2023年07月05日
第19話「閑叟上洛」⑱(そがん訳の無かろうもん)
こんばんは。
前回は、佐賀城下に帰ってきた江藤新平を描きましたが、今回の場面は江戸(東京)に移ります。
急に江戸に響く“佐賀”なまりの言葉。現在では佐賀県の、唐津生まれの人物の気持ちを語ったものです。

1862年(文久二年)秋。少し前に、薩摩藩が東海道で起こした「生麦事件」は大きな波風を立てていました。
〔参照(中盤):第19話「閑叟上洛」⑬(東海道から流れる噂)〕
――江戸城中。幕府を支える官僚が集まる詰所。
その日も、唐津藩から江戸幕府の中枢に入った藩主名代(代理)・小笠原長行が数名の若い官僚と集まっていた。
「小笠原さま。お聞きになられましたか。薩摩の申し開きを!」
如何にも頭の良さそうな官僚の1人が声を張る。明らかに怒っている表情だ。
「…うむ。おかしな事を言うものだ。」
江戸に来るなり、要職の奏者番から若年寄、老中格へと、どんどんどん…と出世をする小笠原長行。
西洋の事情にも通じ、将軍・徳川家茂への忠誠心も高いので、幕閣の中でも見込まれている。
〔参照:第17話「佐賀脱藩」⑤(若き“将軍”への視線)〕

――もはや責任のある立場なので、軽率なことは言えないが、
行列を横切ったイギリス人を薩摩藩が殺傷した「生麦事件」。江戸期、日本の常識では“無礼討ち”で当然の場面とも言えるが、既に外交問題化していた。
当然に幕府も、そのまま振り向かずに京へと進む薩摩藩の一団に、現場の状況を確認する使者を派遣する。
「なにゆえ、英国人に斬りつけたのか。」
「わかりもはん。」
「わからぬとは、如何なることか!」
「たしかに、薩摩の者には違いもはん。じゃっどん、藩を抜けて行方知れずの足軽が勝手に英国人に斬りつけ、逃げ去ったのでごわす。」
おおむね薩摩の返答はこのようだったという。国父・島津久光が率いる一団で、幕政改革に踏み込んだ帰路に、異国と衝突する原因を作ってしまった。
国内外に都合の悪い状況があるため、薩摩としては絶対に非を認めるわけにはいかない。
――小笠原自身も、この薩摩の申し開きを知った時には,
さすがに頭に血がのぼって、いきなり故郷の言葉でまくしたてた。
「意味のわからんばい!そがん訳のなかろうもん!」

大名の嫡子は江戸で生まれ育つことも多いが、小笠原長行は唐津生まれだ。当時は年少で藩主になる時機を逸したが、優秀さはいまの立場に表れる。
近くにいた幕府の官僚が、異変に気付き声をかける。
「…小笠原さま。いかがなさいましたか。」
「うむ、何でもない。唐津生まれの気性とでも思うとよい。」
「玄界灘に面した、少々荒い土地柄でな。ははは…済まぬの」
小笠原には、若き将軍・家茂を守りたいという熱い気持ちは見えるが、師匠・古賀侗庵ゆずりの開明的な思考の持ち主だ。
「…左様に、ございましたか。」
官僚たちには、小笠原長行は冷静で理知的な印象だったのか、意外に豪胆な一面が見えて、やや驚かれている。

なお、幕府の学問所で彼らのような西洋の学問に関心を持つ、新世代の官僚の先生となったのが、佐賀生まれの古賀侗庵という人物。
鍋島直正の師匠だった古賀穀堂の弟にあたる侗庵も、優れた教育者だった。江戸で、幕末期の有能な人材を多数育てており、小笠原もその1人である。
――はたと正気に返った、若い官僚が急ぎ告げる。
「福井の松平春嶽(慶永)さまがお見えです。」
「おお、お待たせしてはならぬな。すぐ、参る。」
前の福井藩主にして、この時、政事総裁職に就いている、松平春嶽。
「小笠原どの。此度の薩摩の申しよう、いかが思う。」
「いかに聞いても、疑わしゅうございますな。」
「儂もそのように思う。このまま島津公を京に行かせて良いものか。」

