2024年04月13日

「小休止その3、重たい一日」

こんばんは。今回の記事、予定では“本編”に戻るつもりでした。

ところが少し前に、本日(2024年4月13日)が歴史上、とても“重たい日”であることに気付きました。

年表で確認する限り、幕末・明治期で活躍した、佐賀の誇る“七賢人”のうち、江藤新平島義勇が、その生涯を終えた日から150年

「小休止その3、重たい一日」
島義勇

――このような、ブログを書いていますので、

私を、ある程度は佐賀の歴史に詳しい人と思う方もいるかもしれませんが、実のところ、その蓄積は乏しく、“新参者”と言ってよい履歴です。

その歴史の“真価”に気付いてから、まだ5年ほど年表などを見返しては、「えっ!?」と気付くことも、よくあります。

しかも、佐賀県に住んでおらず、都市圏での日々の生活に追い回されており、よほどタイミングが合わない限り、現地を見直すこともできません。

また、“本編”を書き進むためには、年代ごと調べ物をしますから、明治七年(1874年)辺りの知識は、まだ、かなり浅いのです。


――先ほど、思い立って“佐賀の役”について文章を作ってみたものの、

勢いよく書いたので、ものすごく長文となり、結論もまとまっていない下書きは出来ましたが、まだ、記事に採用せずにおこうと思いました。

内容としては、「佐賀の役」の新しい見方を考えるもの。

「小休止その3、重たい一日」
江藤新平

――この“出来事”をどう呼ぶかさえも、議論があるところで…

従来は「佐賀の乱」と呼ばれてきましたが、自衛戦争という意味で「佐賀戦争」、新政府出兵の観点から「佐賀の役」(佐賀戦役)という表記もあります。

個人的には、新政府の出兵(計画・工作段階を含む)→佐賀士族の応戦だと考えているため、少なくとも反乱扱いの従来の呼称は却下したいと思います。


――書こうとすれば、整理が必要そうな項目も多いです。

明治新政府が出兵を進める時系列の整理や、佐賀士族応戦を決めた時の状況、それは、単に“捨て身”の行動だったのか、何か勝ち筋があったのか…

佐賀藩の出身者で戦った者と、戦わなかった者のそれぞれの想い。

そして、絶望的な結末の中で、いったい何を守ることができたのか。


――やっぱり、“物語が足らない”。

説明的に言えば「新政府の佐賀出兵に伴う武力衝突」という印象ですが、どう語るべきかは、とても難易度が高いと感じます。

ところで、私が書いている“本編”は、まだ文久二年(1862年)の終盤を行ったり来たりです。

これから、12年分の“物語”を積んでいけば、求める答えにたどり付くのか…それもわかりません。

いまの私では、書きたい物語には、到底届かないでしょう。“重たい一日”に、今後も考え続けねばならないテーマを、あらためて示された気がしています。








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Posted by SR at 23:52 | Comments(2) | 企画案・雑記帳
この記事へのコメント
SRさま
おはようございます。
昨日の佐賀新聞の有明抄でも没後150年のことが書いてありましたね。佐賀戦争について「県外の人には、明治政府に逆らった佐賀の乱の首謀者というイメージが強いが「大久保にはめられた感が強い」とも書いてありました。
また、万部島公園での慰霊祭には埼玉県春日部市在住の江藤氏の玄孫の女性が出席され、子孫の親族の中には2人の弁護士の方がおられると話されたとのことでした。
没後150年のこの年に大きくクローズアップされていますが、もっと多くの方に江藤、島両氏の功績を知ってもらいたいと思います。
長文失礼いたしました。
Posted by 多良岳に寝ころぶイノシシ多良岳に寝ころぶイノシシ at 2024年04月14日 06:19
多良岳に寝ころぶイノシシ様
コメントありがとうございます。この“重たい一日”に、現地・佐賀で、どのくらい反応があったか気になっていました。やはり、新聞等でも特集されていたのですね。
個人的に経過を調べると、熊本にあった鎮台や、佐賀の県庁の反応も「なぜ出兵する?」だったそうですし、なぜか隣県・福岡から発信された怪電報…など疑わしいところばかり。もはや、佐賀で“反乱の首謀者”を語る意味は無さそうで、新政府の“出兵の黒幕”を調査した方が良い局面だと考えています。
…とはいえ、仰るように江藤新平や島義勇が、どのように熱く生きていたかを伝える方が大事ですよね。佐賀の先人たちは、色々なことを学ばせてくれます。
Posted by SRSR at 2024年04月14日 14:58
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