2024年01月15日
「幕末娘の“推し活”」
こんばんは。
最近、好きな芸能人等を「推し」という表現で語るのをよく聞きます。年末年始のテレビ番組やネット配信、貴方の“推し”は元気な姿を見せたでしょうか。
ちなみに「“推し”がいるから、日常でも頑張れる!」と好きなアイドル等の応援に励むことを「推し活」というそうです。
ところで、幕末の黎明期だった文化・文政年間(1804年~1830年)。
当時は佐賀藩の諫早領だった、現在の佐賀県太良町あたりに、幕末の村娘たちのアイドルだったという、伝説の美少年がいました。

――題材は、佐賀県の民謡・『岳(たけ)の新太郎さん』
佐賀県内の若い方でも、この民謡の存在は知っているが、古い歌だと思っている人が多いのではないでしょうか。
幾度か語っていますが、角度を変えてまた書きます。「けっこう現代っぽい感覚の歌なんです…」という視点で、今回は、この民謡そのものを説明してみます。
民謡といえば、希望の見えない、辛い日々の労働などを歌い込んだ「日本版“ブルース”」のような曲も多いと思います。
まだまだ江戸時代だった幕末黎明期を題材とした、この佐賀県民謡。

現在の形になったのは、後年かもしれませんが、当時の佐賀県の女子たちが、陽気な“ラブソング”とともに生きていたことを感じさせるのです。
しかも“ラブソング”とはいっても、彼女たちの妄想のような歌で、それも現代的な感じがします。
――「アイドルを、“出待ち”するファンの歌」みたいなものでしょうか。
でも、まずは時代背景を考えます。当ブログを熱心にお読みいただいている方ならば、この話題にもそこそこ関心を持っていただけるはず…
1804年 ロシアのレザノフが長崎に来航 幕府に通商を迫る
→佐賀藩は、千人体制で長崎港の警備を固める

1808年 イギリスのフェートン号が長崎港に侵入
→佐賀藩は、出費を嫌がって長崎に警備隊をおいておらず厳重処罰される
1814年 のちの第10代佐賀藩主・鍋島直正 江戸の藩邸で誕生する
1825年 幕府が異国船打払令を出す
→佐賀藩は、その前年に長崎警備を熊本藩に押しつけようとして失敗
“名君”の就任前なので、佐賀藩は財政難に苦しみ、迷走している時期です。出費が嵩む長崎警備をどうにかしたい…という辺りに、時代が出ています。

年表から20年くらい後には、次の殿様・鍋島直正が「佐賀藩の独力でも長崎を守ってみせる!」と、すごい責任感で港の入口を要塞化するのですが…
幕府から異国船打払令が出た時期には、日本の表玄関である、長崎の警備から手を引いて(熊本に押しつけて)、パスしようとしています。
――こんな激動の時代に「アイドルの出待ちソング」とは。
ここでも、「やはり佐賀は最先端だった…」と言えるのかもしれません。
多良岳の山頂にある金泉寺、ここが寺侍だった“岳の新太郎さん”の勤務地。修験道の霊峰と聞く多良岳。
厳しい修行の場である、その寺も当時は女人禁制でした。
かくして、幕末のハンサム侍である“岳の新太郎さん”の姿を見たい女子たちは、自分たちからその姿を見に行くことはできません。

――月に幾度だけ用務のために、山から下りてくる“岳の新太郎さん”
イメージとして示されるのは、涼しげな顔立ちに、どこか神々しい美少年。下山のときは、会いたくても会えないアイドルの“ご尊顔”を拝むチャンス。
アイドルが登場した時、歓声とともに「尊(とうと)い~!」とペンライトを振る、現代の女子の姿が重なるようです。
彼女たちの感情は、ザンザザンザ…という擬音で表されます。これは、乙女の気持ちの高鳴りを、近隣に多くあった水車の音に喩えたものと聞きました。

――稀(まれ)に見られる、その“アイドル”の姿は…
「色者(イロシャ)の粋者(スイシャ)」と表現されています。
年若くして、女人禁制の寺に勤める、寺侍の“岳の新太郎さん”。山に籠もっているときには、おそらく女性と関わる機会は無いはず。
それが触れてはいけない禁断の香りを漂わせるのか、ただのモテ男とは違う、清廉さと神秘性を醸し出しています。
普段、見ることができないからこそ、その姿をはっきり見たい…

