2020年04月12日
第8話「黒船来航」④
こんばんは。
佐野栄寿(常民)は、京都で学んだ仲間たちに、技術開発に熱心な佐賀藩への就職を勧めます。
後に佐野がスカウトしたメンバーは、次々に新プロジェクトに挑んでいきますが、今回は、ほぼ第6話「鉄製大砲」の続きです。
――江戸の蘭方医・伊東玄朴から、佐賀城下に手紙が届く。
城下の屋敷にいる老人が、手紙を受け取る。年の頃70歳に近いようだ。最近、膝が痛むらしく、足取りが軽やかではない。
「さて、玄朴先生は何と…」
――手紙を開封する“蘭学じじい”。第1話から登場の「長崎御番の若侍」だった人物である。
ここで玄朴からの依頼を、おさらいする。
「弟子の佐野栄寿を不始末により破門した。いずれ佐賀に戻ると思うので、手を貸してやってほしい。」
「栄寿どのには、殿(鍋島直正)のご期待もありますからな…」
“蘭学じじい”はつぶやく。佐野に与えられた“密命”を、玄朴が知っていたかは定かではない。
「他国(よそ)の者を連れてくるならば、受入れの根回しをせねばのう…」
老人は長崎御番に長年関わり、いまだ佐賀藩の蘭学関係者に強い人脈を持っていた。
――当時、“二重鎖国”とまで言われた佐賀藩は“よそ者”の受入れに厳しい。
もともとは特産品である陶磁器の秘密が漏れるのを防ぐためだったと言われる。
そして、幕末。佐賀藩は海外の知識吸収には熱心だったが、藩外との人材交流は警戒していたのである。
――1852年。佐賀藩では「鉄製大砲」の試作が続き、その実験は14回目となっていた。

――ドドーン!
轟音とともに、砲弾は1.5キロほどは飛んだであろうか。
何より、強い火薬の調合に、鉄製の砲身が耐えきった。まったくヒビが入っていない。
「よし!今度は成功だ!」
佐賀藩の大砲鋳造チームの責任者(リーダー)である本島藤太夫。
一時は切腹まで考え、殿に諫められる場面もあった。ついに試作品の完成を宣言した。
「よぉし、よかごたぁ!」
鋳物師・谷口が大声を出す。
「…何やら少し、気抜けしましたね。」
プロジェクトの進捗を管理していた、会計の田代。ホッとしたら力が抜けた様子だ。
――幾度かの事故を乗り越え、炉を改良し、材料を再検討し、鉄を溶かし続けた「鋳立方の七人」。
「これだけ弾が飛べば、異国船にも対抗できましょうな。」
翻訳家の杉谷。視察して来た“長崎砲台”のことを考えていた。
「急ぎ、城に報告しよう。本島さま、我らで参りましょうかな。」
サブリーダーの田中には、チームに寄せられた期待が良く見えている。
一方で、算術家・馬場、刀鍛冶・橋本は何やら検証作業に余念が無い。
「さて、砲弾の軌道はどうだったか…」
「砲身に使う鉄の強度を、さらに上げられないか…」
…と次のことを考えている様子だ。
――こうして佐賀藩は、日本で初めて「鉄製大砲」を自力で造り上げた。
幕府の韮山反射炉は実験用の域を出ず、他の大名で最も進んだ薩摩藩ですら計画に着手したところである。
そして、佐賀の築地で造られた鉄製大砲は、すみやかに佐賀藩の“長崎砲台”に配備された。
「本島どの…成し遂げおったな。」
長崎台場の責任者・伊東次兵衛は感服していた。

