2021年08月10日
第16話「攘夷沸騰」⑦(父娘の心配事)
こんばんは。
オリンピックが終わるや、夏の高校野球が始まりましたね。佐賀県の代表として出場した“東明館”…惜しい試合展開だったようですね。
現在の基山町にある東明館高校。学校名は江戸時代、当地にあった“対馬藩 田代領”の藩校に由来するそうです。
佐賀藩ではありませんが、第16話「攘夷沸騰」の展開に深く関わる“田代領”。より進んだ「佐賀の大河ドラマ」を目指すならば、何とか描きたいところです。
では、“本編”に戻ります。いつの世も、身内の心配事は尽きないようでして…
――殿・鍋島直正が、兵庫の港を発つ。
ボォォーッ…
風は弱い様子だ。帆は張らず“汽走”を選択する見通しとなる。蒸気機関による航行に向け、藩士たちが支度(したく)をする。
「与一よ。ここまで来ると、かえって江戸が気になるのう。」
「貢姫さま…にございますか。」
「…相変わらず、察しの良い。持つべきものは“幼なじみ”ということか。」
「畏(おそ)れ多いことにございます。」

――殿様と話すのは、気心の知れた側近・古川与一(松根)。
時折は潮風が通る。京の都を越えて、佐賀へは海路にて帰還する行程だ。
兵庫の港に着くや、殿・直正は愛娘・貢姫に無事を知らせる手紙を書き送る。他家に嫁いだ娘に対して、手紙のやり取りは月に数回の時もあり、頻繁である。
10代のうちに殿様になった直正。当時は佐賀藩の建て直しに忙しく、子にも恵まれなかった。待望の第一子が誕生したのは20代半ば。
…そのためか長女・貢姫への愛情はとりわけ深いのだ。
――手紙には「愛娘を安心させたい…」だけではない、事情もあった。
側近・古川が、殿・直正に問う。
「松平さまのお加減は、如何(いかが)なのでしょうか。」
直正が、眉間にしわを寄せて答える。
「芳しくない…、お貢も、直侯どのの姿さえ見ておらぬようじゃ。」
「与一よ!余は…貢(姫)が心配でならぬ!」
「然(しか)り!この古川も、貢姫さまが案じられてなりませぬ!」
――もう50歳も近い“幼なじみ”主従の2人が立ち上がって語る。
2人には熱を入れて心配する理由があった。殿の愛娘・貢姫は、川越藩(埼玉)の若殿・松平直侯に嫁いでいる。
…養子として、川越藩に入った松平直侯の実家は水戸藩である。
父は“水戸烈公”として有名な徳川斉昭。兄にも“英明”と名高く「次の将軍に!」と推す声も強かった、一橋慶喜がいる。
眩(まばゆ)いばかりに注目される父兄を持ち、川越の松平家に養子に入った、直侯は将来が有望な“貴公子”だった。

