2021年12月14日
第17話「佐賀脱藩」⑩(ご隠居の深き悩み)
こんばんは。前回の続きです。
1861年(文久元年)の晩秋。鍋島直正は佐賀藩主を退き、閑叟(かんそう)と正式に号します。
幕府を守ろうとする“佐幕”派にも、尊攘(尊王攘夷)派からも注目される佐賀の殿様。まだ、四十代での隠居です。
「何か思惑があるのか…?」と周囲には様々な憶測が。
ご隠居としてのんびりするかと言えば、政局をにらんで自由に活動できる身分を求めたという見解もあります。
しかし、当時の直正(閑叟)は体調面に不安を抱え、心配事も増えていました。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」⑦(父娘の心配事)〕
――「おいは、三瀬に戻らんば。」
福岡脱藩の志士・平野国臣が言うところの「佐賀の三平」の1人。古賀一平には、三瀬街道の番人という役目がある。
「神陽先生は、随分と慎重ではなかね。」
古賀は勤王志士の話に乗らない、師匠・枝吉神陽の動きを訝(いぶか)しがる。
「古賀さん。神陽先生の事だ。ご存念があるのだろう。」
江藤新平とて、平野の熱い想いには感銘を受けた。
「…殿のご隠居を待っておられるかだな。」
大木喬任(民平)は、師匠の思惑を推し量っていた。

――この年、鍋島直正は、着々と隠居の段取りを進めてきた。
「佐賀が一体で動かば、世に与える力は大きいだろうな。」
大木は、淡々と続けた。
「やぐらしか(面倒)な事だ…。」
真っ直ぐな気性の古賀。挙藩一致を待つだけなのが、釈然としないようだ。
「焦らずとも、江戸には中野が居るゆえ。」
諸藩の志士たちとの連携。江藤は、親友・中野方蔵の動きへの期待を語る。
――「そうか、また中野から文(ふみ)が来たら知らせんね。」
「承知した。」
大木が言葉を返す。三瀬の番所は、城下からかなり北にある。古賀は、名残り惜しそうに2人と別れた。
「ああは言ったが、古賀さんの心配ももっともだ。佐賀は時勢に遅れつつある。」
「そこはお主が述べたように、我らには中野がいる。殿様も、じき動くだろう。」
大木は、わりに悠然と構えているように見えた。

――しかし、隠居後まもなく、鍋島直正には悩みが生じた。
すっかり寒くなった冬のある日。川越藩(埼玉)の江戸屋敷からの急報を見るや、直正(閑叟)の様子がおかしい。
「…いかがなさいましたか。」
直正の世話係にして、幼なじみ・古川与一(松根)が顔色をうかがう。
「川越の…直侯どのが…」
「まさか、」
「…ご逝去なさった。」
川越藩主・松平直侯は、直正の娘・貢姫の夫だ。
――明らかに顔色の悪い、直正。
「…お気をたしかに。」
古川与一が、心配げに声をかける。
「貢(みつ)の胸中が察されてならぬ…。」
直正は、若くして夫を亡くした愛娘の心痛を思った。生真面目な長女のことだ。きっと思い悩んでいるに違いない。
病気療養中だった松平直侯。亡くなったのは、文久元年の十二月という。

――江戸の沿海警備の負担が重かった川越藩。
アメリカのペリーが来航した際、上陸した地点の警備担当だったという川越藩。松平直侯の藩主就任後には、品川の台場も受け持ちもあった。
くわえて他家からの養子では、さらに気を遣うところが多い。
「…定めし、心労があったことだろう。」
実父は、水戸烈公・徳川斉昭。実兄は英明の誉れ高い、一橋慶喜。貢姫の夫・松平直侯は、様々な重圧に耐え続けたのか。その短い生涯を閉じたのだった。
(続く)
1861年(文久元年)の晩秋。鍋島直正は佐賀藩主を退き、閑叟(かんそう)と正式に号します。
幕府を守ろうとする“佐幕”派にも、尊攘(尊王攘夷)派からも注目される佐賀の殿様。まだ、四十代での隠居です。
「何か思惑があるのか…?」と周囲には様々な憶測が。
ご隠居としてのんびりするかと言えば、政局をにらんで自由に活動できる身分を求めたという見解もあります。
しかし、当時の直正(閑叟)は体調面に不安を抱え、心配事も増えていました。
〔参照:
――「おいは、三瀬に戻らんば。」
福岡脱藩の志士・平野国臣が言うところの「佐賀の三平」の1人。古賀一平には、三瀬街道の番人という役目がある。
「神陽先生は、随分と慎重ではなかね。」
古賀は勤王志士の話に乗らない、師匠・枝吉神陽の動きを訝(いぶか)しがる。
「古賀さん。神陽先生の事だ。ご存念があるのだろう。」
江藤新平とて、平野の熱い想いには感銘を受けた。
「…殿のご隠居を待っておられるかだな。」
大木喬任(民平)は、師匠の思惑を推し量っていた。
――この年、鍋島直正は、着々と隠居の段取りを進めてきた。
「佐賀が一体で動かば、世に与える力は大きいだろうな。」
大木は、淡々と続けた。
「やぐらしか(面倒)な事だ…。」
真っ直ぐな気性の古賀。挙藩一致を待つだけなのが、釈然としないようだ。
「焦らずとも、江戸には中野が居るゆえ。」
諸藩の志士たちとの連携。江藤は、親友・中野方蔵の動きへの期待を語る。
――「そうか、また中野から文(ふみ)が来たら知らせんね。」
「承知した。」
大木が言葉を返す。三瀬の番所は、城下からかなり北にある。古賀は、名残り惜しそうに2人と別れた。
「ああは言ったが、古賀さんの心配ももっともだ。佐賀は時勢に遅れつつある。」
「そこはお主が述べたように、我らには中野がいる。殿様も、じき動くだろう。」
大木は、わりに悠然と構えているように見えた。
――しかし、隠居後まもなく、鍋島直正には悩みが生じた。
すっかり寒くなった冬のある日。川越藩(埼玉)の江戸屋敷からの急報を見るや、直正(閑叟)の様子がおかしい。
「…いかがなさいましたか。」
直正の世話係にして、幼なじみ・古川与一(松根)が顔色をうかがう。
「川越の…直侯どのが…」
「まさか、」
「…ご逝去なさった。」
川越藩主・松平直侯は、直正の娘・貢姫の夫だ。
――明らかに顔色の悪い、直正。
「…お気をたしかに。」
古川与一が、心配げに声をかける。
「貢(みつ)の胸中が察されてならぬ…。」
直正は、若くして夫を亡くした愛娘の心痛を思った。生真面目な長女のことだ。きっと思い悩んでいるに違いない。
病気療養中だった松平直侯。亡くなったのは、文久元年の十二月という。

――江戸の沿海警備の負担が重かった川越藩。
アメリカのペリーが来航した際、上陸した地点の警備担当だったという川越藩。松平直侯の藩主就任後には、品川の台場も受け持ちもあった。
くわえて他家からの養子では、さらに気を遣うところが多い。
「…定めし、心労があったことだろう。」
実父は、水戸烈公・徳川斉昭。実兄は英明の誉れ高い、一橋慶喜。貢姫の夫・松平直侯は、様々な重圧に耐え続けたのか。その短い生涯を閉じたのだった。
(続く)
Posted by SR at 22:28 | Comments(0) | 第17話「佐賀脱藩」
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。