つい最近、松平春嶽は薩摩の後押しもあって、幕府の重職に就いたのだが、それとこれとは話が別ということだろう。
「それがしも、手を打って見まする。」
「儂も、意見を申し述べるとしよう。」
ちなみに、鍋島直正の妻(継室)・筆姫は、松平春嶽の妹であったが、政治的には佐賀藩と福井藩はとくに連携が取れてはいない。
のちに松平春嶽も、なぜ佐賀藩が動けなかったかを知るが、この時は直正の真意を知るところではない。
――幕閣の意見はまとまらず、薩摩の行列は西へと進む。
幕政の中心で奮闘する、唐津藩・小笠原長行の、江戸での日々。廊下にて、ある人物と出会う。
「小笠原さま。勝にございます。」
声をかけてきたのは、この夏に“軍艦奉行並”に就任した、勝麟太郎(海舟)。
「勝か…、お主の話は聞いておきたいのだがな。」
小笠原は、イギリスを初めとする西洋列強が「生麦事件」の報復に動くことも警戒せねばならず、とにかく忙しい。
海軍の事情に詳しい、勝の話を聞く値打ちはあるのだが、幾分、時間がない。

「刻(とき)は、取らせやせん。」
勝は、手短かに話すと告げた。この男、まるで江戸の市井にいる、町衆のような言葉遣いをすることもある。
――大抜擢されて今の地位にいる、異色の幕府役人。
勝麟太郎(海舟)は、長崎での海軍伝習にも参加し、咸臨丸に乗って太平洋横断も経験している。
「次の用向きも控えておるが、少しならば聞こう。」
「京から来られる、姉小路卿のことを、お耳に入れておきてえもので。」
「姉小路さまは御自ら、台場を見聞してえと仰せです。」
「ほう、京から来られる御方にしては、珍しかな。」
江戸沿海(東京湾)の警備の要、品川台場。姉小路という公家は、海防の拠点である砲台を見たいのだという。

――第一線の現場を見たいとは、普通の公家の考え方ではない。
京の公家といえば古式ゆかしい思想や儀礼を重んじて、攘夷(異国打払)を叫んでも、現実離れした精神論に流れる傾向がある。
「せっかくなんで“海防”の足らねえところも、余すところなくお見せしようかと。」
「お主らしく、抜かりの無い。姉小路卿の威光を上手く使うつもりだな。」
「へえ。またとねえ好機ですんで。」
勝の表情には、不敵な笑みが隠れている。この男の真意もわかりづらいが、有力公家は巻き込む価値がある…と考える理屈はわかる。
だが、小笠原から見ても、学識以上に要領の良さが見えるこの人物が、いまの幕府には、役立ちそうだと見てとれた。
そして、この勝麟太郎もまた、小笠原にとって大切な上様である将軍・家茂を盛り立てるためには、“同志”と見て良さそうだ。

――ここで勝は、少し怪訝な顔をした。
「一つ、腑(ふ)に落ちねえところがあるんです。」
「何だ、申してみよ。」
勝には人を惹きつける話術があるようだ。多忙な小笠原も興味は尽きない。
「お公家さまが攘夷と仰せはともかく、なんで実際に見てえと思ったかです。」
「何故だろうな。京の取り巻きにも、海の向こうを解する者がおったか。」
「薩摩とは関わりねぇでしょうし、長州、あるいは土佐…」
「諸国から京に集うのは、考え無しに異国打払いを叫ぶ者が多いと聞くぞ。」
「…まさか、佐賀ってことは無えでしょうな。」
勝麟太郎は、長崎で海軍伝習に参加していた時期がある。執念を感じるほどに学ぶ佐賀藩士の一団を見ていた。
〔参照(中盤):第12話「海軍伝習」⑩-2(負けんばい!・後編)〕
――小笠原は、次第に遠く感じ始めた、西の方を見遣る。
「佐賀か。わが唐津の隣国ではあるが、あの国は良くわからぬ。」
「肥前老侯(鍋島直正)、どう動くか。油断ならねえです。」
「佐賀は力のある国だ…ただ、思惑がわからんのだ。」