――しかし、期待通りにいかない事があるのも、世の常だ。
新しい藩主。とくに他家からの養子ともなれば、何かと“重圧”がかかる。殿様というだけで、無条件に言うことを聞いてもらえるほど、物事は都合良く運ばない。
「お悩みも多かったことでしょう…」
側近・古川が渋い表情で振り返る。若殿だった頃の直正が、重臣たちの反発に苦労していた記憶が過ぎる。
「あの頃は…辛かったのう。きっと直侯どのも苦しかったのじゃ。」
殿・直正も、側近・古川と顔を見合わせて、過去を回想する。
〔参照:第2話「算盤大名」④〕
――譜代大名の名家が入る川越藩。
江戸湾に“お台場”を築いた際にも、川越が第一台場を任された。幕府から厚い信頼がある川越藩主は、幕府の重職に就くのが常だ。
御三家・水戸藩(茨城)から、その川越藩に入り、佐賀の有力大名・鍋島家から正室を迎える。絵に描いたような“貴公子”人生を歩む定めだった、松平直侯。
…しかし、過度の期待を背負うのに適する者ばかりでは無い。
いまや、川越の若殿様は心を病んでしまったようだ。その病状は重篤であり、「部屋からも出て来ない」ほど悪化しているという。
――水戸と佐賀。東西の雄藩のつながりを強めるため…
かつて松平直侯の実家である水戸藩の藤田東湖と、佐賀藩の“団にょん”こと島義勇が尽力した縁談だったが、嫁いだ貢姫は厳しい状況にある。
〔参照:第11話「蝦夷探検」②(江戸の貢姫)〕
「…貢(姫)には、幸せになってほしかった。」
殿・直正は、涙をこらえているのか。うつむいて語る。
「殿…、あきらめてはなりませぬ。」
側近・古川は気を遣って顔を合わせず、殿様を励ますのだった。
(続く)
オリンピックが終わるや、夏の高校野球が始まりましたね。佐賀県の代表として出場した“東明館”…惜しい試合展開だったようですね。
現在の基山町にある東明館高校。学校名は江戸時代、当地にあった“対馬藩 田代領”の藩校に由来するそうです。
佐賀藩ではありませんが、第16話「攘夷沸騰」の展開に深く関わる“田代領”。より進んだ「佐賀の大河ドラマ」を目指すならば、何とか描きたいところです。
では、“本編”に戻ります。いつの世も、身内の心配事は尽きないようでして…
――殿・鍋島直正が、兵庫の港を発つ。
ボォォーッ…
風は弱い様子だ。帆は張らず“汽走”を選択する見通しとなる。蒸気機関による航行に向け、藩士たちが支度(したく)をする。
「与一よ。ここまで来ると、かえって江戸が気になるのう。」
「貢姫さま…にございますか。」
「…相変わらず、察しの良い。持つべきものは“幼なじみ”ということか。」
「畏(おそ)れ多いことにございます。」
――殿様と話すのは、気心の知れた側近・古川与一(松根)。
時折は潮風が通る。京の都を越えて、佐賀へは海路にて帰還する行程だ。
兵庫の港に着くや、殿・直正は愛娘・貢姫に無事を知らせる手紙を書き送る。他家に嫁いだ娘に対して、手紙のやり取りは月に数回の時もあり、頻繁である。
10代のうちに殿様になった直正。当時は佐賀藩の建て直しに忙しく、子にも恵まれなかった。待望の第一子が誕生したのは20代半ば。
…そのためか長女・貢姫への愛情はとりわけ深いのだ。
――手紙には「愛娘を安心させたい…」だけではない、事情もあった。
側近・古川が、殿・直正に問う。
「松平さまのお加減は、如何(いかが)なのでしょうか。」
直正が、眉間にしわを寄せて答える。
「芳しくない…、お貢も、直侯どのの姿さえ見ておらぬようじゃ。」
「与一よ!余は…貢(姫)が心配でならぬ!」
「然(しか)り!この古川も、貢姫さまが案じられてなりませぬ!」
――もう50歳も近い“幼なじみ”主従の2人が立ち上がって語る。
2人には熱を入れて心配する理由があった。殿の愛娘・貢姫は、川越藩(埼玉)の若殿・松平直侯に嫁いでいる。
…養子として、川越藩に入った松平直侯の実家は水戸藩である。
父は“水戸烈公”として有名な徳川斉昭。兄にも“英明”と名高く「次の将軍に!」と推す声も強かった、一橋慶喜がいる。
眩(まばゆ)いばかりに注目される父兄を持ち、川越の松平家に養子に入った、直侯は将来が有望な“貴公子”だった。

――しかし、期待通りにいかない事があるのも、世の常だ。
新しい藩主。とくに他家からの養子ともなれば、何かと“重圧”がかかる。殿様というだけで、無条件に言うことを聞いてもらえるほど、物事は都合良く運ばない。
「お悩みも多かったことでしょう…」
側近・古川が渋い表情で振り返る。若殿だった頃の直正が、重臣たちの反発に苦労していた記憶が過ぎる。
「あの頃は…辛かったのう。きっと直侯どのも苦しかったのじゃ。」
殿・直正も、側近・古川と顔を見合わせて、過去を回想する。
〔参照:
――譜代大名の名家が入る川越藩。
江戸湾に“お台場”を築いた際にも、川越が第一台場を任された。幕府から厚い信頼がある川越藩主は、幕府の重職に就くのが常だ。
御三家・水戸藩(茨城)から、その川越藩に入り、佐賀の有力大名・鍋島家から正室を迎える。絵に描いたような“貴公子”人生を歩む定めだった、松平直侯。
…しかし、過度の期待を背負うのに適する者ばかりでは無い。
いまや、川越の若殿様は心を病んでしまったようだ。その病状は重篤であり、「部屋からも出て来ない」ほど悪化しているという。
――水戸と佐賀。東西の雄藩のつながりを強めるため…
かつて松平直侯の実家である水戸藩の藤田東湖と、佐賀藩の“団にょん”こと島義勇が尽力した縁談だったが、嫁いだ貢姫は厳しい状況にある。
〔参照:
「…貢(姫)には、幸せになってほしかった。」
殿・直正は、涙をこらえているのか。うつむいて語る。
「殿…、あきらめてはなりませぬ。」
側近・古川は気を遣って顔を合わせず、殿様を励ますのだった。
(続く)