2021年06月28日
「面影と残響」
こんばんは。
最近「さがファンブログ」内で、よく水田の風景を見かけます。そんな景色を見るたびに「佐賀の遠かごた~っ!」と、心の叫ぶ私であります。(やや誇張あり)
…たぶん地元に住む方から見れば奇妙な反応ですが、私は潤いの無い世界に居ますので、大目に見てください。
――製作の意図に合った見方なのかは不明ですが…
生死の境目について深く考えさせられた『ゾンビランドサガ』。人はこの世から去ったら影響力が無くなるのか。その答え、私は“否”(いな)だと考えています。
…何せ、私が描きたい(このところ、あまり書けていない…)佐賀の先輩たちは、随分と前の世代の方々ですから。
――“歴史”と言えるぐらいの過去。
人によって「いつからを歴史と感じるか」。その区切りは異なるかもしれませんが、幕末や明治初頭なら150年以上は昔の話。
“例のアニメ”を見ると何だか疑わしくなってきますが、その時代から生きてる方は多分、もういない…はず。
佐賀市内。県庁方面へ続く大通りに銅像が建つのは、主にこの世代の方々。当ブログでは賢人の銅像と出会うと、対話が始まるのが“よくある展開”です。

※古賀穀堂先生。のちほど幕末期の“古賀姓”の方々についても少し言及します。
――なぜ、このような事を語るのか。
柔道家・古賀稔彦さんに関するニュース記事を立て続けに見たからです。
私にも過去のオリンピックで活躍した古賀選手の勇姿を見た記憶が残ります。「まだ、若かったのに…」と惜しまれる年代で、この世から旅立たれました。
“歴史上の人物”とは言い難いが、伝説になってしまった方。複雑な感覚です。
――そのニュースの1つは…
古賀稔彦さんの53年の人生を再現したドラマがある…という情報。
NHKではなく民放ですが、6月30日(水)午後9時~日本テレビ系で『掘れば掘るほどスゴい人』という番組のようです。
…私は同番組を見たことが無く、どんな雰囲気なのかわかりませんが、この企画はチェックしてみます。
――古賀稔彦さんが、佐賀県のご出身ということは…
現役終盤には、テレビ観戦の際に何となく意識していました。しかし、はっきりと経歴を知ったのは最近です。
現・みやき町に生まれ、地元の千栗(ちりく)八幡宮の石段で、足腰を鍛えたと聞く“古賀少年”の姿。ドラマには描かれるのか、そこも注目したいと思います。
〔参照(後半):連続ブログ小説「旅立の剣」(28)水路の迷宮〕
――そして、もう1つのニュース…
佐賀県内に、古賀選手の銅像を建てる計画があるという情報。
“ふるさと納税”も活用して実行する案と聞きます。「伝説の一本背負い」の残像を想うファンは今も全国に多くいる。その想いを見込んだ計画の様子。
個人的には、あんなに強い人が亡くなった事が未だに得心できず、まだ銅像には早いような気もしますが、時機を逸してはならんのかもしれません。

――歳月は流れ、人は“歴史”になっていくのか…
調べを進めると佐賀からは偉大な“古賀さん”が多く出ている事に気付きます。
代表格が幕末の名君・鍋島直正公の教育係で、佐賀を雄藩への道に導いた古賀穀堂先生。佐賀だけでなく幕政にも関与した全国区の学者揃いの一族。
父・古賀精里は“寛政の三博士”の一。弟・古賀侗庵の門人は『青天を衝け』にも登場する原市之進、栗本鋤雲など、幕末ファンを唸らせる名が並びます。
甥・古賀謹一郎は、幕府が創設した西洋の学問を研究する機関の頭取に就任。“蕃書調所”と呼ばれるこの機関。のちの東京大学につながっていきます。
――幕末期には、学者以外の“古賀”さんの活躍も…
江藤新平の脱藩に協力したと言われる友人・古賀一平は、明治初期に現在の東京西部や神奈川・埼玉の一部に渡り存在した“品川県”でトップを務めます。
また、幕末の長崎で情報収集にあたる“忍者”に、古賀源太夫という人物が居たことは、当ブログでは主に“創作”に活かしています。
〔参照:「佐賀の忍者、幕末を走る!」〔嬉野温泉駅〕〕
…こういう話をする際に「柔道家の古賀稔彦さんも佐賀の出身ですよね!」とか無邪気に語りたかったのです。
――私は、想像もしていませんでした…
そんな事を考えていた時期に、古賀選手がご病気と戦っておられたとは…
銅像製作の趣旨は、やはり「志の伝承」のようです。佐賀県は、よく“志”をテーマとしますが、私は極端なくらい同じ方向へと走っている気がします。
生前にある番組の企画で、柔道を誤解した指導法をしている海外の方に対しても、真摯に向き合っていた古賀稔彦さん。
方法は、面影が見える銅像でもいい、残響を感じるようなドラマでもいい…あの勇姿は語り継いでほしいように思います。
