2022年10月16日
連続ブログ小説「聖地の剣」(20)雨あがる帰路に
こんばんは。
その時はたたきつける雨音が聞こえ、陽の光もしばし途切れたような荒天に。
佐賀城内の本丸歴史館で一休みし、詰めた行程で動き続けた疲れを取りながら、雨の様子を伺っていました。
――夏に入る前。わずかな時間の“帰藩”だが、
ここまで、佐賀の天気には味方されてきた。この日は、一言でいえば「雨の日」だったが、私は一度も傘を開いていない。
屋内に入れば雨が降り出し、外に出る時には晴れる。不思議と感じるほどに、この展開を繰り返している。
ふだんの私に、晴れを呼ぶ気質は、特に無いと思うので珍しい経験だ。
――佐賀駅への到着から、5時間が経過。
「そのうちに晴れてくる。今日は雨には打たれないだろう。」
このような確信があった。佐賀の空にかかった“意思”を感じるような天候。
本丸歴史館への“御礼”を支払うと、入口の扉にあたる障子をスッと開けてみた。雨の降り方はいたって弱く、しとしとと雨粒が落ちる程度となっていた。

――すでに夕刻も近い、昼下がり。
「この程度の雨ならば、もう屋外で活動できそうだ。」
“本丸御殿”の表へと出ると、その玄関へと振り向いて一礼する。
周囲に水溜まりは随分とあったが、雨は意識せずとも良いぐらいだ。曇り空が陽射しをさえぎり、外気には潤いがあって、過ごしやすい気温となっていた。
――ひとまずの目的は果たした。ここからは、帰路なのだろう。
佐賀城で、当時のまま形を留める建物といえば「鯱の門」。立派な門構えは、幕末から現存する。
歴史番組の映像では、かつて教科書で学んだ「佐賀の乱」という言葉とともに、この門が紹介されるイメージだ。実は複雑な心境になる場所でもある。
先入観なく見れば、とても風格のある門で見応えがある、そこから外界を望む。どことなく、現実に戻っていく帰り道という感覚になる。

――「士族反乱」の1つとして語られてきた、
明治七年(1874年)の出来事は、「佐賀の乱」と表現するのが一般的だ。
一方で、明治新政府の出兵という事実だけを語り、「佐賀の役」(佐賀戦役)と表す例も見かける。佐賀城内の碑文は、たしか、この表現だったと記憶する。
最近では「佐賀戦争」という呼称もある。この表現は「佐賀士族に反乱の意図はなく、新政府からの攻撃に対する応戦だった」という見解と結びつくようだ。
開明的な佐賀藩より出て、明治初期には旧来の幕府の仕組みを理解しながら、近代的な法制度を築くなど、すさまじい実務能力で活躍した江藤新平。
――近代国家の基礎を築いた、佐賀藩士。
江藤は、新時代の制度を組み立てるため、江戸開城に立ち会った時点から、猛然と城内の書類を集めたそうだ。
新国家の運営を考え、まず、立法・行政・司法の連続性を確保したのだろう。
他にそんな行動を取った人物は聞かない。城内の資金、武器、食料ぐらいに目がいくのが普通の状況で、次の時代の組み立てまで見据えた者がいた。
――こうした江藤の活躍は“裏方“として行われた。
その存在は、明治新政府にとっては幸いだったが、混乱に収拾が付いてくると、真っ直ぐな気性で、有能に過ぎる人物を疎む者たちが多く現れたようだ。
先ほどの出来事により、その活躍は“反逆者”の色に塗り替えられてしまった。この事が、後世の佐賀県に与えた影響はかなり大きいと考えている。
例えば、若き日の私も、故郷の英雄に誇りを持つことができず、ただ教科書に載っていた通りの“不平士族のリーダー”として、その名を暗記していた。