もちろん、幕府の政治の中枢にいた小笠原長行も、海軍の発展に賭けていた勝海舟(麟太郎)も、ある佐賀藩士が脱藩して京にいた事など知る由もない。
ましてや、有力公家・姉小路公知のもとで、活動した者がいる事など伝わるはずもないのだ。
〔参照:第18話「京都見聞」⑲(“蒸気”の目覚め)〕
文久二年秋。のち明治の世に勝海舟が“驚いた傑物”と評したという江藤新平は、京より戻って、佐賀城下の片隅に籠もっていたのである。
(続く)
前回は、佐賀城下に帰ってきた江藤新平を描きましたが、今回の場面は江戸(東京)に移ります。
急に江戸に響く“佐賀”なまりの言葉。現在では佐賀県の、唐津生まれの人物の気持ちを語ったものです。
1862年(文久二年)秋。少し前に、薩摩藩が東海道で起こした「生麦事件」は大きな波風を立てていました。
〔参照(中盤):
――江戸城中。幕府を支える官僚が集まる詰所。
その日も、唐津藩から江戸幕府の中枢に入った藩主名代(代理)・小笠原長行が数名の若い官僚と集まっていた。
「小笠原さま。お聞きになられましたか。薩摩の申し開きを!」
如何にも頭の良さそうな官僚の1人が声を張る。明らかに怒っている表情だ。
「…うむ。おかしな事を言うものだ。」
江戸に来るなり、要職の奏者番から若年寄、老中格へと、どんどんどん…と出世をする小笠原長行。
西洋の事情にも通じ、将軍・徳川家茂への忠誠心も高いので、幕閣の中でも見込まれている。
〔参照:
――もはや責任のある立場なので、軽率なことは言えないが、
行列を横切ったイギリス人を薩摩藩が殺傷した「生麦事件」。江戸期、日本の常識では“無礼討ち”で当然の場面とも言えるが、既に外交問題化していた。
当然に幕府も、そのまま振り向かずに京へと進む薩摩藩の一団に、現場の状況を確認する使者を派遣する。
「なにゆえ、英国人に斬りつけたのか。」
「わかりもはん。」
「わからぬとは、如何なることか!」
「たしかに、薩摩の者には違いもはん。じゃっどん、藩を抜けて行方知れずの足軽が勝手に英国人に斬りつけ、逃げ去ったのでごわす。」
おおむね薩摩の返答はこのようだったという。国父・島津久光が率いる一団で、幕政改革に踏み込んだ帰路に、異国と衝突する原因を作ってしまった。
国内外に都合の悪い状況があるため、薩摩としては絶対に非を認めるわけにはいかない。
――小笠原自身も、この薩摩の申し開きを知った時には,
さすがに頭に血がのぼって、いきなり故郷の言葉でまくしたてた。
「意味のわからんばい!そがん訳のなかろうもん!」
大名の嫡子は江戸で生まれ育つことも多いが、小笠原長行は唐津生まれだ。当時は年少で藩主になる時機を逸したが、優秀さはいまの立場に表れる。
近くにいた幕府の官僚が、異変に気付き声をかける。
「…小笠原さま。いかがなさいましたか。」
「うむ、何でもない。唐津生まれの気性とでも思うとよい。」
「玄界灘に面した、少々荒い土地柄でな。ははは…済まぬの」
小笠原には、若き将軍・家茂を守りたいという熱い気持ちは見えるが、師匠・古賀侗庵ゆずりの開明的な思考の持ち主だ。
「…左様に、ございましたか。」
官僚たちには、小笠原長行は冷静で理知的な印象だったのか、意外に豪胆な一面が見えて、やや驚かれている。
なお、幕府の学問所で彼らのような西洋の学問に関心を持つ、新世代の官僚の先生となったのが、佐賀生まれの古賀侗庵という人物。
鍋島直正の師匠だった古賀穀堂の弟にあたる侗庵も、優れた教育者だった。江戸で、幕末期の有能な人材を多数育てており、小笠原もその1人である。
――はたと正気に返った、若い官僚が急ぎ告げる。
「福井の松平春嶽(慶永)さまがお見えです。」
「おお、お待たせしてはならぬな。すぐ、参る。」
前の福井藩主にして、この時、政事総裁職に就いている、松平春嶽。
「小笠原どの。此度の薩摩の申しよう、いかが思う。」
「いかに聞いても、疑わしゅうございますな。」
「儂もそのように思う。このまま島津公を京に行かせて良いものか。」
つい最近、松平春嶽は薩摩の後押しもあって、幕府の重職に就いたのだが、それとこれとは話が別ということだろう。
「それがしも、手を打って見まする。」
「儂も、意見を申し述べるとしよう。」
ちなみに、鍋島直正の妻(継室)・筆姫は、松平春嶽の妹であったが、政治的には佐賀藩と福井藩はとくに連携が取れてはいない。
のちに松平春嶽も、なぜ佐賀藩が動けなかったかを知るが、この時は直正の真意を知るところではない。
――幕閣の意見はまとまらず、薩摩の行列は西へと進む。
幕政の中心で奮闘する、唐津藩・小笠原長行の、江戸での日々。廊下にて、ある人物と出会う。
「小笠原さま。勝にございます。」
声をかけてきたのは、この夏に“軍艦奉行並”に就任した、勝麟太郎(海舟)。
「勝か…、お主の話は聞いておきたいのだがな。」
小笠原は、イギリスを初めとする西洋列強が「生麦事件」の報復に動くことも警戒せねばならず、とにかく忙しい。
海軍の事情に詳しい、勝の話を聞く値打ちはあるのだが、幾分、時間がない。
「刻(とき)は、取らせやせん。」
勝は、手短かに話すと告げた。この男、まるで江戸の市井にいる、町衆のような言葉遣いをすることもある。
――大抜擢されて今の地位にいる、異色の幕府役人。
勝麟太郎(海舟)は、長崎での海軍伝習にも参加し、咸臨丸に乗って太平洋横断も経験している。
「次の用向きも控えておるが、少しならば聞こう。」
「京から来られる、姉小路卿のことを、お耳に入れておきてえもので。」
「姉小路さまは御自ら、台場を見聞してえと仰せです。」
「ほう、京から来られる御方にしては、珍しかな。」
江戸沿海(東京湾)の警備の要、品川台場。姉小路という公家は、海防の拠点である砲台を見たいのだという。

