2019年12月29日

「大隈重信」(賢人その7)<後編>

こんばんは。

本日で人物紹介編は、ひとまず最終回
大隈重信様の後編をお送りします。

<基礎情報>

佐賀七賢人最年少。ポジティブ思考の“末っ子”は国民的人気者

明治初期に財政の責任者“大蔵卿”として通貨単位を“”に定める。

・後に内閣総理大臣にも2回就任。聴衆を引き付ける演説に定評あり。

「大隈重信」(賢人その7)<後編>

<エピソード>

佐賀藩で“砲術”を担当する上級武士の家に生まれ、元気な子に育つ。
 上が姉2人の長男。教育熱心だったから強い期待を受ける。

藩校では人気者過ぎて、の先輩たちが“大隈”の争奪戦を起こす。
 大隈退学となるが、かえって蘭学への道が開ける幸運に恵まれる。

幕末長崎で藩の英学校を運営し、尊王活動を行う他藩の志士と交流。
 貿易外国との交渉に関わり、新政府で活躍する道を開くことになる。

「大隈重信」(賢人その7)<後編>
※大隈の生家(佐賀市水ケ江)

 
<キャラクター>

・藩校や枝吉神陽門下の先輩と関わる。母は来客への食事の提供を惜しまず
 大隈家は優秀な先輩の溜まり場に。高いレベルでの学問が可能になった。

・明治政府で活躍する大隈私邸も、政治家官僚集まる場となる。
 政策の議論を大隈家で行うため客人は常に多数。が家を仕切り、活躍。

先輩たちから様々な志を受け継いだ“末っ子”は日本の近代化に突き進む。
 次々と現れる困難を乗り越え“国民”の希望を集める存在へと成長していく。


<象徴的な“お言葉”>

――同郷(佐賀)の先輩を失っても、陰謀で政府から追放されても、爆弾テロに遭っても…常に前向き大隈の一言。
「人間、125才までは生きられるんである。」

…さすがに、その年齢には届きませんでしたが、大隈先生は長生きしました。

以上が、大隈 重信様についての報告です。
超ポジティブな政治家”は、近代に目覚めた“国民”の人気者になります。


…ちなみに大隈様が政府を追放されたとき「誰も大隈に手を貸すな」と方々に圧力がかけられていました。

 そのとき、手を差し伸べたのが、旧佐賀藩主・鍋島 直大様。
 である鍋島 直正様が亡くなる前に「大隈は我が家にとって大事な者。何かあれば助けよ」と遺言していたそうです。

 徹底して内戦を避けるため、幕末の政局に関わらなかった“殿鍋島 直正様。
 若き日の大隈は、慎重な“殿”にイライラしていたようですが、このときに自分がどれほど愛され、期待されていたかを知ったことでしょう。

このように“佐賀の七賢人”は1つの物語でつながっていくような感覚を持っています。



同じカテゴリー(人物紹介編(C))の記事画像
「大隈重信」(賢人その7)<前編>
「江藤新平」(賢人その6)<後編>
「江藤新平」(賢人その6)<前編>
「大木喬任」(賢人その5)<後編>
「大木喬任」(賢人その5)<前編>
「副島種臣」(賢人その4)<後編>
同じカテゴリー(人物紹介編(C))の記事
 「大隈重信」(賢人その7)<前編> (2019-12-28 19:53)
 「江藤新平」(賢人その6)<後編> (2019-12-27 23:34)
 「江藤新平」(賢人その6)<前編> (2019-12-26 22:03)
 「大木喬任」(賢人その5)<後編> (2019-12-25 22:53)
 「大木喬任」(賢人その5)<前編> (2019-12-24 22:21)
 「副島種臣」(賢人その4)<後編> (2019-12-23 22:20)

Posted by SR at 19:45 | Comments(0) | 人物紹介編(C)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。