2021年11月13日
第17話「佐賀脱藩」②(海を望む丘、再び)
こんばんは。前回の続きです。
対外危機の当事者となったことで、佐賀藩の東隣にある田代領(現在の基山町と鳥栖市東部)を含め対馬藩は攘夷を唱える若者たちの動きが活発となります。
一方で、佐賀藩は警備の負担は大きくとも、長崎ではオランダとの交易に熱心だったので、外国全体の排斥を叫ぶような“攘夷”とは距離を置いていました。
1861年(文久元年)の冬~夏まで続いた対馬事件。その際、佐賀藩士が操る蒸気船が慌ただしく行き交った、伊万里の沿海も、平穏を取り戻しています。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」⑱(蒸気船の集まる海域)〕
――丘の上から、海を見つめる野良着の男性。
傍で跳びはねる雉(きじ)猫が、ニャーニャーと騒がしい。
その男、嬉野方面から伊万里まで陶磁器を運ぶ“人足”の風体をしているが、正体は、英国船の偵察を任務とする蓮池藩(※)の侍。※佐賀にある支藩の1つ
一言でいえば、蓮池藩領・嬉野から来た“忍者”であり、野良着は調査のための変装である。見た目は普通の中年で西洋の事情に通じる人物とはわからない。
〔参照:第16話「攘夷沸騰」⑩(英国船の行方)〕

――「何ね。あんたは、また来たとね。」
そんな“嬉野の忍者”・古賀、高台に登ってきた若者と目を合わせる。佐賀藩の上佐賀代官所に務める下級武士・江藤新平である。
「きっと貴方が、ここで海を見ていると考えたゆえ、参った。」
江藤の真っ直ぐな視線、よく通る声は相変わらずだ。
…古賀の傍らでキジ猫は声に驚いたか、耳をピクッと動かし黒目を大きくする。
――すぐさま、本題を語り始めた江藤。
「対馬の一角をロシアが占有せる件、イギリスが介入したと聞く。」
「…こがん(このような)ところに来ても、何も見えんとよ。」
すでに“対馬事件”は、ひとまずの解決をみていた。イギリス軍艦が近海で圧力をかけたことにより、停泊したロシア船は対馬を退去したのである。
――この5年ほど前、1856(安政三)年。江藤は“図海策”を著す。
この意見書で、早々と開国の必要性を書いた江藤。「北方(蝦夷地)の開拓」でロシアに備え、「身分に関わらず人材を登用」し、「異国と通商すべし」と説いた。
単純な開国でもなく、目先の攘夷でもない。国力を付け、列強に対抗する想い。ただ、為すべき事はわかっても、江藤の身分からでは“届かない”のだ。
「急ぐのはわかるばってん…、今は力ば蓄えるべき時じゃなかね。」
古賀の語る横では、キジ猫が平らな木肌を見つけ、ガリガリと爪(つめ)を研ぐ。

――当時の江藤には、いくつかの打診があった。
1つは英語の修得。もう1つは貿易への従事だ。佐賀藩は人材の登用には熱心であり、江藤の才能は認められつつあった。
「“英語”に”通商”とは…また兄さんは、随分と見込まれとるばい。」
長崎港にも佐賀本藩にも姿を見せる“嬉野の忍者”・古賀。不思議な立ち位置の人物だ。「せっかくの藩の期待だ。ありがたく受け止めておけ…」と勧める。
しかし、江藤の返す言葉には、やや焦りが見えた。
「されど、安穏と日々を過ごすことは、時勢が許さぬと心得る。」
――親友・中野方蔵が伝える江戸の姿…
時代が動く気配がある。幕府や雄藩から注目される、佐賀の殿様・鍋島直正がどう動くかは、国の行方をも左右するはずだ。
江藤の意見書での想いも、佐賀藩では活かせる道もある。年配者らしく古賀が諭したように、普通の才の持ち主ならば、順風満帆の展開に喜ぶところだろう。
