2022年02月25日
「みやき町から東に向かって先を読む。」
こんばんは。
第17話途中で投稿するつもりが、掲載を延期していた「振り返りシリーズ」3本のうちの後編。
〔参照(前編):「伊万里から西に向かって振り返る。」〕
〔参照(中編):「佐賀の空を起点として振り返る。」〕
佐賀県・みやき町から“振り返る”…話を入れる予定でしたが、どちらかと言えば、今後の展開を“先読み”する内容になりました。
記事にすべき原稿のストックも無い、今こそ“書きどき”です。これから、どう話を進めるか…?今回は、私の試行錯誤も見えるかと思います。

――「いざ、みやき町。」
数々の大舞台で見せた「一本背負い」の清冽な感動とともに、今後も語り継がれるであろう、伝説の柔道家・古賀稔彦さんを育んだのが、現在のみやき町。
古賀選手が、少年期に足腰を鍛えたという“千栗(ちりく)八幡宮”の石段。栄光へと続く道だった、この階段を昇りきった者だけに見える景色があります。
…今回語りたいのは、福岡県久留米市方面へと広がる風景です。
“みやき町”の視点から見る話なので、あまりみやき町自体については充分に語れませんが、九州北部に続くスケールの大きい(!)展開を試みます。
――地図を参照しますと、意外と久留米の市街地が近い。
2年以上も佐賀に帰れていない私。現地で千栗八幡宮からの写真を撮影できるはずもありません。ここで県内在住の叔父上を頼るのは、いつもの通りです。
気になっていた素材の調達に感謝するとともに「叔父上、この石段を昇るのは大丈夫だったのか…!?」と心配になるところも。
しかし、新型コロナ禍における都市生活の中で自粛を重ね、身体能力が低下の一途をたどる私と違って、叔父上は佐賀で日々に自然と親しんでいます。
電話した感じ、叔父上も平気そうなので、ひとまず「心配、ご無用!」と思っておくことにします。

――「いや、ここは久留米に向かった話に集中せねば。」
「幕末佐賀藩の大河ドラマ」で、久留米を語れば初代・“からくり儀右衛門”こと田中久重の名を語ることになるでしょう。
最近は“本編”での登場機会が少ないのですが、久留米のご出身の方です。佐賀の大河ドラマで描く時には、福岡県出身の俳優さんに…と思うところ。
技術者としての腕を活かし、京都で活躍。“蘭学”にも親しみ、そこで佐賀藩の佐野常民(栄寿)と出会ったそうです。
〔参照(後半):第7話「尊王義祭」⑨〕
――幕末期には、福岡の勤王志士に強い影響を与える人物が。
第17話で福岡の志士として久留米藩の真木和泉(保臣)の名も挙げました。みやき町との県境もほど近い、久留米“水天宮”の神官だったようです。
江藤新平が、佐賀を発つまでを書いた第17話の最終記事。現・福岡県にあたる地域の志士たちの存在に触れています。
〔参照(中盤):第17話「佐賀脱藩」㉑(郷里を背に)〕
文久元年(1861年)頃。現在の福岡県の北部(筑前)・南部(筑後)の志士たちは薩摩藩(鹿児島)とよく関わっています。
ところが文久二年四月。志士たちが活動する京都・伏見を舞台に、薩摩藩の凄惨な同士討ちとなる事件“寺田屋騒動”が起きました。
〔参照(中盤):「新キャストを考える④」(“絶望”を越えて行け)〕

