2020年10月26日
第14話「遣米使節」⑬(アメリカに行きたいか!)
こんばんは。
前回、鍋島直正の写真を撮影していた佐賀藩医・川崎道民。殿から出し抜けにアメリカ行きを提案される場面を描きました。
今回の投稿は、様々な場所で佐賀藩士たちの運命が動いていきます。日本における“英学の夜明け”という時期でしょうか。
――江戸。殿・直正から海外渡航の勧めを受けた、川崎道民。
「メリケン(アメリカ)に、ございますか!?」
「そうじゃ。医術や文物を見聞いたせ。お主なら“写真術”も遣える。」
この頃、幕府は“日米修好通商条約”の批准書を交換するため、アメリカに使節派遣を予定している。
日本の近代外交の扉は開いた。佐賀藩には、この機会に優秀な人物を海外に送り込み、西洋の事情を探ろうという意図があった。
「川崎は、腕の良い医者であるからな。同行すれば、皆も安心であろう。」
「皆…!?佐賀から、幾人もメリケンに行くのでございますか?」

――医者の髪型に、よくある坊主頭。川崎は、目を丸くして殿・直正に問う。
「無論じゃ。川崎よ、皆を頼むぞ。」
この使節団には、佐賀藩士8名が参加することになった。
川崎は、地元である“須古”の領主・鍋島安房の言葉を想い出した。恩義あるご領主からも「広く世を見聞せよ」と期待をされているのだ。
「この川崎、メリケンの進んだ技術を得られる限り、得て参ります。」
「…はっはっは。良い心意気じゃ。」
――川崎の反応は、直正の予想を上回るほど“前のめり”だった。
「仕度金は、百両でよいか。抜かりなく用意を致せ。」
「はっ!…百両も…!ありがたき幸せ!」
こうして、藩医・川崎道民のアメリカ行きが決まる。幕府の使節団が乗り込むアメリカ海軍の蒸気船に同乗することとなった。
船名を“ポーハタン号”という。アメリカのペリーが2度目の来日で乗船し、ハリスとの通商条約の調印場所になった、全長77メートル超の外輪蒸気船である。
――同じ頃、佐賀城下の“火術方”にて。
作業場で、オランダ語の技術書と睨み合う人物がいた。大砲の改良案を練る技術者・秀島藤之助。
〔参照:第14話「遣米使節」⑧(孤高のエンジニア)〕
「秀島さま!お城からのお呼びです!」
いきなり電流が走るような声が通った。
「…何だ!?いきなり大声で。お主はたしか…?」
耳を抑える秀島。よく通る声でツーンと来た様子である。

――声の主は“火術方”に下級役人として採用された、江藤新平。
「秀島さま!その図面は、新しい製砲の試みでござるか。」
江藤は蘭学を学んだので、ある程度、技術者たちの作業が理解できる。
「あぁ、そうだ。たしか江藤と言ったな。そこまで声を通さずとも聞こえている…」
寝る間も惜しみ研究をする、秀島。寝不足には江藤の地声は堪(こた)える。
「急ぎ、城へお向かいください!」
「…相分かった。」
――殿・直正が期待する、技術者・秀島藤之助もアメリカ行きが決定した。
使節を乗せる“ポーハタン号”を護衛するとの名目で、幕府も船を派遣する。
船名を“咸臨丸”という、秀島はそちらに乗船することとなった。
秀島の任務は、主に艦船や大砲などの調査である。
「メリケン(アメリカ)に行けば、進んだ技術をこの目で見られる…」
――そして、1860年1月。舞台は再び、江戸。
江戸湾の品川沖に停泊する2隻の蒸気船が並ぶ。
1隻は、アメリカ海軍の大型外輪蒸気船・“ポーハタン号”。
もう1隻は、幕府がオランダから購入した、スクリュー推進式蒸気船“咸臨丸”
――いよいよ、アメリカへの船出。港には乗船する使節団が集合した。
ここで佐賀の“蘭学寮”の英才が、幕府使節団の“同行者”に話しかけた。
「佐賀の小出千之助と申す。以後、お見知りおきを。」
「…豊前中津の出で、福沢と申します。」
福沢諭吉は、若くして“蘭学”の塾を構えるが、英語も一から学んでいる。
「やはり福沢どのだったか。思いのほか、早くお会いできたようだ。」
「…ご丁寧に恐れ入る。」
やや困惑する福沢。こんな疑念を持った。
「この小出という佐賀の者は、私に会うことを予期していたのか…?」
〔参照(終盤):第14話「遣米使節」①(諭吉よ、何処へ行く)〕