――第一線の現場を見たいとは、普通の公家の考え方ではない。
京の公家といえば古式ゆかしい思想や儀礼を重んじて、攘夷(異国打払)を叫んでも、現実離れした精神論に流れる傾向がある。
「せっかくなんで“海防”の足らねえところも、余すところなくお見せしようかと。」
「お主らしく、抜かりの無い。姉小路卿の威光を上手く使うつもりだな。」
「へえ。またとねえ好機ですんで。」
勝の表情には、不敵な笑みが隠れている。この男の真意もわかりづらいが、有力公家は巻き込む価値がある…と考える理屈はわかる。
だが、小笠原から見ても、学識以上に要領の良さが見えるこの人物が、いまの幕府には、役立ちそうだと見てとれた。
そして、この勝麟太郎もまた、小笠原にとって大切な上様である将軍・家茂を盛り立てるためには、“同志”と見て良さそうだ。
――ここで勝は、少し怪訝な顔をした。
「一つ、腑(ふ)に落ちねえところがあるんです。」
「何だ、申してみよ。」
勝には人を惹きつける話術があるようだ。多忙な小笠原も興味は尽きない。
「お公家さまが攘夷と仰せはともかく、なんで実際に見てえと思ったかです。」
「何故だろうな。京の取り巻きにも、海の向こうを解する者がおったか。」
「薩摩とは関わりねぇでしょうし、長州、あるいは土佐…」
「諸国から京に集うのは、考え無しに異国打払いを叫ぶ者が多いと聞くぞ。」
「…まさか、佐賀ってことは無えでしょうな。」
勝麟太郎は、長崎で海軍伝習に参加していた時期がある。執念を感じるほどに学ぶ佐賀藩士の一団を見ていた。
〔参照(中盤):
――小笠原は、次第に遠く感じ始めた、西の方を見遣る。
「佐賀か。わが唐津の隣国ではあるが、あの国は良くわからぬ。」
「肥前老侯(鍋島直正)、どう動くか。油断ならねえです。」
「佐賀は力のある国だ…ただ、思惑がわからんのだ。」
もちろん、幕府の政治の中枢にいた小笠原長行も、海軍の発展に賭けていた勝海舟(麟太郎)も、ある佐賀藩士が脱藩して京にいた事など知る由もない。
ましてや、有力公家・姉小路公知のもとで、活動した者がいる事など伝わるはずもないのだ。
〔参照:
文久二年秋。のち明治の世に勝海舟が“驚いた傑物”と評したという江藤新平は、京より戻って、佐賀城下の片隅に籠もっていたのである。
(続く)
Posted by SR at 22:40 | Comments(0) | 第19話「閑叟上洛」
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。