だが、非凡な才を持ったこの若者には運命の急転が待っていた。江藤が佐賀を発つことを決断するまで、この時、すでに残り1年を切っていたのである。
(続く)
対外危機の当事者となったことで、佐賀藩の東隣にある田代領(現在の基山町と鳥栖市東部)を含め対馬藩は攘夷を唱える若者たちの動きが活発となります。
一方で、佐賀藩は警備の負担は大きくとも、長崎ではオランダとの交易に熱心だったので、外国全体の排斥を叫ぶような“攘夷”とは距離を置いていました。
1861年(文久元年)の冬~夏まで続いた対馬事件。その際、佐賀藩士が操る蒸気船が慌ただしく行き交った、伊万里の沿海も、平穏を取り戻しています。
〔参照:
――丘の上から、海を見つめる野良着の男性。
傍で跳びはねる雉(きじ)猫が、ニャーニャーと騒がしい。
その男、嬉野方面から伊万里まで陶磁器を運ぶ“人足”の風体をしているが、正体は、英国船の偵察を任務とする蓮池藩(※)の侍。※佐賀にある支藩の1つ
一言でいえば、蓮池藩領・嬉野から来た“忍者”であり、野良着は調査のための変装である。見た目は普通の中年で西洋の事情に通じる人物とはわからない。
〔参照:
――「何ね。あんたは、また来たとね。」
そんな“嬉野の忍者”・古賀、高台に登ってきた若者と目を合わせる。佐賀藩の上佐賀代官所に務める下級武士・江藤新平である。
「きっと貴方が、ここで海を見ていると考えたゆえ、参った。」
江藤の真っ直ぐな視線、よく通る声は相変わらずだ。
…古賀の傍らでキジ猫は声に驚いたか、耳をピクッと動かし黒目を大きくする。
――すぐさま、本題を語り始めた江藤。
「対馬の一角をロシアが占有せる件、イギリスが介入したと聞く。」
「…こがん(このような)ところに来ても、何も見えんとよ。」
すでに“対馬事件”は、ひとまずの解決をみていた。イギリス軍艦が近海で圧力をかけたことにより、停泊したロシア船は対馬を退去したのである。
――この5年ほど前、1856(安政三)年。江藤は“図海策”を著す。
この意見書で、早々と開国の必要性を書いた江藤。「北方(蝦夷地)の開拓」でロシアに備え、「身分に関わらず人材を登用」し、「異国と通商すべし」と説いた。
単純な開国でもなく、目先の攘夷でもない。国力を付け、列強に対抗する想い。ただ、為すべき事はわかっても、江藤の身分からでは“届かない”のだ。
「急ぐのはわかるばってん…、今は力ば蓄えるべき時じゃなかね。」
古賀の語る横では、キジ猫が平らな木肌を見つけ、ガリガリと爪(つめ)を研ぐ。
――当時の江藤には、いくつかの打診があった。
1つは英語の修得。もう1つは貿易への従事だ。佐賀藩は人材の登用には熱心であり、江藤の才能は認められつつあった。
「“英語”に”通商”とは…また兄さんは、随分と見込まれとるばい。」
長崎港にも佐賀本藩にも姿を見せる“嬉野の忍者”・古賀。不思議な立ち位置の人物だ。「せっかくの藩の期待だ。ありがたく受け止めておけ…」と勧める。
しかし、江藤の返す言葉には、やや焦りが見えた。
「されど、安穏と日々を過ごすことは、時勢が許さぬと心得る。」
――親友・中野方蔵が伝える江戸の姿…
時代が動く気配がある。幕府や雄藩から注目される、佐賀の殿様・鍋島直正がどう動くかは、国の行方をも左右するはずだ。
江藤の意見書での想いも、佐賀藩では活かせる道もある。年配者らしく古賀が諭したように、普通の才の持ち主ならば、順風満帆の展開に喜ぶところだろう。
だが、非凡な才を持ったこの若者には運命の急転が待っていた。江藤が佐賀を発つことを決断するまで、この時、すでに残り1年を切っていたのである。
(続く)