩の勤王派が力を失うと、福岡藩の対応が急変する。
平野は、福岡藩の牢獄に入れられた。江藤が立ち寄った際に行方知れずだったのは、そのためだ。
〔参照:第18話「京都見聞」②(消えた“さぶらい”の行方)〕

「…これが、平野先生からの手紙たい。」
「平野さまには、墨も筆も与えられとらんか。」
その手紙の有様を見せられて、江藤もやや驚いている。
獄中から平野は、こより状にした紙を、米粒を使って、台紙に貼り付けて文字を作り、手紙にしたという。
普段から古風な装束に身を包み、山伏や飛脚にまで変装して、薩摩に潜入するなど、いろいろと諦(あきら)めない精神と行動力を備えた、平野国臣。
――平野の門下生が、江藤に尋ねる。
「そういえば、海賀くんからは、便りが無いのだ。」
「海賀どのは薩摩の船に乗ったが、もはや生きてはおらぬようだ。」
先ほどまでは、平野の手紙を見て驚いていたが、ここは、いつもの江藤らしく、はっきりとした答え方をした。
福岡の支藩・秋月藩の海賀宮門は、寺田屋騒動の後、若い志士たちと薩摩の船に乗ったが、日向(宮崎)に着いたところで、急襲されて落命したようだ。
〔参照:第18話「京都見聞」⑨(その志は、海に消えても)〕

この真っ直ぐな秋月の志士も、先年には元気に佐賀まで来ていたが、その志は海に潰えたのである。
〔参照:第18話「京都見聞」⑧(真っ直ぐな心で)〕
「薩摩の者か…」
行動派の平野の門下生にしては、穏やかな印象の人物だったが、微かな震えに怒りが感じられる。
――江藤が調べた情報から、平野の門下生に伝わる、志士たちの悲劇。
「お主は、約束を守ってくれたのだな…」
平野の門下生としては、この言葉を返すのが限界のようだ。江藤から聞く話では、仲間意識のあった薩摩の変容を示す、つらい事実ばかりが伝えられた。
また、江藤にまったく悪意はないのだが、理路整然とした話し方を続けるので、厳しい報告を受ける側には堪(こた)える。
「貴君は、命を大切になされよ。」
そういう江藤とて、命を賭した脱藩者だ。この言葉には、あまり説得力が無い。
「…まだ、先生が居られるゆえ、諦めてはおらんばい。」
門下生は、師匠・平野国臣の存命に望みをつなぐ様子だ。
ひと通りの情報交換を終えて、双方が深々と一礼する。江藤は佐賀との藩境に向けて、福岡の城下町を歩き始めた。
――その福岡城下にも、水路を渡る秋の風。
「ほ~、福岡まででも遠かな~。」
佐賀から歩んできた道のりに、早くも疲れを感じた、江藤助右衛門が一息をつく。相変わらず、声が大きい。その助右衛門の声は、江藤の耳にも届いた。

