2020年09月02日
第13話「通商条約」⑪(名君たちの“未来”)
こんばんは。
前回は、老中・阿部正弘の急逝の一報が届いた様子を描きました。原因については諸説あるようで、有力な説の1つが、幕政の中心で働き詰めだったことによる…いわゆる“過労死”だそうです。
英明と評判の一橋慶喜を将軍として、有力な諸大名が幕府のもとに集まる。これが“一橋派”の目指す新しい国家の姿でした。
“一橋派”に好意的だった老中・阿部正弘。その援護を期待していた、“一橋派”にとっては大打撃です。そんな中、派閥の主軸の1人である薩摩(鹿児島)の島津斉彬が、鍋島直正に声をかけます。
――当時、薩摩藩も島津斉彬のもと、科学技術の振興に力を入れていた。
「肥前どの。何かと気忙しき折だが、幼き頃の如く、ゆるりと話をしたいものだ。」
斉彬は、遠い昔を見遣るような目をした。
この2人、ともに母は、鳥取藩・池田家の姫君。
戦国からの武勇で知られる家系でつながった“母方のいとこ”なのである。
「聡明なる薩摩さまには、様々なことをお教えいただいた。」
子供の頃は“貞丸”という名で、好奇心旺盛な若君だった、直正。

――島津斉彬は“年上のいとこ”である。幼い頃は、母方のつながりで一緒に遊んだりしている。
西洋の文物にも詳しい斉彬は、直正にも影響を与えたのだ。
「いまや肥前(直正)から教わることも多い。おかげで、“炉”も用を成しておる。」
「それは、良うございました。」
この頃、薩摩の反射炉は、佐賀に続く2番手で実用化されていた。少しとぼけて答えているが、その影には直正の動きがある。
――佐賀が翻訳した“虎の巻”(技術書)の提供など、薩摩には協力を行っていたようだ。
「“西洋人も…佐賀人も同じ人間だ!お主らにも出来ぬはずが無い!”…と。家来たちには、随分な無理を申した。」
島津斉彬が、苦笑しながら語る。
当時、佐賀には“精錬方”という理化学の研究所があるが、薩摩では“集成館”という西洋式の工場の事業を進めていた。
「いや…大船建造など、ぜひ薩摩から学びたいと思うております。」
そう言うと、鍋島直正は、少し真剣な表情に戻った。
造船においては、薩摩に一日の長があるようだ。薩摩は琉球(沖縄)付近で、事実上の対外貿易を行っている。外洋航海にも慣れているのだ。
――このように幕末の近代化は、佐賀と薩摩の“いとこ”同士で競い合って牽引していた。
「そうだ!薩摩の“紅びいどろ”も、ご覧に入れたい。」
島津斉彬には、人を惹きつける魅力がある。直正も、いつになく楽し気である。
この“紅びいどろ”は、赤の色味が映えるガラス工芸品“薩摩切子”へと発展した。
「“吉之助”に、肥前の屋敷へ持たせても良いが…いかん、あの男、いま江戸におらぬな。」
この頃、斉彬は、西郷吉之助という側近を伝令役として方々に走らせていた。薩摩の殿による御遣い(おつかい)にも、随分と遠方のものがあるらしい。