――この事件が“福岡の志士たち”に暗い影を落とすことに。
江藤が佐賀を出たのは“騒動”の2か月ほど後。第18話で、この事件の余波をどう表現するかは検討中です。
事件の少し前には“義祭同盟”を率いる枝吉神陽との連携を求め、真木和泉は息子・主馬を佐賀に派遣していたようです。
本編で幾度か登場した福岡藩・平野国臣、お名前だけの紹介になった秋月藩・海賀宮門も、同時期に佐賀に来訪しています。
そして福岡の志士たちの意見に理解は示すものの、佐賀の志士たちの師匠・枝吉神陽は慎重でした。なぜか、動こうとしないのです。
〔参照(後半):第17話「佐賀脱藩」⑨(佐賀に“三平”あり)〕
――「もしや、神陽先生はこの展開を懸念した…?」と思う話が続きます。
先ほどの京都・伏見での事件により、連携した薩摩藩の“尊王攘夷”急進派は粛清され、巻き込まれた福岡の志士たちは、壊滅的な打撃を受けました。
秋月藩の海賀宮門という方の名は最近知りました。20代後半だったそうです。最後が悲劇的過ぎて志半ばに歴史の表舞台から去る無念を思わせます。
事件後、久留米藩の真木和泉は次第に長州藩(山口)に接近しますが、ここからも壮絶でした…
――あまり語られない印象の“福岡の幕末”。
お気付きの方も多いと思いますが、先ほどから薩摩(鹿児島)の存在が繰り返し出ており、“尊王攘夷”の活動には長州(山口)との関わりが見えます。
私が“本編”を書く速度から薩長が同盟を組むのは、相当先になりそうですが、「薩長同盟”の萌芽は“福岡”にあった」旨の見解もあり、考えさせられます。

――政局から出遅れた佐賀藩が、なぜ“薩長土肥”の一角となり得たか。
これも先の展開になりますが、大木喬任(民平)・江藤新平ら、佐賀の志士は久留米にも出向いています。
今までも佐賀藩における“近代化”の源泉が、「西洋(技術)への窓口」だった西の隣県・長崎にあったことは、よく語っています。
こうして技術的には“最先端”だったものの、明治維新に向けた“政治闘争”では目立った動きの見えづらい佐賀藩。
それを補う「国内(政局)への窓口」が、東の隣県・福岡での情報収集だったとすると…
――「佐賀が、佐賀であるために…(!)」。
やはり東に福岡・西に長崎が存在することが、必然だったのかもしれません。
佐賀の皆様には、福岡・長崎のいずれか、あるいは両県にご親戚が居られるという方々も多いでしょう。
「幕末佐賀藩の大河ドラマ」が実現すれば、九州北部を舞台として展開する、新しい幕末史の見え方も開かれるはず。
福岡県・長崎県の皆様にも共感できるところがあって、親戚の集まりで話題となる…ような「佐賀の物語」が作れればと思っています。
第17話途中で投稿するつもりが、掲載を延期していた「振り返りシリーズ」3本のうちの後編。
〔参照(前編):
〔参照(中編):
佐賀県・みやき町から“振り返る”…話を入れる予定でしたが、どちらかと言えば、今後の展開を“先読み”する内容になりました。
記事にすべき原稿のストックも無い、今こそ“書きどき”です。これから、どう話を進めるか…?今回は、私の試行錯誤も見えるかと思います。
――「いざ、みやき町。」
数々の大舞台で見せた「一本背負い」の清冽な感動とともに、今後も語り継がれるであろう、伝説の柔道家・古賀稔彦さんを育んだのが、現在のみやき町。
古賀選手が、少年期に足腰を鍛えたという“千栗(ちりく)八幡宮”の石段。栄光へと続く道だった、この階段を昇りきった者だけに見える景色があります。
…今回語りたいのは、福岡県久留米市方面へと広がる風景です。
“みやき町”の視点から見る話なので、あまりみやき町自体については充分に語れませんが、九州北部に続くスケールの大きい(!)展開を試みます。
――地図を参照しますと、意外と久留米の市街地が近い。
2年以上も佐賀に帰れていない私。現地で千栗八幡宮からの写真を撮影できるはずもありません。ここで県内在住の叔父上を頼るのは、いつもの通りです。
気になっていた素材の調達に感謝するとともに「叔父上、この石段を昇るのは大丈夫だったのか…!?」と心配になるところも。
しかし、新型コロナ禍における都市生活の中で自粛を重ね、身体能力が低下の一途をたどる私と違って、叔父上は佐賀で日々に自然と親しんでいます。
電話した感じ、叔父上も平気そうなので、ひとまず「心配、ご無用!」と思っておくことにします。
――「いや、ここは久留米に向かった話に集中せねば。」
「幕末佐賀藩の大河ドラマ」で、久留米を語れば初代・“からくり儀右衛門”こと田中久重の名を語ることになるでしょう。
最近は“本編”での登場機会が少ないのですが、久留米のご出身の方です。佐賀の大河ドラマで描く時には、福岡県出身の俳優さんに…と思うところ。
技術者としての腕を活かし、京都で活躍。“蘭学”にも親しみ、そこで佐賀藩の佐野常民(栄寿)と出会ったそうです。
〔参照(後半):
――幕末期には、福岡の勤王志士に強い影響を与える人物が。
第17話で福岡の志士として久留米藩の真木和泉(保臣)の名も挙げました。みやき町との県境もほど近い、久留米“水天宮”の神官だったようです。
江藤新平が、佐賀を発つまでを書いた第17話の最終記事。現・福岡県にあたる地域の志士たちの存在に触れています。
〔参照(中盤):
文久元年(1861年)頃。現在の福岡県の北部(筑前)・南部(筑後)の志士たちは薩摩藩(鹿児島)とよく関わっています。
ところが文久二年四月。志士たちが活動する京都・伏見を舞台に、薩摩藩の凄惨な同士討ちとなる事件“寺田屋騒動”が起きました。
〔参照(中盤):

