2023年04月05日
第19話「閑叟上洛」⑥(兄の語る言葉は)
こんばんは。
第19話の序盤には、初秋の京都で江藤新平の話を進めましたが、ここ数回は少し時を遡り、夏が過ぎゆく頃の佐賀城下を舞台として展開しています。
文久二年(1862年)八月。佐賀の志士にとって大きい出来事がありました。
楠木正成・正行父子を崇敬し、尊王を志す者が集った“義祭同盟”。主宰者の枝吉神陽は、若き志士たちを導くリーダーであり、偉大な師匠でした。

この数年後、日本の新時代には、佐賀の志士たちは近代国家の基礎づくりに活躍しますが、中心にいたはずの枝吉神陽の姿は、そこに無かったのです。
――佐賀城下も、夏の終わりを迎えていた。
「副島先生は、居られんですか。」
ある男が秘密裡に、副島種臣のもとを訪ねていた。居宅からは返事がない。
前回も登場した、京から戻った“脱藩者”・祇園太郎である。所用があるとして、藩の重臣・鍋島夏雲の役宅から、そそくさと退出してきた。
出身は小城(支藩)だが、一度は勝手に佐賀を抜けた者。脱藩者と知れれば危うい立場のはずだが、水路の走る小径を抜けて、平然と城下を歩む。

普通ならば、もちろん佐賀城下に入っては来られない身の上だ。
ところが、この“祇園太郎”と名乗る男は、何か特別扱いの理由でもあるのか、「帰ってきたとよ~」とばかりに、時折、佐賀の街に現れる。
――もう一度、大声を出す“祇園太郎”。
「副島先生は、居られんね~」
どうしても話をしたい相手がいたとしても、脱藩者のわりに声が大きすぎる。
「そがんに…声を張らずとも、ここに居る。」
なぜか副島種臣は、薄暗い物影にたたずんでいた。
「…驚かさんでください、副島先生。そこで何をしよるですか。」
いざ話しかけられると驚く、祇園太郎。

まるで“密偵”のように情報は集めるが、“忍び”のような特殊な訓練は受けていないようで、庭先にいた副島の気配には、全く気付いていなかった。
「副島先生、このたびは…」
すると祇園太郎はお悔やみの言葉を述べ始めた。副島は黙って聞いており、その反応も生気に欠ける印象だ。
――副島種臣、もともとの名は、枝吉次郎。
幕末期、著名な国学者として各地で名を知られた、枝吉神陽は実兄である。
「お力落としの無きよう…」
祇園太郎は、そう言葉を続けるが、副島の表情があまりに暗いので、次第に心配になってきた。
「副島先生、失礼を承知で言いますばい。元気ば出さんね!」
いきなり、話しぶりが切り替わった。元は小城の大庄屋としても、才覚を見せた祇園太郎だ。なかなか面倒見の良いところがある。

「偉大な神陽先生の志ば、継ぐっとは副島先生しかおらんです。」
今度は、激励の気持ちを投げかける。常日頃、尊王攘夷派の志士と交流しているので、勢いが強めである。
そして、祇園太郎も上方(京周辺)に居たときは、無理に当地の言葉を真似ていたが、佐賀ことばに戻ると訛(なま)りが非常に強い。
――文久二年八月。枝吉神陽は、流行(はやり)病により世を去った。
言葉にすればこれだけだが、佐賀の志士たち、ましてや実弟の副島にとって、その衝撃は計り知れない。
「継げるものか。私が正しいのは、ただ兄上の言葉の写しを語る時だけだ。」
副島は、憔悴(しょうすい)していた。
「私は兄上とは違う。もはや、“先生”と呼ばれるほどの者でもない。」

近年、志を持って、事を起こしても失敗ばかりが続く。
〔参照:第15話「江戸動乱」⑩(いざゆけ!次郎)〕
それどころか、救いたかった仲間も助けられない。
〔参照(終盤):第17話「佐賀脱藩」⑰(救おうとする者たち)〕
副島が感じていたのは、己の非力さ、無力さだった。
――「なんば、言いよっとね!」と、祇園太郎は言い放った。
「副島先生は、皆に慕われとるばい。おいは“先生”と呼び続けるけんね。」
安政五年(1858年)、当時、小城の大庄屋だった古賀利渉という人物は、“祇園太郎”と名乗って脱藩した。
同年に副島種臣は学究のために京に居り、公家たちと関わったが、この時も、佐賀藩兵の京への派遣を打診して、謹慎処分を受ける始末となっている。
「…もう、私には、期待をするな。」
常に進むべき道を示してくれる実兄・枝吉神陽という“羅針盤”を失い、途方に暮れる副島種臣。闇夜を歩むような日々が続く。