――蘭学寮の英才・小出千之助の任務は英語を修得し、殿・直正に代わり西洋を見聞すること。
福沢は「もはやオランダ語ではなく、英語を学ばねば!」と気付くのも早かった。開港後に発展した“横浜”でオランダ語が通じないショックを味わったのだ。
ほどなく小出千之助・川崎道民らは“ポーハタン号”。福沢諭吉・秀島藤之助らは“咸臨丸”へと分かれた。遠く海の向こうアメリカへ。太平洋への船出である。
(続く)
前回、鍋島直正の写真を撮影していた佐賀藩医・川崎道民。殿から出し抜けにアメリカ行きを提案される場面を描きました。
今回の投稿は、様々な場所で佐賀藩士たちの運命が動いていきます。日本における“英学の夜明け”という時期でしょうか。
――江戸。殿・直正から海外渡航の勧めを受けた、川崎道民。
「メリケン(アメリカ)に、ございますか!?」
「そうじゃ。医術や文物を見聞いたせ。お主なら“写真術”も遣える。」
この頃、幕府は“日米修好通商条約”の批准書を交換するため、アメリカに使節派遣を予定している。
日本の近代外交の扉は開いた。佐賀藩には、この機会に優秀な人物を海外に送り込み、西洋の事情を探ろうという意図があった。
「川崎は、腕の良い医者であるからな。同行すれば、皆も安心であろう。」
「皆…!?佐賀から、幾人もメリケンに行くのでございますか?」

――医者の髪型に、よくある坊主頭。川崎は、目を丸くして殿・直正に問う。
「無論じゃ。川崎よ、皆を頼むぞ。」
この使節団には、佐賀藩士8名が参加することになった。
川崎は、地元である“須古”の領主・鍋島安房の言葉を想い出した。恩義あるご領主からも「広く世を見聞せよ」と期待をされているのだ。
「この川崎、メリケンの進んだ技術を得られる限り、得て参ります。」
「…はっはっは。良い心意気じゃ。」
――川崎の反応は、直正の予想を上回るほど“前のめり”だった。
「仕度金は、百両でよいか。抜かりなく用意を致せ。」
「はっ!…百両も…!ありがたき幸せ!」
こうして、藩医・川崎道民のアメリカ行きが決まる。幕府の使節団が乗り込むアメリカ海軍の蒸気船に同乗することとなった。
船名を“ポーハタン号”という。アメリカのペリーが2度目の来日で乗船し、ハリスとの通商条約の調印場所になった、全長77メートル超の外輪蒸気船である。
――同じ頃、佐賀城下の“火術方”にて。
作業場で、オランダ語の技術書と睨み合う人物がいた。大砲の改良案を練る技術者・秀島藤之助。
〔参照:
「秀島さま!お城からのお呼びです!」
いきなり電流が走るような声が通った。
「…何だ!?いきなり大声で。お主はたしか…?」
耳を抑える秀島。よく通る声でツーンと来た様子である。
――声の主は“火術方”に下級役人として採用された、江藤新平。
「秀島さま!その図面は、新しい製砲の試みでござるか。」
江藤は蘭学を学んだので、ある程度、技術者たちの作業が理解できる。
「あぁ、そうだ。たしか江藤と言ったな。そこまで声を通さずとも聞こえている…」
寝る間も惜しみ研究をする、秀島。寝不足には江藤の地声は堪(こた)える。
「急ぎ、城へお向かいください!」
「…相分かった。」
――殿・直正が期待する、技術者・秀島藤之助もアメリカ行きが決定した。
使節を乗せる“ポーハタン号”を護衛するとの名目で、幕府も船を派遣する。
船名を“咸臨丸”という、秀島はそちらに乗船することとなった。
秀島の任務は、主に艦船や大砲などの調査である。
「メリケン(アメリカ)に行けば、進んだ技術をこの目で見られる…」
――そして、1860年1月。舞台は再び、江戸。
江戸湾の品川沖に停泊する2隻の蒸気船が並ぶ。
1隻は、アメリカ海軍の大型外輪蒸気船・“ポーハタン号”。
もう1隻は、幕府がオランダから購入した、スクリュー推進式蒸気船“咸臨丸”
――いよいよ、アメリカへの船出。港には乗船する使節団が集合した。
ここで佐賀の“蘭学寮”の英才が、幕府使節団の“同行者”に話しかけた。
「佐賀の小出千之助と申す。以後、お見知りおきを。」
「…豊前中津の出で、福沢と申します。」
福沢諭吉は、若くして“蘭学”の塾を構えるが、英語も一から学んでいる。
「やはり福沢どのだったか。思いのほか、早くお会いできたようだ。」
「…ご丁寧に恐れ入る。」
やや困惑する福沢。こんな疑念を持った。
「この小出という佐賀の者は、私に会うことを予期していたのか…?」
〔参照(終盤):

――蘭学寮の英才・小出千之助の任務は英語を修得し、殿・直正に代わり西洋を見聞すること。
福沢は「もはやオランダ語ではなく、英語を学ばねば!」と気付くのも早かった。開港後に発展した“横浜”でオランダ語が通じないショックを味わったのだ。
ほどなく小出千之助・川崎道民らは“ポーハタン号”。福沢諭吉・秀島藤之助らは“咸臨丸”へと分かれた。遠く海の向こうアメリカへ。太平洋への船出である。
(続く)
Posted by SR at 21:51 | Comments(0) | 第14話「遣米使節」
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