2024年04月22日
第20話「長崎方控」⑤(京の冬と、大殿の葛藤)
こんばんは。さて、結構長い“ひと呼吸”を置きましたが、“本編”に戻ります。
前回からの舞台、長崎街道の宿場町・肥前浜は、鹿島藩(佐賀藩の支藩)の経済を支えた町だと聞きます。
〔参照:第20話「長崎方控」④(肥前浜の“酔客”)〕
現在でも、佐賀の銘酒が造られる酒蔵の通りは、旅番組などにも向いた“映える”景色という印象。

すっかり気分良く酔いの回った大隈八太郎(重信)と山口範蔵(尚芳)ですが、大殿・鍋島直正(閑叟)の動向を語るに、少し真面目な顔になっています。
設定は文久二年(1862年)の晩秋から冬。現在の季節感と、ほぼ逆転してしまいました。今回は途中で秋の肥前浜宿から、冬の京都に場面転換します。
――ひそひそと話を切り出す、大隈。
だいぶ、山口と顔が近い。ほとんど、耳打ちをする様子である。
「範蔵さん…閑叟さまは、京に向かうとよ。」
「えっ、そがんですか!」
「ここは、宿場町たい。大声はいかんばい。」
大隈は、山口に念を押した。
そこまで、周囲の聞き耳が気になるのなら、話さなければいいのに…と思うが、よほど「言いたいことがある」らしい。
「心得ました。話ば続けてくれんですか。」
「そいぎ、言わせてもらうばい。」

――そして、大隈八太郎の“言いたいこと”は、こうだった。
「京の都に行くだけじゃなかと。閑叟さまは、“参内”ばなさるとよ。」
そう語る大隈は得意気だった。
「参内(さんだい)…?み…帝(みかど)に拝謁なさると?ふごっ…」
山口も小さく聞き返したが、大隈はあらかじめ口を押さえにかかっていた。
「そうたい。」
「八太郎さん…そがん、口ば押さえんでも、わかりますけん。」
山口はこう言うが、“帝”と言葉にしてしまうあたり、やはり冷静さを欠いている。それだけ、大きいお知らせなのだ。

時折、大隈は、蘭学の講義を命じられて、前藩主である鍋島直正(閑叟)の傍に寄る機会があるから、かなりの情報が得られる。
――大殿・鍋島直正(閑叟)は、西洋への興味の持ち方が深いから、
大隈にしたら、まだ準備していないところまで「続きを訳せ」とか言ってくるし、質問も鋭くて大変なのだが、それだけの値打ちがある蘭学講師の役回りだ。
「…ついに、佐賀が表舞台に立つ時ばい。」
大隈、気持ちが抑えられないのか、とりあえず立ち上がった。
「その時は、武雄のご隠居も、大殿とともに!」
ついで、山口も立ち上がった。
――山口にすれば自身を見い出してくれた、先の武雄領主・鍋島茂義。
大殿・鍋島直正の“兄貴分”でもあるし、佐賀が表舞台に出れば、きっと武雄の茂義公も並んで立つことだろう。そう思うだけで、山口には誇らしい。

2人の若者の心は、沸き立っていた。佐賀藩の力で、朝廷を中心とした秩序を先導して、日本の各地から英知を結集し、西洋に負けない国を作るのだと。
端から見れば、若い酔っぱらいの2人だが、その心は国事への奔走を決めた、まさに“志士”であった。
――同じく文久二年、師走(旧暦十二月)。冬の京都。
第19話の終盤に、時を戻す。佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)の一行は、京の市街地の北東にある、黒谷の真如堂を宿所としていた。
地元・佐賀で、熱くたぎる若者たちの視線が、その大殿に注がれる中、京への出立は、予定より遅く冬の手前となった。
そして、たしかに大隈や山口に期待されていたように、帝(孝明天皇)に拝謁する段取りも整っていた。

――しかし、若者たちの期待とは、ほど遠い状況がそこにはあった。
たしかに、鍋島直正(閑叟)の一行は佐賀を発ってから、北九州から蒸気船を使って大坂に入港し、すみやかに京都へと進んだ。
だが、実のところ、胃痛や痔疾に苦しみ、主に消化器系に多くの故障を抱えており、出立そのものも危うかったのだ。
〔参照(中盤):第19話「閑叟上洛」⑭(急ぐ理由と、動けぬ事情)〕

「肥後(熊本)の細川から、ご挨拶にとの申し入れが。」
鍋島直正への熱視線は、何も地元の若者だけではなく、各地の大名からも注がれていた。
「…うむ。閑叟さま、いかがいたしましょう。」
難しい顔をするのは、鍋島直正の幼少期からの側近・古川与一(松根)。
「肥後…、細川家とは、親しくしておきたいのだがな。」
京では、どうしても外せない行事がある。御所へ参内する日程が最優先だ。
――そこで体調を崩し、参内できないなどあってはならない。
温暖な佐賀平野に比べれば、京の冬には、しんしんとした底冷えを感じる。

取り次ぎ役が、今度は少々遠慮しながら言上した。
「…宇和島(愛媛)の伊達さまは、直々に面会をお望みのようで…」
「…うむ、大殿。いまは難しいでしょうな。」
――大殿・直正(閑叟)の状態をよく知る、古川が先に答えを出した。
「伊達どのとも、話をしておきたいのだがな…」
直正は、ぽつりと語ると、少し悔しそうな顔を見せた。宇和島の伊達宗城も、西洋の技術に関心を持つ殿様として評判がある。

