2020年07月04日

「主に小城市民の方を対象にしたつぶやき」

こんばんは。
幕末佐賀4つの“口”」をテーマに、県内の皆様につぶやくシリーズ。第4弾は、小城市に設定してみました。

さて、残る1つは“松前口”です。江戸時代、蝦夷地(北海道)のアイヌ民族との交易は、主に松前藩が仕切っていました。

そして、幕末期佐賀と蝦夷地(北海道)との関わりは、“本編”でも書き始めています。のちに大都市・札幌を創る“団にょん”こと島義勇冒険を描きました。
〔参考:第11話「蝦夷探検」⑩(“開拓神”の降臨)


――この内容ならば、“つぶやき”にしなくても“本編”で書けますね…

今日は“変化球”を投じます。まずは現代の佐賀へ。

佐賀玉屋さんです。

北海道物産展”が、人気イベントであると聞いています。催事は百貨店ならではの“得意技”でしょう。

「主に小城市民の方を対象にしたつぶやき」

――私は佐賀に“帰藩”すると、地下の食料品売り場(玉ちか)によく立ち寄ります。

そのとき、“北海道のお菓子”が並ぶ一角を見て、思いました。
北海道名産の販売と“団にょん”の偉業アピールを繋げないものか」と。

…残念ながら、現時点では島義勇記念館は無いのです。
将来的に佐賀ではなく、札幌に記念館ができる可能性もありそうですが…

私は、いつも慌ただしく“帰藩”を終えます。そのときの“佐賀みやげ”の中には、なぜか“北海道キャラメル”が混ざることとなりました。
全国各地名産の“目利き”は、百貨店のバイヤーさんの得意とするところと聞きます。


――いま地方の百貨店業界には厳しい状況が続いているようです。

時代を経て、消費行動(ショッピング)の選択肢は激増しました。

個人的には「わざわざ足を運んでしまう百貨店が存在してほしいという想いがあります。
「主に小城市民の方を対象にしたつぶやき」

――ちなみに佐賀玉屋のルーツ、田中丸商店が創業したのは、現在の小城市・牛津の地。

JR長崎本線牛津駅
レンガ駅舎にかかる謎のスローガン(?)看板

「牛津・津でもち、駅でもつ、町の栄えは店でもつ」

…看板の言葉。気になってはいたのですが、とくに調べてはいませんでした。
そして、理由がわかりました。


――江戸から明治にかけて、商売の街として栄えた牛津

西の浪速…」との異名まであったようです。
浪速”は、大阪(江戸時代は大坂)の古い呼び名ですね。

江戸期の大坂は“天下の台所”と呼ばれ、経済的な意味では、日本一の都市。
小城街並みは、今でも“小京都”と呼ばれますが、牛津の活気は“大坂”に例えられたようです。


――1806年。初代・田中丸善蔵が、呉服商・田中丸商店(玉屋のルーツ)を立ち上げます。

ここから数えれば、すでに創業200年を超えている、玉屋さん。2018年が“明治維新150年”でしたから、堂々、江戸時代からの老舗です。

参考に“田中丸商店”が創業した頃の、佐賀藩の状況にも触れておきます。

創業2年前1804年にはロシアの提督レザノフ長崎に来航

→このとき佐賀藩は千人体制で警備を敷きます。幕府がまともに交渉に応じなかったので、レザノフ蝦夷地近辺で暴れます。

創業2年後1808年にはイギリスフェートン号長崎に侵入

→このとき佐賀藩は勝手に警備を減らしていて、幕府に厳しく処罰されます。“本編”では第1話を、ここに設定しています。

〔参考:第1話「長崎警護」④
「主に小城市民の方を対象にしたつぶやき」

――激動の時代を駆け抜けたのは、武士だけではありません。

幕末日本では盛んに海上輸送が行われていました。

蝦夷探検」で、よく語られる“販路開拓”は、この海上ルートと深く関わります。
北前船と呼ばれた大型帆船による輸送は、全国の特産各地に流通させました。

例えば、蝦夷地(北海道)の昆布が、富山で消費され、北の漁場でとれたニシンを遣った蕎麦(そば)が京都で名物になる…といった具合です。

日本海側から瀬戸内海を回って、大坂に至る“西廻り航路”は、のちに蝦夷地から大坂までを結ぶことになります。
当時、海上輸送物流の主役でした。商人たちは、各地の港から港へ特産売買をしていったのです。


――のちに佐野常民は、海外に陶磁器の販路を求めたり、見本市で産業を活性化したりします。

江藤新平貿易部門のお仕事に就いていますし、大隈重信長崎で「蝦夷地の昆布」の取引を行い、藩の収益に貢献したようです。

特産開発販路開拓は、藩の財政を潤します。
そのため、意外と商売熱心佐賀藩士たち…


――“商都”牛津。九州で“西の大坂”とも呼ばれた、長崎街道の宿場町。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、熱田(愛知)の賑わいが描写されていました。
「幕末佐賀藩の大河ドラマ」では、活気あふれる商都牛津を見てみたいものです。

…ちなみに第12話海軍伝習」では、佐賀藩48名もの大人数で、精鋭を“長崎海軍伝習所”に送り込みます。

普段から当ブログをお読みの方なら、「佐賀城下から長崎に向かった!」とか描写するたびに、長崎街道牛津宿を通過していくイメージお持ちいただくと面白い…かもしれません。


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Posted by SR at 21:57 | Comments(0) | 各地域の皆様へのつぶやき
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