――彼女たちの妄想は、さらに強くなり…
“岳の新太郎さん”が来る時には、千の灯籠で周囲を照らし、帰ろうとする時には道に水をかけてでも、歩みを遅らせる…
少しでも長く“アイドル”の姿を見ていたいという、気持ちの表現なのでしょう。
「岳の新太郎さんの、来らすとよ~」とキャッキャする、当時の佐賀女子たちのざわめきが目に浮かぶようです。
その歌詞は「竿じゃ届かぬ、高木の熟柿」と続き、その存在が“高嶺の花”であったことが表現されています。
――おそらくは、その思いは思いのままで…
歌詞には続きがあるそうで、「傘を忘れた、山茶花の茶屋」に「空が曇れば思い出す…」と、何だか叙情的で、歳月を経た回想のような印象を感じます。

ちなみに、「山茶花(さざんか)茶屋」で調べると、県境を越えた長崎県諫早市に、その跡地の情報が出てきました。実は、近代へと続く道『多良海道』…。
そこは、また語るとして、時は流れ“アイドル”に熱狂した、若き日々の後にも、きっと、彼女たちの人生は続いていきます。
私の解釈は中途半端なので、その正確さはともかく、あらためて歌詞を追うと、とても現代的な民謡という感想を得ました。
――先ほどの“歴史年表”から3年ほど後、
1828年には、子年の大風(シーボルト台風)が発生。現在の太良町内では、灯台が倒れるほどの威力の風が吹き、大きな被害が出たことが伝わります。

私は感情移入しやすいので、“岳の新太郎さん”に熱狂した彼女たちは、無事だったのだろうか…ということも考えます。
財政難の折、台風でさらに大きな被害を受けた佐賀藩。こうして、迷走のうちに文政年間が終わっていきます。
そして、天保元年(1830年)には数え年で17歳。若き藩主となった鍋島直正が佐賀を率いることになり、新しい時代が進んでいきます。
――“本編”の第20話「長崎方控」では、
この佐賀県民謡の要素を、少し取り込んでいこうかと考えています。
「もっと、佐賀を語っていこう」というのは、今年のテーマでもあるので、どんな表現になるか…期待できそうな方は、気長にお待ちいただければ幸いです。
○過去の関連記事
(岳の新太郎さん)「主に太良町民の皆様を対象にしたつぶやき」
(多良海道の紹介)「佐賀と長崎をつなぐもの」〔諫早駅〕
(本編での多良海道)第16話「攘夷沸騰」⑭(多良海道の往還)
最近、好きな芸能人等を「推し」という表現で語るのをよく聞きます。年末年始のテレビ番組やネット配信、貴方の“推し”は元気な姿を見せたでしょうか。
ちなみに「“推し”がいるから、日常でも頑張れる!」と好きなアイドル等の応援に励むことを「推し活」というそうです。
ところで、幕末の黎明期だった文化・文政年間(1804年~1830年)。
当時は佐賀藩の諫早領だった、現在の佐賀県太良町あたりに、幕末の村娘たちのアイドルだったという、伝説の美少年がいました。
――題材は、佐賀県の民謡・『岳(たけ)の新太郎さん』
佐賀県内の若い方でも、この民謡の存在は知っているが、古い歌だと思っている人が多いのではないでしょうか。
幾度か語っていますが、角度を変えてまた書きます。「けっこう現代っぽい感覚の歌なんです…」という視点で、今回は、この民謡そのものを説明してみます。
民謡といえば、希望の見えない、辛い日々の労働などを歌い込んだ「日本版“ブルース”」のような曲も多いと思います。
まだまだ江戸時代だった幕末黎明期を題材とした、この佐賀県民謡。
現在の形になったのは、後年かもしれませんが、当時の佐賀県の女子たちが、陽気な“ラブソング”とともに生きていたことを感じさせるのです。
しかも“ラブソング”とはいっても、彼女たちの妄想のような歌で、それも現代的な感じがします。
――「アイドルを、“出待ち”するファンの歌」みたいなものでしょうか。
でも、まずは時代背景を考えます。当ブログを熱心にお読みいただいている方ならば、この話題にもそこそこ関心を持っていただけるはず…
1804年 ロシアのレザノフが長崎に来航 幕府に通商を迫る
→佐賀藩は、千人体制で長崎港の警備を固める

