2020年04月17日
第8話「黒船来航」⑦
こんばんは。
佐賀藩は、長崎警護の特権で、オランダからの“国際情勢レポート”を真っ先に見ることができました。「黒船来航」の情報も、ペリーが来る前に掴んでいたのです。
――鍋島直正が、嘆息する。
「ついに来たか…」
“オランダ風説書”によれば、アメリカの提督“ペルリ”が艦隊を率いて、日本に現れると記されていた。
アメリカの開国要求の意図は、日本を“中継地点”にするためだったと言われる。
綿産業の販路開拓をする商船、灯りに使う“鯨油”を得るための捕鯨船…広い太平洋に“寄港地”があれば、世界進出に有利だった。
――アジア市場に進出するアメリカの“足場”を求めて、提督ペリーが航海を続ける。
アメリカ東海岸から大西洋を渡る航路では、ヨーロッパに遅れを取る。
ならば今後は、太平洋に“偉大なアメリカ”の中継地点を作ればショートカットが可能だ。

「フーン、フフーン♪フンフンフーン~♪」
順調な航海に鼻歌が出るペリー提督。
「“熊おやじ”、今日はご機嫌だな。」
「しっ、触らぬ“熊”に祟りなしだぞ!」
水兵たち、上機嫌なペリーを警戒する。
ちなみに日本に来たペリー艦隊4隻のうち、2隻は“蒸気船”である。しかし外洋航海には、当時の効率の悪い“蒸気機関”は使用せず、進化を続けていた“帆船”の技術を用いるのが、一般的だったようだ。
――そして、事がことだけに「黒船来る」との情報の拡散は意外に早かった。
異国船対策のトップランナー・佐賀藩への注目は俄然高くなっていく。
「鍋島肥前だ…」
「長崎に台場を築いたと聞くぞ」
「台場には、鉄の大筒も並べているらしい。」
長崎の離島“神島”“伊王島”を近代要塞に造り替え、鉄製大砲で備える佐賀藩。
――風雲、急を告げる中、“噂の大名”となっていた鍋島直正。
その直正を、正面から呼び止める人物がいた。
「おおっ、鍋島肥前!久しいのう!」
「これは、薩摩守さま。お久しゅうござる。」
直正が挨拶を返す。
――声をかけてきた薩摩守とは、島津斉彬(なりあきら)である。鍋島直正の母方の従兄にあたる。
直正の母は鳥取藩・池田家の姫。島津斉彬の母とは姉妹であった。
斉彬は、直正の5歳年上。幼少期に江戸で育った両者は、一緒に遊ぶこともあった。
「鍋島肥前よ。いとこの間柄ゆえ、厚かましい願いを申す。」
「幼き頃には、随分と可愛がっていただきましたゆえ。お気遣いなく。」
「いま薩摩でも“反射炉”を築きはじめておる。しかしだな…」
「なかなか、難儀なことにございましょう。」
「そうじゃ、なかなか佐賀のようには参らぬ。」
「いえ、佐賀でも随分と“しくじり”を繰り返し申した。」
「それでだな…。」
「よろしければ、我らが訳した“虎の巻”をお贈りいたそうか。」
――なんと鍋島直正は「鋳立方の七人」の杉谷・田中が情熱を注いだ“技術書”を進呈するという。
「肥前!まことか!何と気前の良い!」
「異国が迫る危急のとき、ともに備えを固めましょうぞ。」
――しかし、ある意味で直正は、斉彬に“挑戦状”を叩きつけていたのである。「早くここまで来い」と。
礼を交わして、背中合わせに別々の廊下を歩む2人。
両者とも独り言をつぶやく。