最近「さがファンブログ」内で、よく水田の風景を見かけます。そんな景色を見るたびに「佐賀の遠かごた~っ!」と、心の叫ぶ私であります。(やや誇張あり)
…たぶん地元に住む方から見れば奇妙な反応ですが、私は潤いの無い世界に居ますので、大目に見てください。
――製作の意図に合った見方なのかは不明ですが…
生死の境目について深く考えさせられた『ゾンビランドサガ』。人はこの世から去ったら影響力が無くなるのか。その答え、私は“否”(いな)だと考えています。
…何せ、私が描きたい(このところ、あまり書けていない…)佐賀の先輩たちは、随分と前の世代の方々ですから。
――“歴史”と言えるぐらいの過去。
人によって「いつからを歴史と感じるか」。その区切りは異なるかもしれませんが、幕末や明治初頭なら150年以上は昔の話。
“例のアニメ”を見ると何だか疑わしくなってきますが、その時代から生きてる方は多分、もういない…はず。
佐賀市内。県庁方面へ続く大通りに銅像が建つのは、主にこの世代の方々。当ブログでは賢人の銅像と出会うと、対話が始まるのが“よくある展開”です。
※古賀穀堂先生。のちほど幕末期の“古賀姓”の方々についても少し言及します。
――なぜ、このような事を語るのか。
柔道家・古賀稔彦さんに関するニュース記事を立て続けに見たからです。
私にも過去のオリンピックで活躍した古賀選手の勇姿を見た記憶が残ります。「まだ、若かったのに…」と惜しまれる年代で、この世から旅立たれました。
“歴史上の人物”とは言い難いが、伝説になってしまった方。複雑な感覚です。
――そのニュースの1つは…
古賀稔彦さんの53年の人生を再現したドラマがある…という情報。
NHKではなく民放ですが、6月30日(水)午後9時~日本テレビ系で『掘れば掘るほどスゴい人』という番組のようです。
…私は同番組を見たことが無く、どんな雰囲気なのかわかりませんが、この企画はチェックしてみます。
――古賀稔彦さんが、佐賀県のご出身ということは…
現役終盤には、テレビ観戦の際に何となく意識していました。しかし、はっきりと経歴を知ったのは最近です。
現・みやき町に生まれ、地元の千栗(ちりく)八幡宮の石段で、足腰を鍛えたと聞く“古賀少年”の姿。ドラマには描かれるのか、そこも注目したいと思います。
〔参照(後半):
――そして、もう1つのニュース…
佐賀県内に、古賀選手の銅像を建てる計画があるという情報。
“ふるさと納税”も活用して実行する案と聞きます。「伝説の一本背負い」の残像を想うファンは今も全国に多くいる。その想いを見込んだ計画の様子。
個人的には、あんなに強い人が亡くなった事が未だに得心できず、まだ銅像には早いような気もしますが、時機を逸してはならんのかもしれません。
――歳月は流れ、人は“歴史”になっていくのか…
調べを進めると佐賀からは偉大な“古賀さん”が多く出ている事に気付きます。
代表格が幕末の名君・鍋島直正公の教育係で、佐賀を雄藩への道に導いた古賀穀堂先生。佐賀だけでなく幕政にも関与した全国区の学者揃いの一族。
父・古賀精里は“寛政の三博士”の一。弟・古賀侗庵の門人は『青天を衝け』にも登場する原市之進、栗本鋤雲など、幕末ファンを唸らせる名が並びます。
甥・古賀謹一郎は、幕府が創設した西洋の学問を研究する機関の頭取に就任。“蕃書調所”と呼ばれるこの機関。のちの東京大学につながっていきます。
――幕末期には、学者以外の“古賀”さんの活躍も…
江藤新平の脱藩に協力したと言われる友人・古賀一平は、明治初期に現在の東京西部や神奈川・埼玉の一部に渡り存在した“品川県”でトップを務めます。
また、幕末の長崎で情報収集にあたる“忍者”に、古賀源太夫という人物が居たことは、当ブログでは主に“創作”に活かしています。
〔参照:
…こういう話をする際に「柔道家の古賀稔彦さんも佐賀の出身ですよね!」とか無邪気に語りたかったのです。
――私は、想像もしていませんでした…
そんな事を考えていた時期に、古賀選手がご病気と戦っておられたとは…
銅像製作の趣旨は、やはり「志の伝承」のようです。佐賀県は、よく“志”をテーマとしますが、私は極端なくらい同じ方向へと走っている気がします。
生前にある番組の企画で、柔道を誤解した指導法をしている海外の方に対しても、真摯に向き合っていた古賀稔彦さん。
方法は、面影が見える銅像でもいい、残響を感じるようなドラマでもいい…あの勇姿は語り継いでほしいように思います。
Posted by SR at 21:56 | Comments(0) | メディア・イベント見聞
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