――この事件が“福岡の志士たち”に暗い影を落とすことに。
江藤が佐賀を出たのは“騒動”の2か月ほど後。第18話で、この事件の余波をどう表現するかは検討中です。
事件の少し前には“義祭同盟”を率いる枝吉神陽との連携を求め、真木和泉は息子・主馬を佐賀に派遣していたようです。
本編で幾度か登場した福岡藩・平野国臣、お名前だけの紹介になった秋月藩・海賀宮門も、同時期に佐賀に来訪しています。
そして福岡の志士たちの意見に理解は示すものの、佐賀の志士たちの師匠・枝吉神陽は慎重でした。なぜか、動こうとしないのです。
〔参照(後半):
――「もしや、神陽先生はこの展開を懸念した…?」と思う話が続きます。
先ほどの京都・伏見での事件により、連携した薩摩藩の“尊王攘夷”急進派は粛清され、巻き込まれた福岡の志士たちは、壊滅的な打撃を受けました。
秋月藩の海賀宮門という方の名は最近知りました。20代後半だったそうです。最後が悲劇的過ぎて志半ばに歴史の表舞台から去る無念を思わせます。
事件後、久留米藩の真木和泉は次第に長州藩(山口)に接近しますが、ここからも壮絶でした…
――あまり語られない印象の“福岡の幕末”。
お気付きの方も多いと思いますが、先ほどから薩摩(鹿児島)の存在が繰り返し出ており、“尊王攘夷”の活動には長州(山口)との関わりが見えます。
私が“本編”を書く速度から薩長が同盟を組むのは、相当先になりそうですが、「薩長同盟”の萌芽は“福岡”にあった」旨の見解もあり、考えさせられます。
――政局から出遅れた佐賀藩が、なぜ“薩長土肥”の一角となり得たか。
これも先の展開になりますが、大木喬任(民平)・江藤新平ら、佐賀の志士は久留米にも出向いています。
今までも佐賀藩における“近代化”の源泉が、「西洋(技術)への窓口」だった西の隣県・長崎にあったことは、よく語っています。
こうして技術的には“最先端”だったものの、明治維新に向けた“政治闘争”では目立った動きの見えづらい佐賀藩。
それを補う「国内(政局)への窓口」が、東の隣県・福岡での情報収集だったとすると…
――「佐賀が、佐賀であるために…(!)」。
やはり東に福岡・西に長崎が存在することが、必然だったのかもしれません。
佐賀の皆様には、福岡・長崎のいずれか、あるいは両県にご親戚が居られるという方々も多いでしょう。
「幕末佐賀藩の大河ドラマ」が実現すれば、九州北部を舞台として展開する、新しい幕末史の見え方も開かれるはず。
福岡県・長崎県の皆様にも共感できるところがあって、親戚の集まりで話題となる…ような「佐賀の物語」が作れればと思っています。
Posted by SR at 23:19 | Comments(0) | 佐賀への道
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