もはや若き日は遠く、あちこち身体を損なって、思うようには動けない。もどかしくも、これが佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)の今の姿だった。
直正の体調不良は、その行動を予測しづらくした。その意図を深読みする者も多く、各地の大名から志士までに疑心を起こさせる事になる。
(続く)
○参考記事〔本編〕
・第19話「閑叟上洛」㉔(御所へと参じる日)
前回からの舞台、長崎街道の宿場町・肥前浜は、鹿島藩(佐賀藩の支藩)の経済を支えた町だと聞きます。
〔参照:
現在でも、佐賀の銘酒が造られる酒蔵の通りは、旅番組などにも向いた“映える”景色という印象。
すっかり気分良く酔いの回った大隈八太郎(重信)と山口範蔵(尚芳)ですが、大殿・鍋島直正(閑叟)の動向を語るに、少し真面目な顔になっています。
設定は文久二年(1862年)の晩秋から冬。現在の季節感と、ほぼ逆転してしまいました。今回は途中で秋の肥前浜宿から、冬の京都に場面転換します。
――ひそひそと話を切り出す、大隈。
だいぶ、山口と顔が近い。ほとんど、耳打ちをする様子である。
「範蔵さん…閑叟さまは、京に向かうとよ。」
「えっ、そがんですか!」
「ここは、宿場町たい。大声はいかんばい。」
大隈は、山口に念を押した。
そこまで、周囲の聞き耳が気になるのなら、話さなければいいのに…と思うが、よほど「言いたいことがある」らしい。
「心得ました。話ば続けてくれんですか。」
「そいぎ、言わせてもらうばい。」
――そして、大隈八太郎の“言いたいこと”は、こうだった。
「京の都に行くだけじゃなかと。閑叟さまは、“参内”ばなさるとよ。」
そう語る大隈は得意気だった。
「参内(さんだい)…?み…帝(みかど)に拝謁なさると?ふごっ…」
山口も小さく聞き返したが、大隈はあらかじめ口を押さえにかかっていた。
「そうたい。」
「八太郎さん…そがん、口ば押さえんでも、わかりますけん。」
山口はこう言うが、“帝”と言葉にしてしまうあたり、やはり冷静さを欠いている。それだけ、大きいお知らせなのだ。
時折、大隈は、蘭学の講義を命じられて、前藩主である鍋島直正(閑叟)の傍に寄る機会があるから、かなりの情報が得られる。
――大殿・鍋島直正(閑叟)は、西洋への興味の持ち方が深いから、
大隈にしたら、まだ準備していないところまで「続きを訳せ」とか言ってくるし、質問も鋭くて大変なのだが、それだけの値打ちがある蘭学講師の役回りだ。
「…ついに、佐賀が表舞台に立つ時ばい。」
大隈、気持ちが抑えられないのか、とりあえず立ち上がった。
「その時は、武雄のご隠居も、大殿とともに!」
ついで、山口も立ち上がった。
――山口にすれば自身を見い出してくれた、先の武雄領主・鍋島茂義。
大殿・鍋島直正の“兄貴分”でもあるし、佐賀が表舞台に出れば、きっと武雄の茂義公も並んで立つことだろう。そう思うだけで、山口には誇らしい。
2人の若者の心は、沸き立っていた。佐賀藩の力で、朝廷を中心とした秩序を先導して、日本の各地から英知を結集し、西洋に負けない国を作るのだと。
端から見れば、若い酔っぱらいの2人だが、その心は国事への奔走を決めた、まさに“志士”であった。
――同じく文久二年、師走(旧暦十二月)。冬の京都。
第19話の終盤に、時を戻す。佐賀の前藩主・鍋島直正(閑叟)の一行は、京の市街地の北東にある、黒谷の真如堂を宿所としていた。
地元・佐賀で、熱くたぎる若者たちの視線が、その大殿に注がれる中、京への出立は、予定より遅く冬の手前となった。
そして、たしかに大隈や山口に期待されていたように、帝(孝明天皇)に拝謁する段取りも整っていた。
――しかし、若者たちの期待とは、ほど遠い状況がそこにはあった。
たしかに、鍋島直正(閑叟)の一行は佐賀を発ってから、北九州から蒸気船を使って大坂に入港し、すみやかに京都へと進んだ。
だが、実のところ、胃痛や痔疾に苦しみ、主に消化器系に多くの故障を抱えており、出立そのものも危うかったのだ。
〔参照(中盤):
「肥後(熊本)の細川から、ご挨拶にとの申し入れが。」
鍋島直正への熱視線は、何も地元の若者だけではなく、各地の大名からも注がれていた。
「…うむ。閑叟さま、いかがいたしましょう。」
難しい顔をするのは、鍋島直正の幼少期からの側近・古川与一(松根)。
「肥後…、細川家とは、親しくしておきたいのだがな。」
京では、どうしても外せない行事がある。御所へ参内する日程が最優先だ。
――そこで体調を崩し、参内できないなどあってはならない。
温暖な佐賀平野に比べれば、京の冬には、しんしんとした底冷えを感じる。
取り次ぎ役が、今度は少々遠慮しながら言上した。
「…宇和島(愛媛)の伊達さまは、直々に面会をお望みのようで…」
「…うむ、大殿。いまは難しいでしょうな。」
――大殿・直正(閑叟)の状態をよく知る、古川が先に答えを出した。
「伊達どのとも、話をしておきたいのだがな…」
直正は、ぽつりと語ると、少し悔しそうな顔を見せた。宇和島の伊達宗城も、西洋の技術に関心を持つ殿様として評判がある。

もはや若き日は遠く、あちこち身体を損なって、思うようには動けない。もどかしくも、これが佐賀の大殿・鍋島直正(閑叟)の今の姿だった。
直正の体調不良は、その行動を予測しづらくした。その意図を深読みする者も多く、各地の大名から志士までに疑心を起こさせる事になる。
(続く)
○参考記事〔本編〕
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Posted by SR at 21:44 | Comments(0) | 第20話「長崎方控」
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