――少し背筋を伸ばして、その門をくぐる。
明治期の佐賀藩士たちはそれほど目立っていないが、基礎から作り上げる必要があった、新政府には不可欠だった実務能力を持ち合わせていた。
また、有能な幕臣たちが新政府に合流する道筋も、政治的に中立寄りで幕府とも敵対して来なかった、佐賀藩の出身者が作っていることが多いと考える。
何だか奥ゆかしい気質らしく、自分の功績を大きく語らない。こうして佐賀の人たちの業績は、実現した結果だけが教科書に載っている。
――でも、なるべく上を向いて…
私は頑張った“先輩”たちが、いまいち知られていない状況をもどかしく感じることがある。それを偉そうに語るが、私も数年前まで「知らない側」だったのだ。
鯱の門を内側から見上げる。「今は勝たずともよい、負けないように」頑張っていこう…と思い定めた。
私に力は無くとも、同じところを叩き続ければ、そのうちに効くこともあり得る。その積み重ねが「佐賀への道」を開くのかもしれない。
“聖地の門”をくぐり、佐賀城公園内に出てきた私は、何やら現代に還ってきたような気分を感じていた。
(続く)
その時はたたきつける雨音が聞こえ、陽の光もしばし途切れたような荒天に。
佐賀城内の本丸歴史館で一休みし、詰めた行程で動き続けた疲れを取りながら、雨の様子を伺っていました。
――夏に入る前。わずかな時間の“帰藩”だが、
ここまで、佐賀の天気には味方されてきた。この日は、一言でいえば「雨の日」だったが、私は一度も傘を開いていない。
屋内に入れば雨が降り出し、外に出る時には晴れる。不思議と感じるほどに、この展開を繰り返している。
ふだんの私に、晴れを呼ぶ気質は、特に無いと思うので珍しい経験だ。
――佐賀駅への到着から、5時間が経過。
「そのうちに晴れてくる。今日は雨には打たれないだろう。」
このような確信があった。佐賀の空にかかった“意思”を感じるような天候。
本丸歴史館への“御礼”を支払うと、入口の扉にあたる障子をスッと開けてみた。雨の降り方はいたって弱く、しとしとと雨粒が落ちる程度となっていた。
――すでに夕刻も近い、昼下がり。
「この程度の雨ならば、もう屋外で活動できそうだ。」
“本丸御殿”の表へと出ると、その玄関へと振り向いて一礼する。
周囲に水溜まりは随分とあったが、雨は意識せずとも良いぐらいだ。曇り空が陽射しをさえぎり、外気には潤いがあって、過ごしやすい気温となっていた。
――ひとまずの目的は果たした。ここからは、帰路なのだろう。
佐賀城で、当時のまま形を留める建物といえば「鯱の門」。立派な門構えは、幕末から現存する。
歴史番組の映像では、かつて教科書で学んだ「佐賀の乱」という言葉とともに、この門が紹介されるイメージだ。実は複雑な心境になる場所でもある。
先入観なく見れば、とても風格のある門で見応えがある、そこから外界を望む。どことなく、現実に戻っていく帰り道という感覚になる。
――「士族反乱」の1つとして語られてきた、
明治七年(1874年)の出来事は、「佐賀の乱」と表現するのが一般的だ。
一方で、明治新政府の出兵という事実だけを語り、「佐賀の役」(佐賀戦役)と表す例も見かける。佐賀城内の碑文は、たしか、この表現だったと記憶する。
最近では「佐賀戦争」という呼称もある。この表現は「佐賀士族に反乱の意図はなく、新政府からの攻撃に対する応戦だった」という見解と結びつくようだ。
開明的な佐賀藩より出て、明治初期には旧来の幕府の仕組みを理解しながら、近代的な法制度を築くなど、すさまじい実務能力で活躍した江藤新平。
――近代国家の基礎を築いた、佐賀藩士。
江藤は、新時代の制度を組み立てるため、江戸開城に立ち会った時点から、猛然と城内の書類を集めたそうだ。
新国家の運営を考え、まず、立法・行政・司法の連続性を確保したのだろう。
他にそんな行動を取った人物は聞かない。城内の資金、武器、食料ぐらいに目がいくのが普通の状況で、次の時代の組み立てまで見据えた者がいた。
――こうした江藤の活躍は“裏方“として行われた。
その存在は、明治新政府にとっては幸いだったが、混乱に収拾が付いてくると、真っ直ぐな気性で、有能に過ぎる人物を疎む者たちが多く現れたようだ。
先ほどの出来事により、その活躍は“反逆者”の色に塗り替えられてしまった。この事が、後世の佐賀県に与えた影響はかなり大きいと考えている。
例えば、若き日の私も、故郷の英雄に誇りを持つことができず、ただ教科書に載っていた通りの“不平士族のリーダー”として、その名を暗記していた。
――少し背筋を伸ばして、その門をくぐる。
明治期の佐賀藩士たちはそれほど目立っていないが、基礎から作り上げる必要があった、新政府には不可欠だった実務能力を持ち合わせていた。
また、有能な幕臣たちが新政府に合流する道筋も、政治的に中立寄りで幕府とも敵対して来なかった、佐賀藩の出身者が作っていることが多いと考える。
何だか奥ゆかしい気質らしく、自分の功績を大きく語らない。こうして佐賀の人たちの業績は、実現した結果だけが教科書に載っている。
――でも、なるべく上を向いて…
私は頑張った“先輩”たちが、いまいち知られていない状況をもどかしく感じることがある。それを偉そうに語るが、私も数年前まで「知らない側」だったのだ。
鯱の門を内側から見上げる。「今は勝たずともよい、負けないように」頑張っていこう…と思い定めた。
私に力は無くとも、同じところを叩き続ければ、そのうちに効くこともあり得る。その積み重ねが「佐賀への道」を開くのかもしれない。
“聖地の門”をくぐり、佐賀城公園内に出てきた私は、何やら現代に還ってきたような気分を感じていた。
(続く)