――その一方で、”長崎台場”の方も“新工法”を編み出し、島間の埋め立て工事を急ピッチで進めていた。
かつて第1話で“長崎御番の若侍”は、こう決意した。
「無法な異国船は、ことごとく私が沈めてやる!」と。
本格的な台場を持った“長崎港”の防衛力は一変する。
そして、“若侍の決意”から44年。とうとう佐賀藩は「有言実行できる力」を手に入れたのである。
いまや佐賀の“長崎御番”には、大砲鋳造、台場整備、情報収集…など各分野に責任者がいる。海外の情勢が変転する中、「長崎警護」の緊張感はさらに高まっていた。
(続く)
佐野栄寿(常民)は、京都で学んだ仲間たちに、技術開発に熱心な佐賀藩への就職を勧めます。
後に佐野がスカウトしたメンバーは、次々に新プロジェクトに挑んでいきますが、今回は、ほぼ第6話「鉄製大砲」の続きです。
――江戸の蘭方医・伊東玄朴から、佐賀城下に手紙が届く。
城下の屋敷にいる老人が、手紙を受け取る。年の頃70歳に近いようだ。最近、膝が痛むらしく、足取りが軽やかではない。
「さて、玄朴先生は何と…」
――手紙を開封する“蘭学じじい”。第1話から登場の「長崎御番の若侍」だった人物である。
ここで玄朴からの依頼を、おさらいする。
「弟子の佐野栄寿を不始末により破門した。いずれ佐賀に戻ると思うので、手を貸してやってほしい。」
「栄寿どのには、殿(鍋島直正)のご期待もありますからな…」
“蘭学じじい”はつぶやく。佐野に与えられた“密命”を、玄朴が知っていたかは定かではない。
「他国(よそ)の者を連れてくるならば、受入れの根回しをせねばのう…」
老人は長崎御番に長年関わり、いまだ佐賀藩の蘭学関係者に強い人脈を持っていた。
――当時、“二重鎖国”とまで言われた佐賀藩は“よそ者”の受入れに厳しい。
もともとは特産品である陶磁器の秘密が漏れるのを防ぐためだったと言われる。
そして、幕末。佐賀藩は海外の知識吸収には熱心だったが、藩外との人材交流は警戒していたのである。
――1852年。佐賀藩では「鉄製大砲」の試作が続き、その実験は14回目となっていた。
――ドドーン!
轟音とともに、砲弾は1.5キロほどは飛んだであろうか。
何より、強い火薬の調合に、鉄製の砲身が耐えきった。まったくヒビが入っていない。
「よし!今度は成功だ!」
佐賀藩の大砲鋳造チームの責任者(リーダー)である本島藤太夫。
一時は切腹まで考え、殿に諫められる場面もあった。ついに試作品の完成を宣言した。
「よぉし、よかごたぁ!」
鋳物師・谷口が大声を出す。
「…何やら少し、気抜けしましたね。」
プロジェクトの進捗を管理していた、会計の田代。ホッとしたら力が抜けた様子だ。
――幾度かの事故を乗り越え、炉を改良し、材料を再検討し、鉄を溶かし続けた「鋳立方の七人」。
「これだけ弾が飛べば、異国船にも対抗できましょうな。」
翻訳家の杉谷。視察して来た“長崎砲台”のことを考えていた。
「急ぎ、城に報告しよう。本島さま、我らで参りましょうかな。」
サブリーダーの田中には、チームに寄せられた期待が良く見えている。
一方で、算術家・馬場、刀鍛冶・橋本は何やら検証作業に余念が無い。
「さて、砲弾の軌道はどうだったか…」
「砲身に使う鉄の強度を、さらに上げられないか…」
…と次のことを考えている様子だ。
――こうして佐賀藩は、日本で初めて「鉄製大砲」を自力で造り上げた。
幕府の韮山反射炉は実験用の域を出ず、他の大名で最も進んだ薩摩藩ですら計画に着手したところである。
そして、佐賀の築地で造られた鉄製大砲は、すみやかに佐賀藩の“長崎砲台”に配備された。
「本島どの…成し遂げおったな。」
長崎台場の責任者・伊東次兵衛は感服していた。

――その一方で、”長崎台場”の方も“新工法”を編み出し、島間の埋め立て工事を急ピッチで進めていた。
かつて第1話で“長崎御番の若侍”は、こう決意した。
「無法な異国船は、ことごとく私が沈めてやる!」と。
本格的な台場を持った“長崎港”の防衛力は一変する。
そして、“若侍の決意”から44年。とうとう佐賀藩は「有言実行できる力」を手に入れたのである。
いまや佐賀の“長崎御番”には、大砲鋳造、台場整備、情報収集…など各分野に責任者がいる。海外の情勢が変転する中、「長崎警護」の緊張感はさらに高まっていた。
(続く)
Posted by SR at 19:02 | Comments(0) | 第8話「黒船来航」
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