「さすがに佐賀の近か。父上の声までが聞こえるごた(ようだ)。」
わずか3か月ほどの脱藩だったが、地元に近づくにつれ、望郷の想いも強まるのか、江藤は大きい独り言を発した。
「…ん。新平の声ばせんか!?」
水路にかかる橋の上にいたのは、助右衛門が探す尋ね人・江藤新平だった。
「何故、こがん(このような)所に居られるとですか!」
父・助右衛門の姿を認めた、子・新平が、はっきりとした声を発した。
(続く)
○参考記事:「志士たちの悲劇について(第18話・場面解説②)」
前回、佐賀藩の命令で、江藤新平を連れ戻すため、福岡に向かう藩境を越えたのは、父である江藤助右衛門。
三瀬街道の番人として務めていた古賀一平は、江藤新平の同志の1人であり、助右衛門に手がかりとなる情報を伝えます。
ところで、江藤が脱藩をする前年には、現在の福岡県にあたる筑前・筑後の地域から勤王の志士たちが、佐賀との連携を求めて来訪していました。
〔参照(後半):
独自路線を進んだ佐賀藩よりも、幕府寄りだったとも言われる福岡藩。筑前(福岡)における勤王の志士たちの立場は、かなり厳しいものでした。
――三瀬街道を福岡方面へと急ぐ、江藤助右衛門。
先ほどの番所の役人・古賀一平の話によると、新平はすでに九州近くにまで来ている可能性もある。
江藤とは“義祭同盟”の同志だと小声で告げ、古賀はこんな事も語った。
「福岡の城下に着けば、新平どのは平野さまを訪ねるに違いなか。」
「…平野さま?」
「平野先生は、大志を持つ福岡の者たい。」
“勤王”の話となると、やや過熱気味になる傾向の古賀一平。各地の志士たちの間で、よく知られている平野国臣への評価も高い。
その平野の方も、先年、来佐した際に「佐賀に“三平”あり!」と言葉を発した。江藤新平や大木民平(喬任)と並んで、古賀一平を認めているようだ。
〔参照:
――佐賀藩の役目で助右衛門は、子・新平の連れ戻しが任務。
古賀から聞いた話は、有力な手がかりだ。老体には堪(こた)える旅路となる。できるだけ効率よく探索を進めねばならない。
「平野…という御方の住まいは、福岡城下のどの辺りかのう。」
福岡へと向かう街道。助右衛門は、佐賀の峠を背に、淡々と歩を進めていく。
――同じ頃、福岡城下にて。
「御免!平野さまはお戻りではないか!」
「おお、お主だったか。たしか江藤どの。」
ここで、勤王の志士・平野国臣の家を守るのは、門下生のようだ。
江藤新平は京の都に向かう前、各地の志士に強い人脈を持つ、旧知の平野を訪ね、活動の助けとするつもりだったが、その時は行方が知れなかった。
「江藤どのは、京の都から戻って来られたのか。」
「然(しか)り。京より、佐賀に帰るところだ。」
門下生からの問いかけ。江藤は予告どおり、京で活動して還る途上である。
「平野さまは福岡に戻られたが、藩庁の詮議(せんぎ)を受けたとか。」
「…随分とお詳しい。残念ながら、先生は、いまだ牢の中に居られる。」
――京で起きた“寺田屋騒動”は、勤王の志士に大打撃を与えた。
薩摩藩士による勤王派の粛清事件ではあるが、各地の志士も巻き込んだ。
〔参照:
先ほどの平野国臣は、事件の発生前に京を離れて無事だったが、福岡藩の黒田の殿様へ、勤王への決起を訴えていた。
この時は、勤王の志士としての平野の知名度もあり、まだ丁寧に扱われた。だが寺田屋騒動で薩摩の勤王派が力を失うと、福岡藩の対応が急変する。
平野は、福岡藩の牢獄に入れられた。江藤が立ち寄った際に行方知れずだったのは、そのためだ。
〔参照:
「…これが、平野先生からの手紙たい。」
「平野さまには、墨も筆も与えられとらんか。」
その手紙の有様を見せられて、江藤もやや驚いている。
獄中から平野は、こより状にした紙を、米粒を使って、台紙に貼り付けて文字を作り、手紙にしたという。
普段から古風な装束に身を包み、山伏や飛脚にまで変装して、薩摩に潜入するなど、いろいろと諦(あきら)めない精神と行動力を備えた、平野国臣。
――平野の門下生が、江藤に尋ねる。
「そういえば、海賀くんからは、便りが無いのだ。」
「海賀どのは薩摩の船に乗ったが、もはや生きてはおらぬようだ。」
先ほどまでは、平野の手紙を見て驚いていたが、ここは、いつもの江藤らしく、はっきりとした答え方をした。
福岡の支藩・秋月藩の海賀宮門は、寺田屋騒動の後、若い志士たちと薩摩の船に乗ったが、日向(宮崎)に着いたところで、急襲されて落命したようだ。
〔参照:
この真っ直ぐな秋月の志士も、先年には元気に佐賀まで来ていたが、その志は海に潰えたのである。
〔参照:
「薩摩の者か…」
行動派の平野の門下生にしては、穏やかな印象の人物だったが、微かな震えに怒りが感じられる。
――江藤が調べた情報から、平野の門下生に伝わる、志士たちの悲劇。
「お主は、約束を守ってくれたのだな…」
平野の門下生としては、この言葉を返すのが限界のようだ。江藤から聞く話では、仲間意識のあった薩摩の変容を示す、つらい事実ばかりが伝えられた。
また、江藤にまったく悪意はないのだが、理路整然とした話し方を続けるので、厳しい報告を受ける側には堪(こた)える。
「貴君は、命を大切になされよ。」
そういう江藤とて、命を賭した脱藩者だ。この言葉には、あまり説得力が無い。
「…まだ、先生が居られるゆえ、諦めてはおらんばい。」
門下生は、師匠・平野国臣の存命に望みをつなぐ様子だ。
ひと通りの情報交換を終えて、双方が深々と一礼する。江藤は佐賀との藩境に向けて、福岡の城下町を歩き始めた。
――その福岡城下にも、水路を渡る秋の風。
「ほ~、福岡まででも遠かな~。」
佐賀から歩んできた道のりに、早くも疲れを感じた、江藤助右衛門が一息をつく。相変わらず、声が大きい。その助右衛門の声は、江藤の耳にも届いた。
「さすがに佐賀の近か。父上の声までが聞こえるごた(ようだ)。」
わずか3か月ほどの脱藩だったが、地元に近づくにつれ、望郷の想いも強まるのか、江藤は大きい独り言を発した。
「…ん。新平の声ばせんか!?」
水路にかかる橋の上にいたのは、助右衛門が探す尋ね人・江藤新平だった。
「何故、こがん(このような)所に居られるとですか!」
父・助右衛門の姿を認めた、子・新平が、はっきりとした声を発した。
(続く)
○参考記事:
Posted by SR at 22:46 | Comments(0) | 第19話「閑叟上洛」
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