「おいは、これから長崎に行くけん。副島先生も近いうちにどうね?」
ここで祇園太郎の勧めた長崎行き、実は“新しい世”への入口となる場所だったが、そこに副島がたどり着くまでには、今しばらく時がかかるようである。
(続く)
第19話の序盤には、初秋の京都で江藤新平の話を進めましたが、ここ数回は少し時を遡り、夏が過ぎゆく頃の佐賀城下を舞台として展開しています。
文久二年(1862年)八月。佐賀の志士にとって大きい出来事がありました。
楠木正成・正行父子を崇敬し、尊王を志す者が集った“義祭同盟”。主宰者の枝吉神陽は、若き志士たちを導くリーダーであり、偉大な師匠でした。
この数年後、日本の新時代には、佐賀の志士たちは近代国家の基礎づくりに活躍しますが、中心にいたはずの枝吉神陽の姿は、そこに無かったのです。
――佐賀城下も、夏の終わりを迎えていた。
「副島先生は、居られんですか。」
ある男が秘密裡に、副島種臣のもとを訪ねていた。居宅からは返事がない。
前回も登場した、京から戻った“脱藩者”・祇園太郎である。所用があるとして、藩の重臣・鍋島夏雲の役宅から、そそくさと退出してきた。
出身は小城(支藩)だが、一度は勝手に佐賀を抜けた者。脱藩者と知れれば危うい立場のはずだが、水路の走る小径を抜けて、平然と城下を歩む。
普通ならば、もちろん佐賀城下に入っては来られない身の上だ。
ところが、この“祇園太郎”と名乗る男は、何か特別扱いの理由でもあるのか、「帰ってきたとよ~」とばかりに、時折、佐賀の街に現れる。
――もう一度、大声を出す“祇園太郎”。
「副島先生は、居られんね~」
どうしても話をしたい相手がいたとしても、脱藩者のわりに声が大きすぎる。
「そがんに…声を張らずとも、ここに居る。」
なぜか副島種臣は、薄暗い物影にたたずんでいた。
「…驚かさんでください、副島先生。そこで何をしよるですか。」
いざ話しかけられると驚く、祇園太郎。
まるで“密偵”のように情報は集めるが、“忍び”のような特殊な訓練は受けていないようで、庭先にいた副島の気配には、全く気付いていなかった。
「副島先生、このたびは…」
すると祇園太郎はお悔やみの言葉を述べ始めた。副島は黙って聞いており、その反応も生気に欠ける印象だ。
――副島種臣、もともとの名は、枝吉次郎。
幕末期、著名な国学者として各地で名を知られた、枝吉神陽は実兄である。
「お力落としの無きよう…」
祇園太郎は、そう言葉を続けるが、副島の表情があまりに暗いので、次第に心配になってきた。
「副島先生、失礼を承知で言いますばい。元気ば出さんね!」
いきなり、話しぶりが切り替わった。元は小城の大庄屋としても、才覚を見せた祇園太郎だ。なかなか面倒見の良いところがある。

「偉大な神陽先生の志ば、継ぐっとは副島先生しかおらんです。」
今度は、激励の気持ちを投げかける。常日頃、尊王攘夷派の志士と交流しているので、勢いが強めである。
そして、祇園太郎も上方(京周辺)に居たときは、無理に当地の言葉を真似ていたが、佐賀ことばに戻ると訛(なま)りが非常に強い。
――文久二年八月。枝吉神陽は、流行(はやり)病により世を去った。
言葉にすればこれだけだが、佐賀の志士たち、ましてや実弟の副島にとって、その衝撃は計り知れない。
「継げるものか。私が正しいのは、ただ兄上の言葉の写しを語る時だけだ。」
副島は、憔悴(しょうすい)していた。
「私は兄上とは違う。もはや、“先生”と呼ばれるほどの者でもない。」

近年、志を持って、事を起こしても失敗ばかりが続く。
〔参照:
それどころか、救いたかった仲間も助けられない。
〔参照(終盤):
副島が感じていたのは、己の非力さ、無力さだった。
――「なんば、言いよっとね!」と、祇園太郎は言い放った。
「副島先生は、皆に慕われとるばい。おいは“先生”と呼び続けるけんね。」
安政五年(1858年)、当時、小城の大庄屋だった古賀利渉という人物は、“祇園太郎”と名乗って脱藩した。
同年に副島種臣は学究のために京に居り、公家たちと関わったが、この時も、佐賀藩兵の京への派遣を打診して、謹慎処分を受ける始末となっている。
「…もう、私には、期待をするな。」
常に進むべき道を示してくれる実兄・枝吉神陽という“羅針盤”を失い、途方に暮れる副島種臣。闇夜を歩むような日々が続く。
「おいは、これから長崎に行くけん。副島先生も近いうちにどうね?」
ここで祇園太郎の勧めた長崎行き、実は“新しい世”への入口となる場所だったが、そこに副島がたどり着くまでには、今しばらく時がかかるようである。
(続く)
Posted by SR at 22:15 | Comments(0) | 第19話「閑叟上洛」
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