「薩摩守さま…あまり時はありませぬぞ!お急ぎなされ…」
直正は国全体の守りを考えたときに、薩摩の技術力向上は不可欠と考えた。
しかし“技術書”を贈っても、完成できないレベルならば、話にならない。
「西洋人も人、佐賀人もまた人。薩摩の者に出来ぬ道理は無し…」
斉彬も、直正の“挑戦状”を、しっかりと受け取っていたのである。
(続く)
佐賀藩は、長崎警護の特権で、オランダからの“国際情勢レポート”を真っ先に見ることができました。「黒船来航」の情報も、ペリーが来る前に掴んでいたのです。
――鍋島直正が、嘆息する。
「ついに来たか…」
“オランダ風説書”によれば、アメリカの提督“ペルリ”が艦隊を率いて、日本に現れると記されていた。
アメリカの開国要求の意図は、日本を“中継地点”にするためだったと言われる。
綿産業の販路開拓をする商船、灯りに使う“鯨油”を得るための捕鯨船…広い太平洋に“寄港地”があれば、世界進出に有利だった。
――アジア市場に進出するアメリカの“足場”を求めて、提督ペリーが航海を続ける。
アメリカ東海岸から大西洋を渡る航路では、ヨーロッパに遅れを取る。
ならば今後は、太平洋に“偉大なアメリカ”の中継地点を作ればショートカットが可能だ。

「フーン、フフーン♪フンフンフーン~♪」
順調な航海に鼻歌が出るペリー提督。
「“熊おやじ”、今日はご機嫌だな。」
「しっ、触らぬ“熊”に祟りなしだぞ!」
水兵たち、上機嫌なペリーを警戒する。
ちなみに日本に来たペリー艦隊4隻のうち、2隻は“蒸気船”である。しかし外洋航海には、当時の効率の悪い“蒸気機関”は使用せず、進化を続けていた“帆船”の技術を用いるのが、一般的だったようだ。
――そして、事がことだけに「黒船来る」との情報の拡散は意外に早かった。
異国船対策のトップランナー・佐賀藩への注目は俄然高くなっていく。
「鍋島肥前だ…」
「長崎に台場を築いたと聞くぞ」
「台場には、鉄の大筒も並べているらしい。」
長崎の離島“神島”“伊王島”を近代要塞に造り替え、鉄製大砲で備える佐賀藩。
――風雲、急を告げる中、“噂の大名”となっていた鍋島直正。
その直正を、正面から呼び止める人物がいた。
「おおっ、鍋島肥前!久しいのう!」
「これは、薩摩守さま。お久しゅうござる。」
直正が挨拶を返す。
――声をかけてきた薩摩守とは、島津斉彬(なりあきら)である。鍋島直正の母方の従兄にあたる。
直正の母は鳥取藩・池田家の姫。島津斉彬の母とは姉妹であった。
斉彬は、直正の5歳年上。幼少期に江戸で育った両者は、一緒に遊ぶこともあった。
「鍋島肥前よ。いとこの間柄ゆえ、厚かましい願いを申す。」
「幼き頃には、随分と可愛がっていただきましたゆえ。お気遣いなく。」
「いま薩摩でも“反射炉”を築きはじめておる。しかしだな…」
「なかなか、難儀なことにございましょう。」
「そうじゃ、なかなか佐賀のようには参らぬ。」
「いえ、佐賀でも随分と“しくじり”を繰り返し申した。」
「それでだな…。」
「よろしければ、我らが訳した“虎の巻”をお贈りいたそうか。」
――なんと鍋島直正は「鋳立方の七人」の杉谷・田中が情熱を注いだ“技術書”を進呈するという。
「肥前!まことか!何と気前の良い!」
「異国が迫る危急のとき、ともに備えを固めましょうぞ。」
――しかし、ある意味で直正は、斉彬に“挑戦状”を叩きつけていたのである。「早くここまで来い」と。
礼を交わして、背中合わせに別々の廊下を歩む2人。
両者とも独り言をつぶやく。

「薩摩守さま…あまり時はありませぬぞ!お急ぎなされ…」
直正は国全体の守りを考えたときに、薩摩の技術力向上は不可欠と考えた。
しかし“技術書”を贈っても、完成できないレベルならば、話にならない。
「西洋人も人、佐賀人もまた人。薩摩の者に出来ぬ道理は無し…」
斉彬も、直正の“挑戦状”を、しっかりと受け取っていたのである。
(続く)
Posted by SR at 22:23 | Comments(0) | 第8話「黒船来航」
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