――この斉彬の側近・吉之助が、のちに西郷隆盛である。大柄のわりに、よく小回りの効く者であった。
「薩摩さま、御自慢の“紅びいどろ”なれば、ご一緒に見とうございますな。」
鍋島直正、斉彬とゆっくり話をする機会を持ちたい様子だ。
「肥前どの…嬉しいことを言う。」
「その際は、華麗な薩摩の品には及びませぬが、肥前の“びいどろ”(ガラス)もお持ちしましょう。」
とくに火薬などの調合には“化学実験”が重要なため、佐賀藩でもビーカーやフラスコなどガラス加工品を製造していた。
――その伝統は、佐賀の“肥前びいどろ”として、現代にも続く。
「楽しみなことだ。」
斉彬は、愉快そうに笑った。
「ご壮健な様子で、安堵いたしました。必ずや、お伺いいたしましょう。」
直正は、斉彬との再会を約束した。
地道な調整で、幕府や諸大名をまとめ上げた老中・阿部正弘はもういない。
しかし、直正は、ともに日本の近代化を進めて、国を守る“同志”がいることに、心強い想いをしたのである。
(続く)
前回は、老中・阿部正弘の急逝の一報が届いた様子を描きました。原因については諸説あるようで、有力な説の1つが、幕政の中心で働き詰めだったことによる…いわゆる“過労死”だそうです。
英明と評判の一橋慶喜を将軍として、有力な諸大名が幕府のもとに集まる。これが“一橋派”の目指す新しい国家の姿でした。
“一橋派”に好意的だった老中・阿部正弘。その援護を期待していた、“一橋派”にとっては大打撃です。そんな中、派閥の主軸の1人である薩摩(鹿児島)の島津斉彬が、鍋島直正に声をかけます。
――当時、薩摩藩も島津斉彬のもと、科学技術の振興に力を入れていた。
「肥前どの。何かと気忙しき折だが、幼き頃の如く、ゆるりと話をしたいものだ。」
斉彬は、遠い昔を見遣るような目をした。
この2人、ともに母は、鳥取藩・池田家の姫君。
戦国からの武勇で知られる家系でつながった“母方のいとこ”なのである。
「聡明なる薩摩さまには、様々なことをお教えいただいた。」
子供の頃は“貞丸”という名で、好奇心旺盛な若君だった、直正。
――島津斉彬は“年上のいとこ”である。幼い頃は、母方のつながりで一緒に遊んだりしている。
西洋の文物にも詳しい斉彬は、直正にも影響を与えたのだ。
「いまや肥前(直正)から教わることも多い。おかげで、“炉”も用を成しておる。」
「それは、良うございました。」
この頃、薩摩の反射炉は、佐賀に続く2番手で実用化されていた。少しとぼけて答えているが、その影には直正の動きがある。
――佐賀が翻訳した“虎の巻”(技術書)の提供など、薩摩には協力を行っていたようだ。
「“西洋人も…佐賀人も同じ人間だ!お主らにも出来ぬはずが無い!”…と。家来たちには、随分な無理を申した。」
島津斉彬が、苦笑しながら語る。
当時、佐賀には“精錬方”という理化学の研究所があるが、薩摩では“集成館”という西洋式の工場の事業を進めていた。
「いや…大船建造など、ぜひ薩摩から学びたいと思うております。」
そう言うと、鍋島直正は、少し真剣な表情に戻った。
造船においては、薩摩に一日の長があるようだ。薩摩は琉球(沖縄)付近で、事実上の対外貿易を行っている。外洋航海にも慣れているのだ。
――このように幕末の近代化は、佐賀と薩摩の“いとこ”同士で競い合って牽引していた。
「そうだ!薩摩の“紅びいどろ”も、ご覧に入れたい。」
島津斉彬には、人を惹きつける魅力がある。直正も、いつになく楽し気である。
この“紅びいどろ”は、赤の色味が映えるガラス工芸品“薩摩切子”へと発展した。
「“吉之助”に、肥前の屋敷へ持たせても良いが…いかん、あの男、いま江戸におらぬな。」
この頃、斉彬は、西郷吉之助という側近を伝令役として方々に走らせていた。薩摩の殿による御遣い(おつかい)にも、随分と遠方のものがあるらしい。

――この斉彬の側近・吉之助が、のちに西郷隆盛である。大柄のわりに、よく小回りの効く者であった。
「薩摩さま、御自慢の“紅びいどろ”なれば、ご一緒に見とうございますな。」
鍋島直正、斉彬とゆっくり話をする機会を持ちたい様子だ。
「肥前どの…嬉しいことを言う。」
「その際は、華麗な薩摩の品には及びませぬが、肥前の“びいどろ”(ガラス)もお持ちしましょう。」
とくに火薬などの調合には“化学実験”が重要なため、佐賀藩でもビーカーやフラスコなどガラス加工品を製造していた。
――その伝統は、佐賀の“肥前びいどろ”として、現代にも続く。
「楽しみなことだ。」
斉彬は、愉快そうに笑った。
「ご壮健な様子で、安堵いたしました。必ずや、お伺いいたしましょう。」
直正は、斉彬との再会を約束した。
地道な調整で、幕府や諸大名をまとめ上げた老中・阿部正弘はもういない。
しかし、直正は、ともに日本の近代化を進めて、国を守る“同志”がいることに、心強い想いをしたのである。
(続く)
Posted by SR at 20:33 | Comments(0) | 第13話「通商条約」
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