1808年 イギリスのフェートン号が長崎港に侵入
→佐賀藩は、出費を嫌がって長崎に警備隊をおいておらず厳重処罰される
1814年 のちの第10代佐賀藩主・鍋島直正 江戸の藩邸で誕生する
1825年 幕府が異国船打払令を出す
→佐賀藩は、その前年に長崎警備を熊本藩に押しつけようとして失敗
“名君”の就任前なので、佐賀藩は財政難に苦しみ、迷走している時期です。出費が嵩む長崎警備をどうにかしたい…という辺りに、時代が出ています。
年表から20年くらい後には、次の殿様・鍋島直正が「佐賀藩の独力でも長崎を守ってみせる!」と、すごい責任感で港の入口を要塞化するのですが…
幕府から異国船打払令が出た時期には、日本の表玄関である、長崎の警備から手を引いて(熊本に押しつけて)、パスしようとしています。
――こんな激動の時代に「アイドルの出待ちソング」とは。
ここでも、「やはり佐賀は最先端だった…」と言えるのかもしれません。
多良岳の山頂にある金泉寺、ここが寺侍だった“岳の新太郎さん”の勤務地。修験道の霊峰と聞く多良岳。
厳しい修行の場である、その寺も当時は女人禁制でした。
かくして、幕末のハンサム侍である“岳の新太郎さん”の姿を見たい女子たちは、自分たちからその姿を見に行くことはできません。
――月に幾度だけ用務のために、山から下りてくる“岳の新太郎さん”
イメージとして示されるのは、涼しげな顔立ちに、どこか神々しい美少年。下山のときは、会いたくても会えないアイドルの“ご尊顔”を拝むチャンス。
アイドルが登場した時、歓声とともに「尊(とうと)い~!」とペンライトを振る、現代の女子の姿が重なるようです。
彼女たちの感情は、ザンザザンザ…という擬音で表されます。これは、乙女の気持ちの高鳴りを、近隣に多くあった水車の音に喩えたものと聞きました。
――稀(まれ)に見られる、その“アイドル”の姿は…
「色者(イロシャ)の粋者(スイシャ)」と表現されています。
年若くして、女人禁制の寺に勤める、寺侍の“岳の新太郎さん”。山に籠もっているときには、おそらく女性と関わる機会は無いはず。
それが触れてはいけない禁断の香りを漂わせるのか、ただのモテ男とは違う、清廉さと神秘性を醸し出しています。
普段、見ることができないからこそ、その姿をはっきり見たい…
――彼女たちの妄想は、さらに強くなり…
“岳の新太郎さん”が来る時には、千の灯籠で周囲を照らし、帰ろうとする時には道に水をかけてでも、歩みを遅らせる…
少しでも長く“アイドル”の姿を見ていたいという、気持ちの表現なのでしょう。
「岳の新太郎さんの、来らすとよ~」とキャッキャする、当時の佐賀女子たちのざわめきが目に浮かぶようです。
その歌詞は「竿じゃ届かぬ、高木の熟柿」と続き、その存在が“高嶺の花”であったことが表現されています。
――おそらくは、その思いは思いのままで…
歌詞には続きがあるそうで、「傘を忘れた、山茶花の茶屋」に「空が曇れば思い出す…」と、何だか叙情的で、歳月を経た回想のような印象を感じます。
ちなみに、「山茶花(さざんか)茶屋」で調べると、県境を越えた長崎県諫早市に、その跡地の情報が出てきました。実は、近代へと続く道『多良海道』…。
そこは、また語るとして、時は流れ“アイドル”に熱狂した、若き日々の後にも、きっと、彼女たちの人生は続いていきます。
私の解釈は中途半端なので、その正確さはともかく、あらためて歌詞を追うと、とても現代的な民謡という感想を得ました。
――先ほどの“歴史年表”から3年ほど後、
1828年には、子年の大風(シーボルト台風)が発生。現在の太良町内では、灯台が倒れるほどの威力の風が吹き、大きな被害が出たことが伝わります。
私は感情移入しやすいので、“岳の新太郎さん”に熱狂した彼女たちは、無事だったのだろうか…ということも考えます。
財政難の折、台風でさらに大きな被害を受けた佐賀藩。こうして、迷走のうちに文政年間が終わっていきます。
そして、天保元年(1830年)には数え年で17歳。若き藩主となった鍋島直正が佐賀を率いることになり、新しい時代が進んでいきます。
――“本編”の第20話「長崎方控」では、
この佐賀県民謡の要素を、少し取り込んでいこうかと考えています。
「もっと、佐賀を語っていこう」というのは、今年のテーマでもあるので、どんな表現になるか…期待できそうな方は、気長にお待ちいただければ幸いです。
○過去の関連記事
(岳の新太郎さん)
(多良海道の紹介)
(本編での多良海道)